聖女は謎と恋に揺れる【第一部】
魚崎 依知子
プロローグ
重厚なドアを開こうとした侍者を引き止め、装束の乱れに手をやる。床で白く波打つ
甘草は
「念入りだな」
低めの声に視線をやると、隣で見下ろす兄が小さく鼻を鳴らした。白銀の毛並みを豊かに
「分かるでしょ、会議中の呼び出しよ? きっと何かあったんだわ」
「ありがとう、開けてください」
促した私に侍者は恭しく礼をして、中へ声を掛ける。入りなさい、と
兄と揃って中へ入り、ペンダントに触れながら少し腰を落とす。
「教皇聖下にご挨拶申し上げます」
「ああオリナ、そしてドルスもよく来てくれた。すまないね、大事な会議中なのは分かっていたのだが」
天井近くまである大きな窓を背後に、マホガニーの椅子へゆったりと腰を掛けた聖下が笑顔で迎え入れる。同じ白の一式を身に着けた私達の違いは、胸に下がるペンダントだ。聖下のそれは年季ものでくすんではいるが、金で作られている。
「大丈夫です、伝えるべきことは伝えましたので。あとは皆が首を横に振り続けるだけです」
ふふ、と笑んだ私に聖下も応えて笑んだ。
聖下は今年で七十二歳、一年を通して寒さ厳しいツァナフでは長寿の域だ。暖を取る術を持たぬ者達は強い酒に頼って五十で死に、暖を取れても酒に溺れる者達は六十で死ぬ。聖下を始めとした神力持ちが概ね長寿なのは、酒を口にしないからだろう。
「どうにも、
聖下が豊かな白髭を撫でながら視線を滑らすと、書記の机に控えていた侍者がタイプライターの手を止めて腰を上げる。ペンダントのない胸元に触れ挨拶をして、出て行った。記録に残せないような内容か。
促す手に応えてソファへ腰を下ろすと、兄も傍で凛々しく控えた。
聖下は腰を上げ、宙にちょちょいと何かを描いたあと杖を突きつつこちらへ来る。保護魔法は魔力を源にするが、そもそも保護や守護に関しては神力の方が上手だ。部屋全体を保護して気配も悟られぬようにすることくらい、聖下には簡単なことだろう。
「予想はついているだろうが、皇宮に関することだ」
聖下は向かいのソファへ腰を下ろし、背もたれのクッションを折り曲げて腰を支えた。神力が最も得意とするのは治癒で、できないのは運命に刻まれた病と死を覆すことだけだ。だから腰痛くらい楽に直せるが、聖下は老いに逆らう目的で力を使うのをよしとしない。
――老いが見せてくれる
私に神力が発現して教会に引き取られたのは、女子の成人より二年早い十三歳の時だ。五十四年ぶりに降ろされた聖女に、当時は大げさでなく国が揺れた。これまでは前任の死と共に現れていた後任が、ずっと現れていなかったからだ。
その原因を国名から「神聖」を取り除いた七一八六年のクーデターにあるとして、教皇派は何度となく兵を挙げて皇帝派とぶつかった。教皇派内では聖戦とも呼ばれている内乱だ。その五十年にも渡る戦いに終止符を打ったのが、新たな聖女である私だった。
聖下は寄せられる期待と圧に押し潰されそうだった私を引き取り、以来五年、惜しみなく全てを与えて育ててくださっている。
「ウルミナ様は、よく知っているな?」
「はい。近年は亡きユーリ皇子への祈りを私が行っておりますし、お話もいたしました」
ウルミナは教皇派筆頭であるナタルスク家の嫡女で、十八歳の時に妾として皇宮へ迎え入れられた。内乱真っ只中に行われた教皇派の引き入れには、当然ながら一悶着があったらしい。神の教えは一夫一妻だから、教会も大きく揺れたはずだ。
しかしウルミナはその翌年、皇女しかいなかった皇室に待望の皇子をもたらし周囲を黙らせた。国は、新たな希望に湧き立った。でも。
「ツァナフの望み」とも呼ばれた皇子、ユーリは僅か三歳でその命を終えた。彼の死因は公にされていないものの、噂はある。
――ユーリは毒殺されたの、皇后に。間違いないわ、あの女が殺したの!
喪服に身を包んで教会へ訪れるウルミナの訴えはずっと、私が祈りを担当するようになってからも変わっていない。そして、手放すことも望まない。東方の血を引くナタルスク家らしい黒髪と柔らかな灰色の瞳が美しい、
「今朝、お亡くなりになった。殺害されたそうだ」
予想外の訃報に、視線を上げる。
「先程、ナタルスク家から連絡が届いた。皇宮法務局の人間は皇帝派ばかりだから、向こうに不利な証拠は握り潰されてしまう可能性があると。教皇派で信頼の置ける者を捜査へ加わらせて欲しいとのことだった」
その訴えは理解できるが、なぜ私なのだろう。思わず向けてしまった不安な視線に、兄も戸惑った様子で頷く。
「聖下」
控えめに口を開いた兄に、聖下は枯れた手をもたげて先を止めた。
「オリナ。私は、君が何を成したかを知っている。そのためにどれほど傷ついたかも」
穏やかな声が、私の痛みを静かに掬い上げる。思わず俯いた私に、兄が心配そうに長い鼻先を向けたのが分かった。知られていたのか。
「しかし今、君の気づきが多くの正義を支えているのも事実だ。そろそろその誇りを受け入れ、聡明さの扉を再び開きなさい。時が来たのだよ」
五年の間、傍で見守り続けてくれた人の言葉だ。亡き両親と同じ、柔らかく包み込むような力を持っている。
「私に、できるでしょうか」
「できるとも。それに、君は一人ではない。ドルスもいるし私もいる、そして神も」
聖下は答え、重ねた手を折り込むようにして祈りの形を作った。ただ私はまだ、素直に従える境地にない。
「神が君に与え給うた道は、決して平坦なものではない。君が納得できていないことも分かっている。それでも、つまづきながらでも進み続けてきた君を、私は心から誇りに思っているよ」
目尻に深い皺を刻みながら、
聖下は全て分かっているのだろう。私が未だ神を素直に受け入れられないでいることも、重すぎる肩書に押し潰されそうになっていることも。それでも許してくれる。この人には、きっとずっと敵わない。
「分かりました。いってまいります」
「ああ。十分に休めぬままで申し訳ないが、頼むよ。こちらのことは気にしなくていい。たまには働かせねばならん者達がいるからな」
ふふ、と返しながら、聖下は胸元まで垂れた髭を撫でる。礼拝以外は執務室でゆったりと構えているだけに見えて、そうではない。苦笑して、腰を上げた。
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