僕らは生きている

シャチミ

前半

あなたは、『死にたい』と、思ったことはあるだろうか。



よほどのことがない限り、そうそう思わないと思う。命が一番大事だということは、子供でも知っている、当たり前のことだ。


けれど、今の私はそう思わざるを得ない状態だった。毎日、毎日、普段通りに生活しているだけで、息が苦しくなる。毎秒空気を吸って、吐いて。その度に、何度も苦痛として空気を飲み込む。そんな生活を、終わらせたかった。


死んでしまえば、何も感じずに済むからだ。そう思い立った瞬間から、私は着実に準備をこなしていった。早く、こんな人生から解放されたい、と、心の中で唱え続けて。




決行日の当日、私はジャージを着て、屋上へと向かった。こっそりと家から持ってきた、大きなワイヤーカッターを使い、自殺防止用のチェーンを断ち切った。今朝、大家さんがいないときを見計らい、くすねてきた屋上の鍵を使った。そしてゆっくりと、重たい扉を開ける。


その瞬間に、寒さの籠った風が吹き抜け、それを肌で感じた。今日は皮肉なことに、気持ちがいいぐらいの快晴だ。まるで、今日起こることがお祝いだとばかりに、私を照らしているようだ。




生まれて初めて、仕切りの柵の外側に立った。柵の支えにまだ余裕があったので、人通りがないことを確認するため、身を屈め、下を覗いた。怖い、という感情はなかった。なにも感じない。なにも思わない。


ただ目に映る景色を、脳内で処理しているだけだった。ふらふらと、生きる気力がない足で立ち上がり、タイタニックのシーンのように、横に手を伸ばし、目を閉じ、空中に足を伸ばした。この後は、重力に身を任せ、そのまま垂直に落ちていく…はずだった。





…僕らは死にたい、序章…





何故か、足の伸ばした先に地面がある。ピチョン……ピチョン……と水滴音が聞こえ、心なしか、少し寒い気もする。太陽が消えたのか、目を閉じていても、明らかに暗くなっていることがわかる。さすがに違和感を感じ、怯えながらうっすらと目を開けると……そこは見知らぬ洞窟の中だった。


「……え?」


咄嗟に辺りを見渡す。すぐ隣には綺麗に青白く光る地底湖。そして、不気味に青く光る岩とキノコが、薄暗い洞窟内を照らしていた。


「ど、どうして……私は屋上にいたはず……ここはどこなの……」


現実味がわかない今の状況に、私は混乱し、力が抜けへたれ込んだ。心臓がバクバクと波打つ。動機を押さえられずにいると、どこからか声が聞こえた。


「おーい、誰かいませんかー?」


男の人の声だ。私は反射的に返事をした。


「い、います!ここに、いま……」


声のした方向を向くと、暗闇の中からゆらゆらと、人間が、こちらに近づいてきていた。確認もせず、咄嗟に返事をした自分を恨んだ。こんなどこかもわからない薄気味悪い洞窟で、今までの常識が通用する筈がないのだ。恐怖のあまりに座り込んだまま動けず、出そうな悲鳴をのみ込もうと、両手で口を押さえた。それは私の目の前に止まると、ゆっくりと、不気味に微笑んだ。


「い、イヤァァァア!!!」


「うわぁぁぁあ!!!」



私と彼の悲鳴は、同時に洞窟内にグワングワンと響き渡った。




少しの沈黙のあと、相手は冷静を取り戻したのか、私を宥めるように話しかけてきた。


「驚いた、急に叫んでどうしたんですか!僕はれっきとした人間ですよ。そんな幽霊を見た反応をしなくても…」


「い、や、あ……あ、足……足……」


私は恐る恐る、震える手で彼の足元を指した。


「え?僕の足?……えええええぇええ!!!透けてるーー!!!ぼ、僕死んでる!?」


この反応から、自分がになっていることに気がついていなかったのだろう。彼は今一度、まじまじと自分の足がないことを確認してから、現実逃避をするように顔を両手で覆い隠した。


「……あ、歩いてる感覚がないな、とか……今まで気がつかなかったんですか」


「いや、まったく……まぁ、でも、苦しくないし、意思もあるし、大丈夫か……。あ~、痛くなくて良かった」


そう呟くと、すぐに安堵した表情になる。感情が顔に出やすい人だったようだ。それは置いておいて、注目すべき点はそこではないと思う。


「あ、僕、人間ではなくなってるけど、悪いやつではないから!そこは安心してほしいな!」


確かに、私に危害を及ぼすつもりだとしたら、もう既に攻撃されているだろう。私は息を調えるため、一度だけ、長く深呼吸をした。


「……あなたが、危害を加えないことは、わかりました…。ですが、あなたは、何者、なんですか?」


「僕は……、……?あれ、記憶が……思い出せない……」


彼はそう言うと、片手でくしゃ、と軽く頭を抱えた。


「ここがどこなのかも、自分が誰なのかも、わからないや。さっき、向こうの奥の方の場所にいたことは覚えてるんだけど。」


「つまり、気がついたら、洞窟にいて、幽霊になっていて、記憶喪失にもなっていた…ということ、ですか」


「うん、そうなるね……」


そう言って、彼は困ったように微笑んだ。それでも、宇宙のように深い漆黒の瞳は、絶望はせず、輝きを失っていないようだった。私には、それがどうしてなのか、理解できなかった。


「……あの……、……不安じゃないんですか」


「もちろん。不安だよ。けど、現状、くよくよ考えていても何もできないからね。落ち込むより、前向きに解決方法を見つける方が、身のためだと思うからさ」


彼と私の違いがわかった。この人はとても前向きなのだ。私とは違う人種なのかもしれない。


「そうだ、僕も君についていっていいかな」


「え」


「一人でここを彷徨くのは心細くてさ…せめてここから外に出るまでは……!お願いします!」


彼は手と手を合わせ、深々と勢いよくお辞儀をした。


「……わかりました。喋るのは苦手ですが、よろしくお願いします」


「良かった!よろしくね。えっと、名前は……」


「司。"湯澤 司"です」


「司ちゃんだね。了解。あー、僕の名前……」


「あの、仮の名前でしたら……幽霊からとって、"幽"……さんはどうでしょうか……。」


「幽……幽、か。うん、馴染むし、親しみやすいいい名前だ。素敵な名前をありがとう!」


あの目元が優しく微笑む。知らない人で、幽霊であるのに。対人恐怖症気味であった私も、普段通りの対話ができ、彼に心を開いている。


これは、彼の魅力なのかもしれない。その笑顔にひどく安堵し、信頼できる人だと思った。


……何故こんな気持ちになるのだろう……私は




死にたかったはずなのに




「それじゃあ、改めてよろしく。司ちゃん」


「はい……、幽さん」


差し出された、触れられない彼の手をとり、自力で立ち上がった。


「あ、僕触れもしないのか」


「……それにも気がついてなかったんですね」




前言撤回、信頼できるかどうかは、また別の話になりそうだ。

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