気も器も木 (初稿)
夜が豚を食う。
第1話悪夢、目覚め
大森は知らない部屋で横たわっていた。
日光を効率よく取り込むための天窓にはキラキラと宝石のように埃が浮いている。天井には木目調のシーリングファンが取り付けられているせいか、空気の流れに温かみを感じる。部屋の縁には観葉植物が囲んでおり何をするわけでもなくただ大森をみている。どれも同じ色・形をしていてある種の執着が伺える。
植物から発せられているだろうか。ほんのりと甘さを含んだ香りが鼻を抜けていき、舌で苦みが広がった。旨味や渋みのない軟な苦みだ。私の部屋はこれほど趣味の悪いものではない。
菱形模様が寸分の狂いもなく敷き詰められた絨毯の凸凹とした感触が背中に伝わってくる。それは身体が床へと押し付けられているからであるのは言うまでもなく明らかだった。
仰向けに横たわっている私の身体に誰かが馬乗りになっているのだ。目の前の“これ”は人間なのだろうか。確かにヒト型であるものの全身が黒い靄で覆われている。人相も服装も分からない。まだ自分の影が浮き上がったのだといわれた方が納得できる。
靄を払おうとするけれど、腕ごと挟まれているせいで身動きの一つも取ることができない。
影の細い腕がゆっくりと動く。舌の付け根に蔓延る恐怖が酸味を増して身体を震わせる。影の緩慢とした動きが不安を掻き立てる。
影の冷たい指が私の首に触れた。10本の指に力が籠められていく。力の籠め方は実に遅々としている。ゆっくりというよりも、じっくりと言うべきなのかもしれない。
影が歯を見せて笑っているのだから。
「やめ、て・・・・・・くぅ」
憎いほどに真っ白な歯は作りものみたいでどこか偽物じみている。
影はぶつぶつと何かを呟いている。
うまく聞き取れない。
おい、なんていっているんだよ。
指が食いこむほどに脈拍がその速さを増していく。血管が細い指を跳ねのけようと懸命に抗っている。それなのに私の身体は一向に動こうとしない。
呼吸もままならなくなり、視界が霞む。
世界から情報が抜き取られていく。色も匂いも。
知ることができるのは私を包む身体の温度だけだ。
私はこれほど温かったのか。ぬるま湯に浸かっているようで心地よさすら覚える。血管のうねりさえなければ。
温かさはあるときを超えて冷たさへと変わっていく。
ぽつぽつと鳥肌がたっていくのと同じように全体に痺れが顔を出し始める。
「4389%#%‘(U:)@HGBHFVCDX」
影が叫んだ。痺れて動かない耳が傷みを覚える。
いやだ。苦しい。痛い。もうやめてくれ。
目で訴えかけるけれど、影の力が弱まることはない。
あぁ、喉が渇いた。水を飲ませてくれないか。とても乾いているんだ、今にもひび割れてしまいそうなくらいに。
お前の望みは一体何なのだ。どうして私の首を絞めている。肺に空気が回らない。叫びだしたい。早く、だれか助けてくれ。
目を覚ますと、無骨な天井が陽の光を落していた。それなのにひんやりと冷たいのは、全身が汗で浸されたことだったのを後で知った。
隣では妻の蒲田が心配そうにみつめている。
「ねぇ、あなた。うなされていたみたいだけど、大丈夫?」
叫んだことだけは夢じゃないらしい。
身体を丸めて溜息をついた。
息を吐くと喉が灼けつくように痛みだす。
「きっと疲れているのよ。ほとんど寝ていないでしょう?」
背中をさする蒲田の手のひらだけが温かく、心地よい。 一糸まとわぬ裸の妻は窓からさす後光によって、輝いているようにみえた。
「少し休んだら?」
そういって蒲田がこちらに手を伸ばしてきた。途端腹の奥で気持ちの悪さを覚える。
彼女の腕を払っていた。
「ごめんなさい。髪、ついてたから」
蒲田の怯える目が心を針のように刺す。罪悪感が全身を駆け巡り、居ても立っても居られなくなる。
すべて悪夢のせいだ。
この夢は一体なんなのだ。一週間前からずっとこの調子だ。
手早く立ち上がって「こっちこそすまない。少しトイレにいってくるよ」と駆け足でトイレに逃げ込んで、喉の奥から這い出てこようとする気持ちの悪さを20センチメートル大の水面に向けて吐瀉する。
内臓そのものも出ているんじゃないだろうか。息苦しさで回らない脳でそんなことを考えた。酸味を燻って取り出した苦みが干上がった口内にへばりつく。
真っ新な水は私の吐しゃ物に侵されて全く別の表情をみせているのが、先ほどの蒲田の怯えた顔と重なる。
涙がぽろぽろと落ちていく。
ドロドロに溶かされた液体の中に茶色いものをみつけて、昨日は半年ぶりの肉を食ったのだと思い出したけれど、何の慰めにもならない。
どうして私がこんなことに。悔しいと私の心が叫んでいる。c
それらを表象するのに身体が邪魔ですらあった。
最近よく眠れていないのも、愛妻にあのような顔をさせるのもすべては悪夢のせいだ。
いつか影が私の元にやってくるのではないか。そうした疑問が日々の行動に釘を刺している。
もし夢から覚めなかったら私はどうなっていたのだろうか。心地よさを過ぎた苦しみと痛みの先に待っているのは。
これが“死”というものなのか。
そんなことありえない。この世界に“死”なんてものは存在しない。死なんて戯言は私が作り出した妄想だ。
最近仕事が忙しいせいだろう。追い込みをもう少し緩めるべきだろうか。
トイレのレバーを引くと、悪夢の残滓が洗いざらい流れて、清らかな水だけが残った。
新鮮な水で口をゆすいだ。多少苦みが残っているものの心地の良い冷気が嫌気をすべて水に流してくれた。
「あなた、コーヒーできたわよ」
「ありがとう。今いくよ」
コーヒーを飲む前に窓からみえる天国へのはしごへ向けて祈りをささげた。縦長の施設の多いリゾートでは三角錐型をしたものは天国のはしらのみだ。リゾートの中心に置かれたはしごは堂々と立っている。
両親があの白い三角錐へ招待されたのはもう3年も前のことだ。
彼らはしっかりと天国へ行けただろうか。もちろん彼らが地獄へ落ちるわけもないのだけれど。
それでも大森は毎日祈りを欠かさない。朝は習慣化された行動をただなぞっていく。
投函された新聞を取りに行くのも、蒲田が淹れたコーヒーを飲むのもすべては習慣を行っているに過ぎない。
コーヒーの温かい渋みが凝り固まった身体をほぐしていく。ルーティーンというものは自分を効率よく動かすためには必須だ。
窓から入る日光はカーテンに遮られることなく、家全体を朗らかに灯す。薄い雲に見え隠れする光が空腹を満たしていく。
「今日の光はずいぶんおいしいね」
「昨日は雨だったもの。おいしく感じて当然よ」
なぜか誇らしい妻をみてほっと心を落ち着ける。
卓に手をかざすと青白い光が浮かびあがり数秒後にはボタンへと形をかえた。
その内のひとつを押してテレビを点ける。真っ暗だったモニターがヴィイインと声を上げて上半分に朝空特有の白んだ雲を映す。置きものみたいな男の報道官(メディア)が今週の天気を伝えている。曰く4日後の雨まではずっと晴れると。
わざわざ伝える必要のない情報なのは知っているのに、原稿そのままに読まなければいけない報道官が気の毒だ。
「今日の予定は?」蒲田がカップを持って向かいに腰を下ろす。
「報道官(メディア)に取材を受けたあとに社長の引継ぎをして、次期(ネク)頭領(スト)が行う仕事の最終確認。そのあとに頭領宅(ハウス)を視察してから関係各所に挨拶かな」
「やっぱり次期(ネク)頭領(スト)ともなると忙しいのね」
蒲田の細い指が絡みつく。
「大丈夫。君が寝る前には戻ってくるさ」
「本当?」
蒲田の表情は悪戯っぽい。
「本当だとも。私が君に対して嘘を憑いたことが一度でもあったかい?」
蒲田はコーヒーをすすった。
「そんなこといって、この前は帰ってこなかったじゃない」
「この前っていつのことを言っているんだい」
「この前はこの前よ。忘れもしないわ、三日前の火曜日のこと。あなたが早めに帰ってくるっていったものだから、次の娯楽(はっ)表明(ぴょう)の準備をしようと思っていたのに。それなのにあなたは帰ってこなかったじゃないの」
「あぁ。覚えているとも。でも帰ってきたじゃないか。仕事を終えてまっすぐに家に帰ってきたともさ」
「いいえ、それこそ嘘だわ。だって夕方間際になって通信してきたじゃない」
「私が? なんて言っていたんだい」
「やっぱり今日は遅くなるから、先に寝ていてくれって。悲しかったのよ、私。あなたが早く帰ってくるからって待っていたのに。何度時計をみたことか」
「ちょっと待ってくれよ。その話、君の思い違いってことはないかい?」
妻はあきれ顔で溜息をついた。何も言わずに彼女はコーヒーカップを持っているのとは別の手をこちらに向けた。そこに浮かび上がる通信記録をみると、確かに三日前の夕方に私の方から通信をかけていた。
「まさか。私が君に嘘をついていたなんて」
何かの間違いじゃないのか?
しかし通信は人の身体に根付いているものだ。そうそう壊れるものではないことは十分に知っていた。
「私が夜遅くまで何をしていたのか知っているかい?」
妻は怪訝な顔をする。
自分でさえ何をしたのか覚えていないのに、なぜ妻が覚えていると思ったのか。
乾いた唇を舌で湿らせる。
蒲田は私が何をしていたのかは教えてもらわなかったけれど、と前置きをした後で続ける。
「誰かと会うみたいな雰囲気だったわ。一体誰と逢っていたのかは検討もつかないけれどね」
「バカな。私が浮気をしているって言いたいのかい?」
「そういうわけじゃないわ。でも本当に誰かと待ち合わせている風だったのよ。きっと仕事関係の方だと思う」
胸をなでおろす。
記憶を粗方探すけれど浮気なんて生まれてこの方した試しがない。全くの誤解をされるところだった。
「私は浮気なんてしていないよ。そんな余裕があるなら仕事を早めに切り上げて帰ってきたいくらいさ」
私たちの間にちぐはぐな距離が生まれる。秒針が規則正しく動いている音がその場の空気を整えてくれるわけではなかった。
「それで、今日はいつ帰ってくるのかしら。娯楽(はっ)表明(ぴょう)の準備をそろそろしないといけないのだけれど」
冷ややかな視線が痛い。
「わかった。18時までには戻ってくるよ。約束だ」
「絶対だからね」
一点の曇りのない眼差しを浴びることができなくて、私はコーヒーをすするしかなくなった。
「うん。約束だ」
自分でも驚くほどに小さい声だったけれど、妻は満足して再びコーヒーを飲み始めた。
紙一枚ほど空気が重くなってかける言葉を探していると、蒲田が口を開き始めた。
「まあ、しょうがないわよ、時間通りに帰ることができなくたって。なんていっても次期(ネク)頭領(スト)なんですもの。3代目さんの次に御国を治める人は忙しいものね」
何も言い返す言葉がない。
力なく項垂れていると、蒲田が「フフッ」と笑いをこぼした。
「冗談よ。私も怒ってごめんなさい。あなたが浮気なんてするはずもないわ。浮気を心配するなんて、時代錯誤も甚だしいわ」
蒲田が頭を下げるのをみて、私も同じく頭を下げた。
「私が悪いのだから、君が謝る必要はないよ」
「じゃあ、これでおあいこね」
返事をするかわりに抱擁を交わす。温もりのある肉感がどうにも落ち着く。互いに絆を確かめた後で蒲田が尋ねた。
「でも頭領って何をするのが仕事なの? 名前は聞いたことあるのだけど、何をするのかって訊かれたらやっぱり分からないわ」
ほとんどの国民がそうだろう。塀に囲まれたこの世界で全ての国民はなにかしらの役職についている。しかしその中で特異なものとして挙げられるのが頭領だ。
「報道官の統制だったり天候の日程を組成だったり。他にもやるべきことはたくさんあるけれど、市民に大きく関わるのはこの二つだよ」
「じゃあ毎日晴れにすることもできるの?」
「可能ではあるけどね。でもそうすると私たちが飲んでいるコーヒーすら作ることができなくなるよ」
「色々大変なのね」
「でもやりがいのある仕事さ」
今でも次期頭領に任命されたのが信じられないくらいだ。それほど頭領というのは名誉ある職だ。
「頑張ってね。私もあなたのこと支えてあげるから」
蒲田と唇を交わす。
「ありがとう。そろそろ時間だから行ってくるね」
「もう行っちゃうの?」
「言っただろう。報道官の取材が入っているからいつもより早く出ないといけないんだ」
「しょうがないわね」
一杯のコーヒーをしっかりと飲み終えて、真っ黒なスーツに身を包む。生地の隙間から光が染み出る仕組みのおかげで空腹を感じることはおろか疲労を覚えることさえほとんどない。今の会社が出来た頃、蒲田が買ってくれたものだ。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
私は名残惜しむ視線を背中に感じて玄関を跨いだ。
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