第一章(4)

       ***


 俺は、徐々に意識が覚醒するのを感じつつ、まぶたを開ける。

「うっ……あ……」

「目が覚めたかの」

「!」

 すると、先ほど気を失う直前に耳にした声が聞こえてきた。

 声の方に視線を向けると、そこには穏やかな笑みを浮かべる一人の老人が。

「どうじゃ? 体の調子は」

「体……そ、そうだ! 俺っ……!」

 そこまで言いかけて、俺は自分の体が完全に回復してることに気づく。

 そ、そんな馬鹿な。

 確かに俺は、堕飢に体をわれた。

 だがどれだけ確かめても、体には傷一つ存在していない。

 それどころか、俺がかきむしった胸元も、烙印らくいんすられいに消え、元の状態に戻っていた。

 しかし、俺の着ていた服は堕飢による襲撃を物語っており、ボロボロになっている。

 呆然ぼうぜんと自分の体を眺めていると、ご老人は満足そうにうなずく。

「うむ。久しぶりに治療術を行ったが、儂もまだまだ現役じゃのう」

「あっ……た、大変失礼いたしました!」

 自分が目の前のご老人の手によって救われたことを思い出し、すぐさま感謝した。

「こ、この度は老師様のおかげで救われました。本当にありがとうございます……!」

「あー、よいよい。そうかしこまるな。儂はただ、偶然お主を見つけただけじゃよ」

「は、はあ……あっ! と、ところで堕飢は!?」

「堕飢? ああ、あの魔物どもであれば、儂が倒しておいたぞ。まあ少々加減を間違えて、消し飛ばしてしもうたが……」

「け、消し飛ばした……」

 やはり、俺が気を失う前に目にした光景は、この老人によるものだったのだろう。

 このお方……ただ者ではない。

 まず、ここは紫位刀士ほどの実力者でなければ到達できない極魔島だ。普通のご老人が足を踏み入れることなど不可能である。

 そこにふらっと現れ、一瞬にして堕飢の大群を殲滅せんめつしてみせた。

 本来、そこまでの実力があれば、どれだけ気配を隠そうとも、体から溢れ出る気配は相当なものになるだろう。

 しかし、目の前のご老人からは決して大きな気配が感じとれない。

 それどころか、本当に存在しているのかさえ不安になるほど、気配が希薄なのだ。

 ただ、これらすべての事象を満たす存在を、俺は一つだけ知っている。


「そ、その……じん様、でしょうか……?」

「ほう? その年で亜神を知っておるのか」


 ――亜神。

 それは人間でありながら何かを極め、神の領域に足を踏み入れた者たちを指し示す言葉だ。

 俺も昔、陽ノ国に関する歴史書を読む中でその言葉を知ったのだが、世間的にはあまり有名ではない。

 というのも、亜神は基本的に世俗から離れ、それぞれの領域に引きこもってしまうからだ。

 ただ、実は陽ノ国の初代皇帝も亜神になられたのではないかと言われている。

 俺の問いに対して楽しそうに笑うご老人を見て、それは確信に変わった。

「ま、まさか亜神様に助けていただけるとは……」

「だから、そう畏まらんでもよいと言っている。わしがお主を助けたのも、単なる気まぐれじゃしな。それに、神などと呼ばれておるが、亜神なぞただの変人どもの集まりじゃぞ?」

「そ、そうなのですか?」

 俺にはそう答えることしかできない。

 たとえご老人が他の亜神様を変人とおっしゃっても、俺にとってみれば、雲の上の方々であることに変わりないのだから。

 すると、亜神様は俺にたずねる。

「それで、お主はこんな場所で何をしておったのじゃ?」

「あ……」

 亜神様からの問いに、俺はつい表情をゆがめた。

 本当は人様にお話しするような、気分のいい話ではない。

 それは俺が話すという意味でもそうだが、何より俺の話を聞いたところで面白くもないだろうと考えたからだ。

 しかし、亜神様は俺の恩人である。

「その……あまり面白い話ではないと思いますが、構いませんか?」

「別に構わんよ」

 亜神様が頷いたのを確認して、俺は自分のことを語った。

 この場所に来るまでの経緯を。

 最初は簡単にまとめて話すつもりだったが、気づけば俺は、亜神様にすべてを話していた。

 ここまでのを語っていたのだ。

 もしかしたら俺は、誰かに聞いてもらいたかったのだろう。

 母上がくなってから、俺の話を聞いてくれる人などいなかったから。

 だが、それはあくまで俺の感情である。

 こんな話を聞かされたところで、亜神様も困るはずだ。

「す、すみません……もっと簡潔にお話できれば……」

「いや、よいよい。しかし、そうか……なるほどのぉ……どおりでお主の体に、妙な術がかけられておったんじゃな」

「え?」

 亜神様の言葉に、俺が目を見開くと、亜神様は眉をひそめる。

「……お主につけられた烙印には、追跡の術と落命の術が刻まれておった」

「つ、追跡?」

「そうじゃ。烙印を押された者の位置を追跡し、さらに烙印を持つ者が死んだかどうかを感知できる術じゃ。つまり、お主が逃げ出さぬよう……そして、確実に死ぬよう、この術をかけたんじゃろうな。まあその術も、傷を治す時に解除しておいたぞ。その代わり、この術をかけた者たちにはもう、お主が死んだと伝わっているじゃろうが」

 俺は亜神様の言葉に、何も言えなかった。

 そう、か……父上たちは、万が一俺が生き延びた場合を想定して、そんな術を仕掛けていたんだな……。

 悲しい気持ちも湧き上がるが、それ以上に今の俺には虚無感が何よりも強く残った。

「……重ね重ね、ありがとうございます」

「よい。儂としても、お主の話は胸糞むなくそが悪いからのぅ」

 亜神様はその立派なひげに手を当てながら、何やら思案する。

 そして、大きなため息を一ついた。

「はぁ……お主、歳は?」

「あ……じゅ、十歳です」

「まだまだわっぱじゃのぅ。それをこんな場所に……これだから人間は嫌なんじゃ」

 心底うんざりした様子で、亜神様はそうつぶやいた。

 すると、今度は亜神様がご自身のことについて語ってくださった。

「儂はのう、そろそろ天寿が近くてのぅ。死ぬ前に一度、世界を見て回ろうと思ったんじゃ」

「なっ……あ、亜神様が死ぬ!?」

 それは俺にとって、大きな衝撃だった。

 なんせ、亜神様は神の領域に足を踏み入れたお方なのだ。

 そんなお方が普通の人間と同じように天寿を全うし、亡くなるというのが信じられなかった。

 そんな俺の反応を見て、亜神様は笑った。

「何を言っておる。儂だって元々は人間じゃ。確かに亜神に至った際、人の肉体は捨て、新たな肉体を手に入れた。とはいえ、万物には終わりが存在する。亜神の肉体にもまた、終わりがあるのじゃよ」

「な、なるほど……」

「とはいえ、千年は生きておるからの。儂としては、もう十分生きた」

 まさか、亜神様が千を超える年月を生きているとは思いもよらなかった。

 しかし、考えてみれば納得できる話である。

 もし亜神に寿命がないのであれば、この世は亜神だらけになっているだろう。

「それで、お主はどうするつもりじゃ?」

「え?」

 予想外の言葉に俺がつい聞き返してしまうと、亜神様は穏やかに続けた。

「お主はこの地で生贄いけにえにされることを望んでおらんのじゃろう? それならば、儂が故郷まで連れ帰ってやってもよいぞ」

「それは……」

 確かに亜神様であれば、この島から脱出するのは簡単だろう。

 だが……。

「……帰ったところで、私には居場所がありませんから。何より、亜神様の仰っていた術が解かれているものの、また故郷に戻って見つかれば、さらにひどい仕打ちが待っているでしょう。他の土地に向かうにしても、私のような力のない人間では、生きていくことは難しいでしょうし……」

「ふむ……それならば、お主はどうしたいんじゃ?」

 俺は……どうしたいのだろう。

 分からない。

 今の俺には、何をするべきなのかも、何がしたいのかも、分からなかった。

 具体的な考えは何もない。

 ただ、それでも一つだけ言えるのは――――。


「生きたい、です」


 母上に誇れるように。母上が間違っていないことを証明するために。

 ただ、生きていたかった。

 そんな曖昧な答えを告げると、亜神様は笑った。

「生きたい、か。よい答えじゃな」

「え?」

「これも儂が死ぬ前の、最後の大仕事じゃな」

 呆然ぼうぜんとする俺に対し、亜神様は立ち上がる。

「少年よ。名は何と言う?」

「ご、護堂刀真です」

「うむ、刀真か。では刀真よ――――」

 亜神様は俺を真っすぐ見つめ、言い放つ。


「――――儂の弟子となれ」


 ――――俺の運命が、動き出した。

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