プロローグ

「パトリシア。君には悪いと思っている……どうかこのこんやくさせてもらいたい」

 パトリシア・セインレイムと彼女の婚約者であるクロード・ライグとの定期的な交流会の場で、クロードはそのように切り出してきた。

 テーブルをはさんで向かいあって座り、ゆうにお茶を飲みながらあいない会話を楽しんでいた場がいつしゆんにしてこおり付く。その場で空気のように立っていたメイドやきゆう達のきんちようがパトリシアにまで伝わってきた。

 だまって紅茶を飲むパトリシアを見て何を思ったのか、クロードは言葉を続けた。

「君との婚約は親同士で決めたことで僕も従うつもりだったけれど、僕は見つけてしまったんだ。本当に愛する人を」

「愛する人……ですか」

「君も知っているだろうけれど……アイリーンなんだ」

「あら。そうですの」

 アイリーンはパトリシアと交流があるドナルドしやく家のれいじようだった。

 はくしやく家であるセインレイムよりも領地は小さいが、豊かな資源と資金を有している。領内で織られる絹が上質で、定期的にていこくけんじようしているためか金銭的なゆうもあり、爵位こそセインレイム家の方が上だが、政治的な実力はドナルド子爵家の方がまさるだろう。

 パトリシアは静かにためいきいた。かつての友がほくそむ姿が目にかぶ。

 パトリシアはソーサーをテーブルに置き、クロードに向き合った。

「このお話、父にはお伝えくださったのかしら」

「いや。まずは君に伝えるべきだと……その……アイリーンが」

「あらあら」

 どうやらすでに手玉に取られているようだ。

 パトリシアは横目でクロードと共に付いてきた従者を見た。だん見慣れない従者はつまり、そういうことだったのか。

(わたくしがはじをかく姿をかくにんしに来たのね……)

 底意地の悪さに定評のあるアイリーン。実のところ、評判の悪さはパトリシアも負けていないのだけれども。まあそれは置いておいて。

 婚約破棄されるパトリシアが恥をかく場面を報告するためにおとずれたらしい従者に対し、パトリシアは優雅に微笑ほほえんでみせた。すると従者の男性はおどろいたように姿勢を正す。

 パトリシアにしてみれば、この先の話を余すところなく伝えて欲しいため、従者の存在はむしろ有りがたいのだ。

 申し訳なさそうに顔をうつむかせたクロードに対し、パトリシアは聖母のごとやさしい微笑みを浮かべた。

「クロード様。顔を上げてくださいまし。今のお話、しかとパトリシアは理解いたしましたわ」

「パトリシア……! 本当に……?」

 パトリシアに近づく勢いでテーブルに身を乗り出すクロードに対し、パトリシアは天使のように優しく微笑んだ。

 クロードはパトリシアの笑みを見て心底ほっとした。婚約破棄を申し出たことで、彼女がげきこうすると思っていたからだ。

「そうか。分かってくれたんだね……! ありがとう……」

「ええ、ええ。クロード様。おつしやりたいことは分かります。婚約破棄をなさりたいということも重々承知致しました…………ですが」

 パトリシアはひと呼吸置くと、はっきりと告げた。

「婚約破棄に関する手続きはもう、お済みですか?」

「…………え?」



 広大なコーネリウス大陸を治めるユーグ帝国のもと、大陸に住む者は帝国の法にのつとって生活をしている。

 帝国の法則は社会生活の細部に至るまで定められており、専門分野ごとに細分化した法規が国文書にしたためられている。

 もちろん、婚約および婚約破棄に関しても。

「婚約せいやく書には、一方的に婚約を破棄した場合には金銭ばいしようを行うむねの記述がありますことはご存じでしょう?」

「そ、それは……まあ……」

「また、不当に婚約を破棄された場合について、帝国憲法には破棄した相手側に対して損害賠償をせいきゆう出来るともありますが、その金額については明記されておりません。そしてそれは、婚約誓約書にも」

「そうだけど。どうしたんだい、パトリシア」

 たんたんと並べ立てるように語るパトリシアの姿がクロードの知る彼女とは別人すぎて、思わずクロードは口を挟んだが、彼女のにらみによって口をそくざした。

「それでは、こちらの資料をご覧ください」

 パチンと軽く手をたたけば、二人のしつが入室してきた。手に持った書類をクロードとパトリシアにわたすとすぐに部屋を出て行った。

 また、執事とは別に身なりが整った男性が入室し、はしに置かれた机に着いた。何の説明もなく入室した男性が机いっぱいに書類を取り出し、もくなまま書類に何かを書き記している。

 クロードは混乱した状態の中、受け取った資料に目を通し、そして固まった。

 背後からのぞいたアイリーンの息がかった従者もまた表情が凍っている。

「こ、この金額はいったい………」

 ブルブルとふるえる手が止まらないクロードにパトリシアは微笑んだ。

しやりようですわ」

「大金すぎる! あまりにも現実的じゃない!」

「そんなことはございません。資料の続きを読んでくださいます?」

 パトリシアは心外とばかりに資料の下部分を指したので、クロードは従うように続きを読んだ。読んで、さらに震えが強まった。

「婚約破棄にともない、わたくし側が負うであろう精神的苦痛、社会的地位の、それに我がセインレイム家のこうけいしや白紙化に対する一族への賠償額、後はそう……今まで貴方あなたとの交流に掛けてきた交際費と、婚約手続きに伴う諸経費もすべて加えました。特に金額が大きく見えてしまうのは、婚約にかかわる宣誓をきゆうてい教会でじつしたからですね。そちらの費用が大部分をめていますわ。過去の記録なので不明部分も多いのですが……そこはのがしましょう。そちらに書かれた数値には全て理由がさいされておりますので、金額的にはとうであると法務官からも承認の判を頂いておりますわ。ほら、一番下に署名なついんがございますでしょう?」

「そ、そんな………いつの間に、こんなものを用意したんだ…………?」

もんです。クロード様がうわをなさっていることなんて周知の事実ではありませんか。いつ婚約破棄されても問題がないように準備するのが当然ではございません?」

 誕生日にエスコートをしない婚約者。

 だれかに用意させたのであろう、パトリシアのしゆいつしないようなプレゼント。

 周囲の友人からもちようしようされていた。おろかだったパトリシアも、流石さすがに気付かなかったわけではない。

 しかし、何も出来ずにくやしい思いをしていた。

 自分の力では何も出来ないとあきらめ、パトリシアにいつさい関心を向けてくれない父と母をかげから見ることしか出来なかった、幼い少女だったパトリシア。

 けれど、今はちがう。

「このようなことは、父や母と話さずに決められることではない! 今すぐ父達にれんらくを」

「あら。そんな必要はございません。婚約を決めたのは未成年である十歳の頃でしたけれど、今のわたくし達は成人しております。全てのことについて決定出来る立場ですから。それにクロード様はつい先日、商会のひきぎを行われたのでしょう? もう立派な社会人ですわ」

 絶句するこんやく者に対し、「何よりも」とパトリシアは続ける。

「貴方がしでかした不始末を、貴方自身がぬぐわないで一体誰が拭うというのですか」

 たとえ裏ではたくらみがあったとはいえ、策にちたのはクロード自身。甘いゆうわくに負け、婚約をしたいと明言したのは彼自身なのだから。

「…………………パトリシア……」

いとしいクロード様。どうかこちらの書面に署名をお願い出来ますか? 今、この場で署名をして頂けるのであれば、賠償金額を多少はおまけして差し上げますわ」

 ニッコリと、パトリシアは書類を持って婚約者にせまった。

 もはやげ場は無いのだと、けものきゆうに立たせる狩人かりゆうどごとく。

 今のパトリシアにはそのはくりよくがあった。

 もし以前のパトリシアであれば、婚約破棄の話題が出ただけでガチャンと音を立て、カップに入った熱い紅茶をひざこぼしていたことだろう。

 クロードが震える手で書類を受け取ったことを確認するとパトリシアは着席し、テーブルに置かれた紅茶を口にふくむ。ゆうにソーサーを持ちながら音を立てないようカップを口に当ててさえいる。

 銀色の長いかみを三つ編みにひだりかた側から垂らす若き女性。彼女を幼い頃から知る者はかんいだくだろう。なら以前のパトリシアはもっと派手なかつこうを好む少女だった。だが今のパトリシアの服装はきわめて大人しく、悪い言い方をしてしまえばだいぶとしを取った婦人のような恰好であり、先日十六歳の誕生日を迎えたばかりの少女にしては質素であった。その様相が、更に彼女を大人に見せる。

 商会を継ぎ、一人前の自覚を見せつけていたクロードがまるでちできないしたたかな女性として、パトリシアは映っていたのだった。

「どう、なさいますか?」

 やわらかなこわいろで決断を問われれば、それはさながらけい宣告のようで。

「…………分かった」

 のどもとを押しつぶしたような声で、クロードはそう答えるのがせいぜいだった。



「それでは、こちらの書類を急ぎ裁判所に出してきてください」

「かしこまりました」

 クロードが出て行った部屋のすみで婚約破棄に関する裁判書類を作成させていた男にらいをすると、男は深く頭を下げて部屋を出ていった。彼のかばんには先ほどまで部屋で話をしていたクロードの署名がされた書類がある。この書類を裁判所に提出させれば、クロードの親族にもパトリシアの家族にもじやされることなくスムーズに婚約破棄と共に賠償金を受け取ることが出来るだろう。

「思ったよりあつなかったわね……」

 暗くなった景色を窓辺から覗きながら、パトリシアは一息いた。手元に残した書類のひかえをながめながら、次はどう動くべきか考える。

 パトリシアとしては、もっとクロードが反論してくると思っていたのだが、彼自身パトリシアに負い目があるのか、はたまた賠償金額がはらえるはん内であると判断したのか、思ったよりもスムーズに書類に署名をしたのだ。

 改めて婚約破棄が成立したことに、胸の奥でねむっていたパトリシアのこいごころがしくしくと泣いていた。幼い頃から約束をわし合っていた婚約者であるクロードに対し情が無いわけではない。

「仕方ないと分かっているでしょう? パトリシア。わたくしが動かないと、後々痛い目にうのはわたくし自身なのだから」

 窓にコツンと額を当てて、自分に対して声を投げかける。

 もし、クロードの両親とパトリシアの両親が話を進めていれば、今提示した賠償金額は請求出来ないだろうし、パトリシアの両親はむすめの次の婚約者を探し始めるだろう。金で娘を売るように、高額を請求出来る相手なら誰でも良いと。

 一度婚約が破棄されたれいじようは、たとえおのれに非が無くとも名に傷がつく。そんなパトリシアをめとりたいなどというやからに良い相手はいないことは、考えなくても分かること。

 だからこそパトリシアは急いで行動に移した。

 必要な書類と、必要な知識を集め、必要な手続きを全て先に進めておいて事態が起きることを予想した。

 その手順は過去の経験から理解している。

 事態の前に予測して行動することを。

 明示された法律が全てであることを。

 そしてその法律のけ道を、上手うまいように運用していくすべを。


 パトリシア・セインレイム。

 十六歳になった年、彼女は前世を思い出していた。

『鉄の主任』と会社で呼ばれていた、かつての自分の生き方を──

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