罪名:無辜

姫夕梨 一葉

第一話

彼女が、こちらに迫ってきた。

しかしそのまま立ち止まらずに傍を通り過ぎ、冷凍庫を開け、冷え切った金属製のタンブラーを取り出す。

そのタンブラーの中に水道水を勢いよく注ぐ。そこから跳ねた水飛沫が彼女の紺色のジャージに飛び、少し染みる。

そして鳴り響くのは、人間の喉を液体が通る音。

それ以外に聞こえるのは、冷蔵庫が動くウーという小さい音と、秒針が傾く音。

外を見ると、女性が話している光景が見えるが、窓越しにその音は聞こえない。

一人、彼女はキッチンで水を飲む。

その彼女の名は纐纈 雨音。

いつも彼女は、毎月決まった時間に水を飲む。

その水を飲み干すと、キッチンの掃除を始める。この時間だと日光が部屋の中に入るので、部屋に明かりはついていない。

まずコンロ。先月忙しく掃除していなかったため、焦げなどで酷く、黒く汚れていた。そこに中性食器用洗剤をかけ、少し力を入れてメラミンスポンジでジャシジャシと擦る。汗を拭いながら、一生懸命に擦る。

一通り表面に金属光沢が戻ったようなので、細部の掃除に取り掛かった。バーナーキャップを毛先が開ききった歯ブラシでシャシュシャシュと磨き、汚れを取っていく。しかし中々取れなかったのだろうか。戸棚からクリームクレンザーを取り出し、それで汚れを取っていた。数十分した頃、彼女はコンロ掃除が終わったことを示すように「ふぅ。」という声を漏らした。

次は電子レンジ内。コーヒーを間違えて入れてしまったときに着いた汚れや油汚れなどが付いた壁面、天井。そこに酢を水で4倍程度に薄められたものを庫内に入れ、レンジを動かす。冷蔵庫より少し力強い、ヴ―という音を立てながらターンテーブルが回る。硫黄色の光が庫内を照らす。

それを横目に、彼女は別の場所の掃除を始める。冷蔵庫を開き、一通りの調味料や作り置き、ヨーグルトなんかを机の上に出す。

空になり、少し黄ばみの見えるようになった庫内を冷たい風を浴びながら湿った雑巾でフッ、フッと拭いていく。取れにくい汚れはフキュフキュと力を入れてくまなく落としていく。その間に電子レンジの庫内が暗転する。

そのまま冷蔵庫の掃除をして二十分ほど経っただろうか。庫内は白を取り戻した。そこに取り出したものを戻していく。独り暮らしをするにしては明らかに大きい冷蔵庫に。

そして放置されていたレンジをようやく開け、茶けた庫内を掃除する。焦げたようで焦げていないような、そんな色味の汚れが雑巾に付き、雑巾は元の白色を失っていく。始めは少しざらつきのある音だったが、次第にキュッキュといった艶のある音に変わっていった。

「なんか…疲れたな。」

今日、初めて彼女は言葉を発した。彼女にはおはようを言う相手がいない。正確には、今はいないといった方が正しいのだろうか。

冷蔵庫から出してそのままにしておいたペットボトル入りのコーヒーベースを先ほど水を飲んでいたタンブラーとは別の、プラスチック製のコップにトク、と少し注いだ後、そこに豆乳をちょぽちょぽと入れていき、銀製のスプーンでリビングのソファに移動しながらカコカコと音を立ててかき混ぜる。それを少しずつ、舌で回すように味わいながら飲んでいく。毎回同じコーヒーベースを使っているはずなのに、なぜか彼女はいつもこうやって味わいながら飲む。水は一気に喉を鳴らしながら飲むが、どう見ても飲み物ということには変わりないのにもかかわらずこだわるのは、何か理由があるからなのだろうか。


そして彼女は、今日も部屋へと向かう。


しかし部屋を前にして止まる。


呼吸を荒くし、その場にうずくまり、涙を流す。


そのうち、その場で気を失ったように眠ってしまう。


好きなものしかない部屋のはずなのに、彼女は拒絶する。


彼女がそうなったのは、つい1ヶ月ほど前の、白い太陽がかんかんと照りつける夏の話である。



―――ある日の夜二十時ごろ。彼女はいつものように、彼女の部屋に入った。そして数時間後、溜息をつきながら部屋を出て、ソファに倒れ込む。

その後、彼女はいつもスマホを握り締めて何かを見る。それを見ているときの彼女は、日によって表情が全く違う。喜んでいるのか思わず顔が綻んでいたり、辛いのか涙を流したり。

しかしその日は違った。スマホを少し見ていた彼女の顔は、酷く震えていた。その震えでバドン、と音を立てて手からスマホを落とす。保護フィルムを通り越して液晶画面に亀裂が走る。

「嘘…だ…嘘だ…嘘だ!嘘って言ってよ!誰か!ねぇ!ねぇ…!ねぇ…。嫌だ…」

割れた画面では何が彼女の目に映っていたのかが分からなかった。

だが見なくても分かることがある。


彼女は、彼女になれなくなったのだ。


―――一時間ほど経った頃、腫れきった瞼で彼女は目を覚ます。


そして大きく一つ、溜息をついてからソファへと戻る。


彼女はスマホを手に取った。しかしそこから光は発されず、暗いままであった。


スマホの電源をつけようとしても、手が震えて力が入っていないようだった。


新しくなったスマホには、傷一つついていない。


人間の心は、このスマホのようにお金で変えることはできない。


一点物で返品不可。補償もなければ修理にも出せない。


そんなものだ。

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