水族館
潮
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真っ白な部屋に居た。
ピンと張ったベッドから起き上がり、周りを見回す。ここは何処だ、病室か? にしては、物があまりに少ない。
この場所のいくらかの手がかりを得ようとした。しかし、口に出すほどのものが何もない。壁が白くフローリングの床は木目調、装飾物は見当たらず。そのくせ、何の用途かわからないフックが一つ天井に吊るされている。
忽然とした風貌故病室かと思ったが、素のベッドだけがあるだけの部屋はとても病室とは呼び難い。今の時刻を見ようとしても、時計一つ無いのだ。
ぼうと出口を見つめていると、ある時突然ドアが開いた。白装束のように整った白衣を纏った博士顔の男が、会釈をしてから近づいてくる。頭部のみが白に際立っており、私は奇妙な心地がした。
「浮島さん、お気づきになられましたか?」
白衣は言った。その瞳に対話の意志を感じられず、私は少し不快になる。
「ええ、目覚めましたとも。しかし、此処は何処ですか? 恥ずかしながら、私には何もわかりません」
温和に接するも、こちらには目もくれない白衣。書類を挟んだバインダー、それと腕時計に視線をやっている。やはりここは病室と呼ぶのが正しいのだろうか、熱心にバインダーの中身と私を見比べていた。
「夢の中で御座います。時に、あなたの世界は、目の前は今、
「如何、とは?」
白衣は面白いことを言った。何の冗談か酔狂か、何を問われているのかは知らないが、私はマヤカシの中らしい。曰く、此処は幻想なのだと。夢の中は五感が明瞭でない、そして聴覚は存在すらしないと聞いた。そうでないところからすると、私は超越者か何かか?
「いいえ、何でも有りません。目覚めたのなら、恐らく貴方の不調は治っている筈。体を動かして、
白衣は私に背を向けた。
「ああ、待って」
告げられたことが少なすぎる。事態が飲み込めず少し無気力な心地ではあったが、それでも己の身分がわからないのは体に障る。
私の声を聞いた白衣は、ピタリとその場に立ち止まり。そして、思い出したかのように言った。
「ああそうでした。貴方の妹が、貴方を迎えに来ております。待合室にいらっしゃるので、外出なり何なり致して下さい。目覚めた人をおいておくほど当施設も余裕はありませんゆえ、近いうちに退院していただけると。では」
ゴロゴロガラ、とドアが閉まった。私は呆然とした。
「状況も飲み込めないうちに、一人置いていくやつがあるか。第一、私は」
シーツが皺を作っていた。
此処がどこかがわからない。然れども白衣の振舞いようからして、どうも私が此処に来て最初の日でもないらしい。夢見心地とはこのようなことを言うのだろうか、私は漠然と
夢。夢とは起きれば覚めるのが道理だ。さすれば私が目覚めた時、それは現実への帰還と考えられなければおかしい。その一点をもってすれば、白衣の言ったことなど狂言だと一蹴できる。だが、仮にも白衣だ。一介のおかしな露出狂でも、まして精神を病んだ者ではない。何より、アイツは私に嘘をつく理由を持っていない。
ではなんだ、私の目覚めが嘘だとでも言うのか? その過程をもってすれば、白衣の言ったことにも説明がつく。
しかしだ。そうだとするなら私は目覚めなければならない、しかし私はもう目覚めている。だが、今のこの意識、それすらも夢だったら? 現実は訪れることはなく、私は永い夢に取り残されることとなろう。その時に、私は正気を保っていられるのか。
ああいや、そもそも夢ならば、あの白衣の言ったことも妄言同然だ。
くそ、ここは何処だ。ともかくそれを知らなければ、開ける道も開けない。
白衣は、私の妹とやらが外で待っていると言っていた。一先ずそれを妹に聞いてから、この後のことは考えるとしよう。
*
「ああ、ちょっと」
「ん?」
外から騒音が漏れている。選挙演説のようでもあるが、宗教演説のようにも聞こえる。病院の外へ視線を向けると、大勢の人々が演説人が居るであろう方、上へと視線を向けていた。
待合室を軽く歩き回ると、一人の女性と目が合う。その女性は私を呼び止めて、ソファから立ち上がり向かってくる。メッキか純正かはわからないが、シルバーのブレスレットを右の手首に付けている。
「貴方ですか、私の妹とやらは」
「そうだけど、え、どうして? ああ、そう言えばかなり強い薬を打ったなんて言ってたか。なんか、人が変わったみたい」
「薬?」
聞き返そうとした私に、彼女は行こうかと言って目配せをする。
二枚ある病院と外を隔てる自動ドア、そのうちの一枚目が開き、二枚目が開く。その区切り区切りに従って、騒音は一般化された中身の見えない大声から、個別的な演説へと変化していく。
聞こえていたのは演説の声だけだと思っていたが、その周りに纏わりつくように、民衆も口々に言葉を発していた。大声の詳細が全然聞き取れなかったのは、音が混ざって伝わっていたからのようだ。
「うん、精神安定剤。かなり強いやつを打ったらしくて、神経回路が阻害されたとかで後数日は記憶がないかもってさ。まあ戻ってくるらしいし、あんまり気にしないでいいと思うよ」
藍鼠色の空の下、妹の声が雑踏に紛れる。その声を聞いて、今出てきた病院の看板を見た。
「国立法人おだやか精神病院」だそうだ。私は白衣の男に狂人に近いものを感じていたが、狂人は寧ろ私の方だったらしい。
「はあ、精神病院。なあ、お前は私が狂っているように見えるか?」
「今は見えない、今はね。そうだ、この街頭演説聞いてみてよ」
問いを投げかけられた妹は、内容に反した淡白な物言いで言う。そうして指指した先に居たのは、紛れもなく大衆の視線の先、高台の上に立つ人間。
「私たちは既に啓かれた。この檻に過ぎない肉体から離れ、真の実在を手にする時が来たのです」
「新世界啓蒙党」と書かれたのぼり。その横で黒いスーツをした男が、決め台詞のように手の振り上げ言った。なんと
「どう思う?」
「感想は言いたくないな、この場所で言えるような感じではない」
「そう。じゃあ、やっぱり駄目か」
妹は俯きブレスレットを見、それから私を見て言った。背筋が凍る思いがした。まさか、妹はこの宗教と呼んでも差し支えないものに、政治を任せていいと思っているのか。
「逆に聞くが、これに政治は務まるか?」
「務まってきてるじゃん、かれこれ100年」
呆れと畏れを抱きながら、私は妹に質問する。すると、冗談のような言葉が返ってくる。
「嘘だろう?」
理性だろうか、希望だろうか。もっと大きななにか。それが、私の中で崩れていった。
これが政治を担っている、それもこれだけの支持を得て。そのあまりに空想的な事実に、私は現実を疑いたくて仕方がなかった。
ああそうか、これは確かに夢なのか。現実味の濃すぎる夢ではあるが、精神病患者の主観よりは白衣の言ったことのほうが正しいだろう、違いない。
「嘘はそっちだよ。記憶喪失したなら、今度こそ正しい教えを啓けると思ったのに。結局何も変わってない」
私は身震いした。夢ならば早くに覚めてほしいと思った。此処が夢だと言うならば、今すぐ病室に戻って鍵を掛け、眠りに落ちれば現実に戻れるのだろうか。いや、それも違う。目覚めた先がまた夢であれば、私は夢から抜けられない。夢が入れ子となっている限り、私は夢から覚められないのだ。
現実は確固として存在する。しかし、私はそれにたどり着くことができずに死ぬしか無いのだ。
「どうするよ、次の処置」
妹が前で考え込んでいる。街頭演説も終了し、少しずつ人の流れも動き始めている、その時。絶望に陥っていた時に、パラダイム・シフトが訪れる。
一つだけあった。確かに存在したのだ、多少は時間はかかるかもしれないが、必ず現実に辿り着ける方法が。そしてきっと、そのためにあの病室のフックはあった。
死んでいくのだ。現実と革新できる時が来るその瞬間まで、際限なく繰り返し繰り返し。
私は、私はアイツらとは違うのだ。
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報告書 おだやか精神病院院長/鳴崎研究員
被験者:浮島 波人について
起床後数分間の面談後、被験者は家族とともに外出した。そこから数分後にまた自らの病室へと戻り、シーツを用いて首吊り自殺を行った。
特筆事項
息絶えた後の被験者の顔の強い笑み
実験結果として精神病患者を用いた認識混濁実験は成功、及び労力の少ない殺害方法は確立された。まさに銀の弾丸と呼ぶに相応しい、一切のリスクを我々が負わない方法の確立に成功したのだ。新世界啓蒙党以外の信奉者については当処置を実施することによって啓蒙とし、肉体からの解放を進められるだろう。
人類を目覚めさせ、我々は真の実在の存するところに辿り着かなければならない。
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From:御剣研究長
To:鳴崎研究員
想像以上の成果だった、大きく称賛を送らせていただく。
そして、本件を持って当研究プロジェクトは解体とする。君は名誉退職となる。
おめでとう、退職金も満額支給される。最も私達、そして君にはこの空虚な世の金など何の意味も持たないだろうが。
長きにわたり続いてきた『脱水槽計画』も、これでついに最終段階へとステージを進められる。
早急に人類を目覚めさせ、真の実在の存するところに辿り着かなければならない。
私達は今すぐにでも目覚めなければいけない。より高次の段階へと移り、未来永劫の人類の発展、その景色をこの曇りなき眼で見届けなければならないのだ。
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水族館 潮 @geki_tu
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