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吹井賢(ふくいけん)
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その人が、毎年同じ日の、同じ時間にやって来て、閉店まで席に座っていることに気が付いたのは、私が店で働き始めて四年目の秋のことだった。
今日も彼は窓際の席で本を読む。
去年と全く同じように。
私が覚えていないだけで、きっと一昨年も、その前もそうだったのだろう。
彼の存在に気付いたのは全くのたまたまだった。
ただ、彼がやって来る日というのが、奇しくも私がこの喫茶店で働き始めた日で、印象に残ってしまっただけだった。
中学時代から引きこもること数年。社会復帰の一環だとかなんとか言われて、遠い親戚に雇われたのが、ちょうど四年前のこの日。家族ともロクに話していなかった人間が接客業をやるなど無理がある。初日は怖くて、辛くて、帰りたくて仕方がなかった。
結局、その日は二時間で帰ったのだけど、彼がいたことだけははっきりと覚えている。
平日の真っ昼間だというのにスーツ姿で寛いでいるから、「きっとこの人はサボっているんだ」「私と同じで働くのが嫌で仕方ないんだ」と妙なシンパシーを感じ、印象に残ってしまったのだ。
カップを机に置くと、彼は本を閉じて、「ありがとう」と応じた。
少し悩んで、私は訊いた。
「来年も来るんですか?」
カフェオレを一口飲んだ彼は、一瞬間、戸惑ったようだった。
けれどすぐに、
「来るだろうね」
と、続けた。
「毎年、この日はここにいることに決めてるから。それが分かったから、君もそんな質問をしたんだろう?」
「はい」
いつの間にか、これくらいの世間話ならこなせるようになっていた。
四年も働けば引きこもりも仕事に慣れるのだ。
「君は何年前から働いているだっけな。何回か、顔を見た覚えはあるけれど。店長からは何も聞いてない?」
「はい。特には」
「気になる?」
頷くと、彼はスクエア型の眼鏡を掛け直し、「つまらない話だよ」と呟き、そうして続けた。
「……昔の彼女と約束したんだ。今日は彼女と付き合い始めた記念日でね。告白も、ここでした。それで、『来年も再来年も、毎年ここに来よう』と約束した。子どもっぽいと思うだろう? 許してくれ、まだ中学生だったんだ」
見たところ、二十歳はゆうに超えているだろう。
四年前の時点でスーツ姿だったから、ひょっとするとアラサーに差し掛かっているかもしれない。
だとしたら、中学時代は十年以上の前のこと。
彼は十数年間、その約束を守り続けていることになる。
「こういう話をするとね、皆、勝手に『その彼女は若くして亡くなったんだろうな』と感傷に浸るんだけど、ところがどっこい彼女は今も生きてる」
「え、そうなんですか?」
「うん。かと言って、ネットのコピペみたいに『その彼女が今の妻です』って話でもない。普通に別れて、今に至る。自然消滅、ってやつかな」
就職した頃には疎遠になっており、ほとんど連絡も取らなくなり、今では人づてに近況を聞く程度らしい。
実家にいることと、元気でやっていることだけは分かるが、それ以上のことは知らないという。
彼は自嘲するように笑い、言った。
「……多分、他人から見たら僕は変で、気持ち悪い奴なんだろうな。別れた彼女との約束を女々しく守り続けてるなんて。ヨリを戻したいとか、そんなことを思ってるわけじゃないんだ。幸せでいてくれればそれでいい。僕は彼女を待ってるわけじゃなくて、自分の為にここにいる」
「自分の為に?」
「うん。僕は、僕の初恋を、彼女を好きだったという気持ちを忘れたくないんだよ」
たとえ別れたとしても。
どれだけ時が経ったとしても。
彼女に、あるいは自分に、新しく大切な人ができたとしても、その相手と結ばれたとしても。
そんなことは極論、全く関係がないのだ。
「……忘れたくないんだ。なかったことにしたくないんだよ。誰かを好きになった気持ちも、誰かに愛されたことも。沢山のはじめてを貰ったことも。だから、」
だから、一年の内のたった一日。
今日だけは、彼女のことを想うと決めたのだ。
365分の1。
数にすれば、なんてちっぽけだろう。
でも、その“1”は、彼を構成する掛け替えのない一欠片なのだ。
「やっぱり、子どもっぽい考え方だろうね。でも僕はこういう人間なんだから仕方がない」
「…………もし。もし彼女が来たら、どうしますか?」
「どうしようもないよ。お互いに年を取り過ぎた。今更、前のように、とはいかない。きっと普通に話して、普通に別れるだろうね」
「そんなもの、ですか」
「そんなものだよ」
人生の内で何回くらい、本気で他人に想われたことがあるだろう。
今好きだから、ではなく、その恋が過去になっても、大切に想ってくれる人がどれくらいいるだろう?
彼の言う「子どもっぽさ」はきっと純粋さで、真摯さで。
私は少しばかり、彼の彼女のことが羨ましくなった。
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