第10話 復讐の剣 〜空襲警報と伝説の武将たち〜

 舞台は異世界の戦国時代、越後と呼ばれる土地。主人公マサは、ある日突然の空襲警報に遭い、妻のヅラや仲間たちと共に避難せざるを得なくなります。仲間には霧隠才蔵、ワルサー、さらに越後で仲間になった直江兼続なおえかねつぐなどがいた。

 兼続は上杉氏の軍師だ。

 越後上田庄うえだのしょうで生まれた。通説では、永禄3年(1560年)に樋口兼豊(木曾義仲の重臣・今井兼平の兄弟である樋口兼光の子孫と言われている)の長男として、坂戸城下(現在の新潟県南魚沼市)に生まれたとする説と、現在の南魚沼郡湯沢町に樋口姓が多いことから湯沢で生まれたとする説がある。父・兼豊の身分についても見解が分かれている。米沢藩の記録書『古代士籍』『上田士籍』では長尾政景家老、上田執事との記載がある一方、『藩翰譜』によれば兼豊は薪炭吏だったといわれている。母は上杉家重臣・直江景綱の妹とする説と、信州の豪族・泉重歳の娘とする説と、またそのどちらでもないとする説がある。


 永禄7年(1564年)に上田長尾家当主の政景が死去すると、上杉輝虎(謙信)の養子となった政景の子・顕景(後の上杉景勝)に従って春日山城に入り、景勝の小姓・近習として近侍したとも、仙桃院(謙信の実姉で景勝の母)の要望を受け幼い頃から近侍していたとも言われている。

 天正6年(1578年)謙信急死後に起こった上杉家の後継者争い「御館の乱」が収束し、戦後処理が行われる天正8年(1580年)から、景勝への取次役など側近としての活動が資料で確認され、同年8月15日(9月23日)には景勝印判状の奏者を務めている。


 天正9年(1581年)に、景勝の側近である直江信綱と山崎秀仙が、毛利秀広に殺害される事件が起きる。兼続は景勝の命により、直江景綱の娘で信綱の妻であった船の婿養子(船にとっては再婚)となり、跡取りのない直江家を継いで越後与板城主となる。以後、上杉家は兼続と狩野秀治の2人の執政体制に入る。

 上杉景勝は御館の乱に際して甲斐武田氏と同盟関係を結んでいた(甲越同盟)。天正10年(1582年)には織田信長による武田領への侵攻で甲斐武田氏は滅亡し、武田遺領には織田家臣が配置されたが、6月2日の本能寺の変で信長が横死すると武田遺領は無主状態となり遺領を巡る天正壬午の乱が起こる。景勝は武田方に帰属していた北信国衆や武田遺臣を庇護し北信の武田遺領を接収し、兼続は信濃衆との取次を務め帰参の窓口を務めている。


 天正11年(1583年)には山城守を称する。天正12年(1584年)末から狩野秀治が病に倒れると、兼続は内政・外交の取次のほとんどを担うようになる。秀治の死後は単独執政を行ない、これは兼続死去まで続くことになった。当時の上杉家臣たちは景勝を「殿様」「上様」、兼続を「旦那」と敬称し、二頭政治に近いものであった。天正14年6月22日(1586年8月7日)、主君・景勝は従四位下・左近衛権少将に昇叙転任するが、兼続も従五位下に叙せられる。


 新発田重家の乱では重要な戦略地・新潟を巡り激しい攻防が続いていたが、天正11年(1583年)、当時新潟は湿地帯だったために豪雨により上杉勢が敗北する。兼続はこの対策として、川筋が定まらず本流と支流が網の目のように流れていた当時の信濃川に支流の中ノ口川を開削する(味方村誌)など、現在の新潟平野の基礎を造り、着々と新発田勢を追い詰め、天正13年11月20日(1586年1月9日)、新潟城と沼垂城から新発田勢を駆逐した。これにより新潟湊の経済利権を失った新発田重家は急速に弱体化した。天正15年10月23日、兼続は藤田信吉らと共に新発田城の支城の五十公野城を陥落させ、10月28日には新発田城も落城し、乱は収束した。


 天正16年8月17日(1588年10月7日)には景勝に従って上京し須田満親・色部真長らと共に豊臣秀吉から豊臣の氏を授けられ、豊臣兼続として改めて山城守の口宣案を賜る。


 天正17年(1589年)の佐渡征伐に景勝と共に従軍。その功により、平定後に佐渡の支配を命じられた。天正18年(1590年)の小田原征伐でも景勝に従い、松山城を守備していた城代の山田直安以下金子家基・難波田憲次・若林氏らを降し、先兵として八王子城を攻略するなど関東諸城を攻略。文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役においては景勝と共に参陣して熊川倭城を築城。上杉領となった庄内地方においても大宝寺城の改修や、一揆の制圧などを取り仕切った。


 安定した豊臣政権の中で、兼続は戦乱で疲弊した越後を立て直そうと奔走する。兼続は農民に新しい田畑の開墾を奨励した。越後の平野部は兼続の時代に新田開発が進み、現在に至る米所の礎となった。さらには産業を育成し、商業の発展に努めた。その元となったのが青苧あおそと呼ばれる衣料用繊維で本座といい、魚沼郡に自生していたカラムシという植物から取れる青苧は、木綿が普及していなかった当時、衣服の材料として貴重なものであった。蒲生氏の支配時期においても青苧は特産品であったが。この青苧を増産させ、織り上げた布を京で売り捌き、莫大な利益を上げた。京都へ輸出することを献策したのは、西村久左衛門乗安であった。兼続の施策は越後に謙信の時代に劣らぬ繁栄をもたらした。


 文禄4年(1595年)1月、景勝が秀吉より越後・佐渡の金・銀山支配を任せられると、兼続は立石喜兵衛、志駄義秀を金山奉行に命じた。


 慶長3年(1598年)、秀吉の命令で景勝が越後から会津120万石に加増移封された際、兼続には出羽米沢に6万石(寄騎を含めると30万石)の所領が与えられている。兼続は国替えの際、前半歳の租税を徴したので、後任の堀家は返還を求めたが、これに応じなかった(『千金良文書』)。またこの国替えで、上杉領は最上領によって会津・置賜地方と庄内地方に分断された。兼続は、この分断された領国の連絡路として、朝日軍道と呼ばれる連絡路を整備した。朝日連峰の尾根筋を縦走する険しい山道で、関ヶ原の合戦後はほぼ廃道となった。


 慶長3年8月18日(1598年9月18日)に秀吉が死去すると、徳川家康が台頭するようになる。景勝・兼続主従は、前領主・蒲生家の居城若松城に代わり、新しい(神指城)の築城を始めており、これは戦のためではなく会津の町を新たに作り直す狙いがあったとされる。しかし、一方で兼続は本来国替えの引継ぎで半分残していかなければならない年貢を、景勝に無断で全て会津へ持ち出しており、年貢を持ち逃げされてしまった堀秀治が返還を求めても無視した結果、怒った秀治が上杉家謀反を家康に訴えると、家康は上杉家を詰問する。


 奉行衆の諌止もあってか直江状のあとも上洛が計画されたが、讒言の真偽の究明が拒否されたため、景勝は上洛拒否を決断。関ヶ原の戦いの遠因となる会津征伐を引き起こした。兼続は越後で一揆を画策するなど家康率いる東軍を迎撃する戦略を練っていたが、三成挙兵のため、家康率いる東軍の主力は上杉攻めを中止。その後、一揆勢と交戦していた秀治の率いた軍が撤退し、東軍に所属する前田利長を攻撃する構えを見せ、三成から「堀秀治が西軍側についた」という知らせを受けた事で、兼続は一揆勢力に攻撃の中止を命令して東軍の最上義光の領地である山形に総大将として3万人を率いて侵攻した。しかし、これは秀治の策略で、利長に攻撃を仕掛けるよう見せかけていた秀治は、東軍への参戦を明白にしてすぐさま越後の一揆勢への攻撃を再開。事態に気付いた兼続は、再び一揆勢を扇動しようとするも間に合わず、秀治率いる部隊によって、一揆勢は壊滅する事になってしまった。


 最上義光と上杉家は、庄内地方を巡って激しく争った経緯もあり、関係は悪かった。さらに、上杉家から見ると自領は最上領により分断されており、最上家から見ると自領が上杉領に囲まれていた。当初、東北の東軍諸勢力は最上領に集結し、上杉領に圧力を加えていたが、家康が引き返すと諸大名も自領に兵を引き、最上領の東軍兵力は激減した。義光は危機感を覚え、上杉家へ和議の使者を送りながらも、東軍諸侯に呼びかけ、先制攻撃を図ろうとしていた。義光の動きを察知した兼続は、機先を制した。義光は戦力集中のため一部の支城の放棄を命じたが、畑谷城を守る江口五兵衛などはこの命令を拒否して籠城、上杉軍は激しい抵抗を排除して攻略した。その後、同じく志村光安が守る長谷堂城と、里見民部が守る上山城を攻める。500名が守備する上山城攻めには4000名の別働隊があたり、守備側は野戦に出た。


 上杉軍は約8倍の兵力を持ちながら守備側に挟撃され、大混乱の末に多くの武将を失うなど、守備側の激しい抵抗に遭って攻略できず、別働隊は最後まで兼続の本隊に合流できなかった。長谷堂城攻めでは兼続率いる上杉軍本隊が1万8000名という兵力を擁して力攻めを行ったが、志村光安、鮭延秀綱ら1千名の守備兵が頑強に抵抗し、上泉泰綱を討ち取られるなど多数の被害を出した。

 その直後、空襲が行われた。

 兼続は戦闘機を操っているのが徳川家に仕えている特攻兵のヨシオであることを知る。


 空襲によってマサは妻を失い、自身も命を落としてしまいます。

 

 しかし、死後、マサは異世界で目を覚ますこととなります。彼は豪族・宇喜多秀家の肉体を与えられ、彼の復讐の道に立つこととなります。マサは宇喜多秀家の剣術と知識を駆使し、自身の復讐を果たすために戦いを始めます。


 マサは宇喜多秀家として、ゴブリンガードと呼ばれる要塞都市の支配者に立ち向かいます。彼は復讐のため、ゴブリンガードの危険な地下へと潜り込みます。そこには、かつての仲間や家族の仇であるゴブリンガードの指導者が待ち受けていました。


 途中、マサは斎藤龍興と出会います。彼は映画監督として活動していたが、異世界で自身の剣術の才能を開花させ、謎の力を手に入れた存在です。斎藤はマサの復讐の戦いに参加し、彼の戦闘において助言やサポートをすることとなります。


 マサと斎藤はゴブリンガードの地下で囚われた仲間たちを救い出すために奮闘し、ゴブリンガードの指導者との壮絶な一騎討ちも繰り広げます。彼らは自身の復讐を果たすと同時に、ゴブリンガードの闇を暴いていくことになります。

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