境界紋/封紋師

 死んだんだと思ったけど、すぐに目が覚めた。

 暑い、けれど日差しの落ち着いた夕方。聴こえるセミの声は、アブラゼミからヒグラシへと移り変わっている。


 僕は公園のベンチで横になっていた。

 額には濡れたハンカチが乗っていて、首元にはよく冷えたスポドリのボトル。

 ベンチは木の陰に置かれているから、熱中症にはなっていない。身体を起こした僕は、すぐ隣に見知らぬ女性が座っている事に気が付く。

「あ、起きた? ごめんね外に放置して」

「……いえ」

 正確には、見知らぬ人ではない。

 僕が壁のシミの前で見て、魚龍の前でも見た女性だ。

 緑に染めた髪に、おもちゃみたいなサングラス。座り姿だけでも背の高いことが分かるその女性は、なぜだかシャボン玉を吹かしていた。

「先に言っちゃうけど、夢じゃないよ、全部」

 水に沈んだ町も、魚龍も、僕に起きたことも。

 倒れた僕がみた夢なんかではないと、女性は断言する。

 でも、それなら……なんで町は平然としていて、僕は無事なんだろう?

 公園では、小学生らしき子どもが楽し気に遊んでいる。もしもあれが現実に起こったことだったら、あり得ないことだ。僕自身、体の自由を失ったあげく、胸を貫かれたし。


「あの場所はね、なんだよ」


 表情から疑問を読み取ったのか、彼女は僕の顔を見ながら続ける。

「世界と世界の、境界線上。どっちでもあって、どっちでもない」

「ちょっと……よく、意味が」

 分からない。言葉は伝わっているんだけど、ピンと来ない。

 僕が言うと、彼女はちょっと考え込んでから、ふぅ、とシャボン玉を更に吹かす。

「あのシャボン玉ひとつひとつが、別の世界だと思って」

「これを?」

 宙には、無数のシャボン玉がふわふわと浮いている。

 僕が問い返すと、女性はうなずき、ふっと息を吐いて、二つのシャボン玉同士をぶつけた。ぶつかったシャボン玉は、くっついてゆっくりと落ちてくる。

「世界と世界は、たまにぶつかったりする。たくさんあるからね」

 この世界同士がくっついている場所が、境界なのだと彼女は言う。

 話が大きすぎて飲み込めないけれど、さっきよりは伝わって来た。

 僕らの世界と、また別の世界。それらがぶつかって生まれたのが、あの水底の町なのだ。

「……だとして。今、何事もなかったみたいになってる理由はなんですか」

 町が沈んだなら、さわぎになっていないとおかしい。

から。あそこにあった町は、現実の転写でしかないんだ」

 そして、町を沈めていた水も。正確に言うならば……町が水に沈んだのではなく、町のある世界と海の底の世界とが、同時に表れていたのだという。

「絵の描かれた紙を二枚重ねて、透かして見た感じ?」

「分かったような、分からないような」

 あそこはこの世界そのものじゃない。

 だから、本当に最初から、町には何も起きていない……ってことだろうか。

「じゃあ……結局、夢と変わりないんじゃ?」

 何も起きていないのなら、夢を観たのと同じことだ。

 僕が言うと、女性は小さく首を振る。

「キミ、境界にいたってことは、『キョウカイモン』を見たんでしょう?」

 ビルの壁のシミのことだけど、と女性は付け加える。

 シミならたしかに見た。というか、僕の目的はあの壁のシミだった。

「あのシミから、水が出てたの覚えてる? あれ、むこうの世界から来たものだよ」

「……え……」

「放置してたら、水はどんどん増えて、最後にはあの境界と同じ状況になってた」

「いや……いやいやいや」

 確かに水は出ていたけれど、あんなの水道管が破裂したかなにかだろう。

 まさか、それが町を呑み込むなんて、流石に信じられない。

 僕は苦笑して、必死にそう思い込もうとしたけれど、実際の所、心の底では彼女の言葉を否定しきれなかった。


 壁のシミから水があふれていたのは事実。

 あのシミの前で女性を見失ったのも事実。

 あのシミに触れて水底の町を見たのも事実だし。

 あのシミを見て想像した魚龍と出会ったのも、事実だ。


「あのままシミを放っといたら、町は沈んで、国が沈んで――」


 ――最後には、世界が壊れる。


 女性が言うと同時に、くっついた二つのシャボン玉は音もなく弾けて消えた。

 しん、と僕らの間に沈黙が下りる。セミの声や子どもの遊ぶ声が、やけに遠く聞こえた。


『今のままじゃ、オレはテメェも、テメェの世界もブッ壊すことになる』


 頭の中に浮かぶのは、僕の身体を乗っ取った何者かの言葉だ。

 あいつは言っていた。あの光景を思い出せと。

 幼い頃に見た、光の消える燃え尽きた世界を。

 そして僕の身体には、あの日から消えないアザが浮かんでいて。

「……じゃ、じゃあ! あのシミは今どうなってるんですか!?」

 思いつきそうになった考えを振り払い、僕は女性に問い掛けた。

 境界だの『キョウカイモン』だのと言いながら、この世界は今も壊れていない。

 なら対処する方法はあるハズだ。対処してきたから、今この話が出来ているハズなのだ。


「消えたよ。キミが消した。『キョウカイモン』は、浮かび上がったカイジュウを倒せば消えてなくなる。本来は私の役目だったんだけど……」


 左手の甲をそっと右手で押さえながら、女性は目を伏せた。

「境界は、異世界の何かを示してこの世に表れるんだ」

 異世界で特別な『重み』を持つ存在が、境界線に浮かび上がる。

 今回この世界とぶつかった世界では、あの魚龍が特別な存在だったのだろう。

「あっちの世界の何処かには、ヒトの紋様が表れてたんじゃないかな」

 女性はうすく笑いながら続ける。

 境界を表す紋様。それを指して『境界紋』。


「私の仕事は『境界紋』を見つけ出して、『界獣』を始末すること」


 だから。そこで言葉を区切り、女性は深呼吸して、続ける。


「少年。最悪の場合、私はキミを殺さなきゃならない」


 *


封紋師ふうもんし』、というらしい。

 それが僕の出会った緑髪の女性――名桐キウさんの職業だ。

 喜ばしい雨と書いて、キウ喜雨。名桐さんは楽し気に語って、「キミの名前は?」と問う。

「秋目ミツルです。下の名前の字は、光」

ミツル君ね。良い名前だ、才能ありそう」

「――」

 僕はなにか返事をしようと口を開いて、やっぱり止めた。

 公園からの帰り道。名桐さんは無理に明るくふるまって僕の緊張を解こうとしていたけれど、それに素直に乗せられるほど、僕はお気楽じゃない。

 名桐さんは僕を殺すといった。

 理由はもちろん、僕の身体に浮かんだアザが『境界紋』だったからだ。話の途中から、予測はしていた。小さな頃、僕が迷い込んだ異世界もまた境界だったんだろう。


「そんなに心配しなくても、ミツル君がその『界獣』を制御出来れば問題ないんだって」

「って言われても」

「手解きは私がする。都合のいいことに……いや全然よくないけど……この町にはまだ、『境界紋』がいくつか浮かんでるみたいだし」


 気落ちする僕に、名桐さんはそう言って笑いかける。

 あくまでも、名桐さんが僕を殺すのは「最悪の場合」だ。

 僕が『境界紋』を使いこなせさえすれば、僕を始末する必要はなくなるらしい。


 基本的に、『境界紋』は人間に抑え込めるものではない。

 境界を繋ぐ『界獣』を消して世界同士の接点を無くすことでしか、解決は出来ない。

 けれど人間の身体に浮かび上がった『境界紋』だけは別なのだと、名桐さんは言う。

「師匠はヒトのミクロコスモスがマクロコスモスをナントカカントカ……とか小難しいこと言ってたけど、要はメンタルの問題だから!」

「師匠とかいるんですか」

「ありゃ、食い付くのそっち? そりゃまぁいるよ。誰にも師事せず封紋とかムリムリ」

 師匠もいれば先輩もいて、同僚みたいなのもいる。

 名桐さんはそう答え、「師匠、元気にしてるかなぁ」とつぶやいた。

「あっ。ミツル君にとっては私が師匠だね。お師匠さまって呼んでいいよ」

「流石にイヤです……」

 出会って一時間もしてない大人の女性に対して、そんな呼び方はしたくない。

 というか、僕は名桐さんに気を許していないのだ。条件付きでも殺すって言われたし、年上だし。見上げる横顔がキレイだから緊張するというのも、あるけど。

「そっかー……お師匠呼び、ちょっとだけ憧れてたんだけどな……」

 名桐さんが肩を落とす。ここまでの軽い調子は無理やりっぽかったけど、この落ち込みだけは本心に見えた。本気で呼ばれたかったんだ、師匠って。

(まぁ、ちょっとだけ気持ち分かるけど)

 特別な職業の師匠と弟子とか、マンガみたいでカッコいいし。

 それを出会ったばっかりの小学生に求めるのは、どうかと思うけど。


 帰りしなに、僕らは例の廃ビルにも立ち寄った。

 壁からシミは消えていて、地面は乾ききっている。延々と水を吐く魚龍のシミがそこにあったなんて、知っていなければ考えもしないだろう。

「ちゃんと『境界紋』を切除できた証拠だね。理想的理想的!」

「それは……そう、ですね」

『境界紋』から水があふれて町が沈むことは、もうない。

 それは僕にとっても喜ばしい事だったんだけど、残念なことが一つだけあった。

「ただのシミすら残らないんですね……」

『境界紋』が引き起こす出来事はさておき、僕はあのシミの形が好きだったのに。

 出来ることなら、もっとよく眺めていたかった。

 僕のつぶやきに「へぇ」と名桐さんは意外そうに声を上げる。

「私なんかは、跡形もなく消えてくれた方がスッキリするけどな」

「僕は、元々ああいうあいまいな形が好きなので。『境界紋』が、っていうか……」

「紋様としての面白さね。それならまぁ、分からなくもないけど」

 眉を寄せ、「だからか」と名桐さんは小さくつぶやく。

「紋探しのコツは楽しむ事……師匠の言う通りだ」

「なんですか、それ」

「師匠の教え。『境界紋』って、誰でも見て分かるモノじゃないんだよ」

 多くの人にとって、『境界紋』はただのシミだ。ぼんやりとながめていても、それが境界に繋がる門だとは気付かないし、呑み込まれもしないという。

 言われてみれば、このシミを見つけたクラスメイトの漆原さんは、これをただのシミだと考えていた。きっと漆原さんが観察しても、魚龍の姿は見えなかったのだろう。

「君にとっては、魚龍の『境界紋』も面白かった?」

「……好きでした。今までみたシミの中でも、特別に」

『境界紋』だから、なのかはまだ分からないけど。

 色まで空想出来るような模様は、僕にとっても珍しい。

 僕が答えると、名桐さんは「そっか」と目を細め、だったらと僕に告げる。


「明日からの『境界紋』探しも、楽しんで」


 命のかかったことではあるけど、楽しんだ方が上手く行くハズだから。

 そう語る名桐さんの表情は、僕の気のせいかも知れないけれど、寂しげだった。

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