あなたのせいじゃない

寝室

本編

 自分の力ではどうしようもない事態に直面し、そのあまりの為す術のなさに打ちひしがれてしまうような、そういう瞬間は誰にでもあるものだと思う。わたしの場合はわたしの人生に沢田さんが現れたのがまさにそれで、でもそれは悦ばしい絶望なのだ。

 沢田さんは煙草の匂いがする。銘柄はよく知らないけれど、街で嗅げば必ず沢田さんのことを思い出してしまうくらい、その匂いはわたしの記憶の中の沢田さんと深く結びついている。初めて見た時にも沢田さんは煙草を吸っていた。漂う煙を見つめながら、瞳の奥を空っぽにして。

 外は寒いだろうか。今日下ろしたばかりの白いボアコートを着てベランダに出て、急いで窓を閉める。風が吹くと淡白な冷たさが肌を飲み込み、鼻先を赤くしたような気がした。沢田さんは煙草を持たない方の手をグレーのダウンのポケットに突っ込み、ため息にも似た深呼吸をした。白い息が漏れて消えていく。

「わたしも吸ってみようかな」

 嘘。本当はそんな勇気はない。わたしにとって喫煙という行為は、自分には侵す資格のない、どこか神聖なもののように思えた。吸って、吐き出す。投げやりで無関心な一連の動き。

「ありきたりだけど、吸わない方がいいよ」

 沢田さんが言っているのはおそらく、健康に悪いとかそういった類のことではないのだろう。正確にはきっと、吸わずにはいられないような状況に陥るべきではないということ。この人にとっての煙草は嗜好品ではない。

 短くなった煙草を咥えるのをやめて、沢田さんはそれを煤けた銀色の灰皿に押し付けた。そうしてまた次の一本を箱から取り出して火を灯し、それを深々と吸った。

「依里は知らなくていい。煙草の味なんて」

 沢田さんがそう言うのだから、その通りなのだと思う。実際これからもわたしが煙草を吸うことはないし、吸おうと思うこともない。けれども思いを巡らせるに違いない。味や成分、その他ありとあらゆること、そして沢田さんに。

 二本目を吸い終わった沢田さんはそれを灰皿に落とすと、ベランダの窓を開け先に入るようわたしに促した。桟を跨いで部屋の中に入ると、温度差で指先がじんじんと痺れた。

カラカラと窓の閉まる音がして、沢田さんがわたしの背中にしなだれる。ずしりとした重み。

「依里、」

 沢田さんはいつだって優しく、懇切丁寧に私の名前を呼ぶ。少しでも声を荒らげて、わたしが傷付くことを恐れているかのように。自分にとってわたしは遊びではないという、沢田さんなりの意思表示なのだろう。けれど、わたしは沢田さんの思いやりを感じるのが嫌だった。好きにしてくれたらいいのに。乱暴にされたって構わない。もっと自分勝手に振舞ってほしい。ただしそう思ってはみても、結局は言わずじまいだった。

「そろそろ寝ようか」

 その言葉に軽く頷いてみせ、脱いだコートをハンガーラックに掛けてベッドに潜り込む。冷たい。冷たくて、心許ない。沢田さんと出会ってからもう何度もここで眠りについているのに、このベッドにはいつまでも拒まれているような気がした。何故かと言われても、説明はできないのだけれど。

 沢田さんは私が横になったそのベッドに腰掛け、サイドテーブルに置いてあった煙草の箱に手を伸ばして、また一本取り出して吸い始めた。

「わたし、沢田さんの煙草の匂いが好き」

煙を燻らせていた沢田さんに向かってそう言う。すると、

「物好きだよ依里は。今どき、愛煙家でもないのに」

とだけ言って、沢田さんは口から煙草を外してわたしにゆっくりとキスをした。沢田さんが吐き出した煙が、口移しでわたしの体内に吸収されていく。わたしは悲しくなった。とっても悲しくて、この人の悲しみを思って泣きたくなった。

 世界で一番愛おしくて、寂しい人。幾度となくこうして二人で同じ朝を迎えるのに、いつまでも沢田さんは遠いところにいる。これがわたしの一方的な恋だったらどんなに良かっただろう。それか彼がわたしを、率直に愛せる人だったら。

 上り始めた朝日が眩しい。空っぽになった沢田さんの瞳の奥にわたしが映らないこと、沢田さんは知っているかしら。そんなことを考えながら目を細めた。




(わたしはあの時、あなたの纏う煙草の匂いになってしまいたかったのよ)

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あなたのせいじゃない 寝室 @brmep

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