ゆらぐ世界の境界紋
螺子巻ぐるり
異世界/破壊者
五才の頃、僕はちがう世界へと迷い込んだ。
なにかの焼けた残り火がくすぶる、暗く静かな世界だった。
見上げれば空は夜で、深い紺色の天には無数の渦巻銀河の光が浮かんでいる。
呑み込まれそうだ、と幼い僕は思った。
だけど銀河の光はとてもキレイで、僕は空を眺めながら夢中で歩く。
親とはぐれた事も、見知らぬ場所にいる事も、光を眺めていたら忘れてしまった。
そんな銀河の光は、けれど時間と共に消えていく。
チカッ。チカッ。チカッ。切れる間際の電球のように瞬いて、初めから何も存在しなかったみたいに、ただ紺色の夜空だけが広がっている。
さびしくなって目をそらすと、すぐ近くに、空を見上げる誰かがいる事に気が付いた。残り火は燃え尽きかけていて、相手の姿はハッキリ見えない。ただ、夜空に溶け込むような優しい色をしていたことだけは確かだ。
「きみ、ひとりなの?」
僕が問うと、そいつはゆっくりと僕へ眼を向けた。
暗い夜空に輝く、月のような瞳だった。
『ヴォル、ヴォアァ――』
そいつは獣のような声で答える。知っている言葉ではない。
だけどその時の僕には、そいつの言っている事が何となく分かったのだ。
「ぼくも一人だよ。迷子……だから」
僕はそう返してから、気づく。ああ、僕は迷子だった。
お母さんもお父さんも、ここにはいない。ここがどこかも、分からない。
泣き出す僕をそいつはしばらく眺めてから、のそりと立ち上がる。
大きな、大きな体だった。
そうしてそいつは、翼のようなものをぶわりと広げる。
光の無い夜の闇が、僕の体を包み込んで――
――目を覚ました僕は、公園のベンチで眠っていた。
大あわての両親に何があったのと聞かれ、僕は見たままの景色を答えたけれど。
夢を観ていたんだねと言われて、それっきり。僕自身、本当に夢だったのかもしれないと考えるようになって、七年経った。
小学六年生になった僕、秋目ミツルは、今でも時々鏡の前で自分の身体を見つめる。
色白で細身で、身長もクラスの中じゃ低い方。
いかにも地味な僕の身体には、だけど他の人にはない特徴が一つだけあった。
僕の左わき腹には、黒いモヤのようなアザが浮かんでいるのだ。
それは七年前のあの日、ベンチで目覚めた時から浮かぶ、正体不明のアザだった。
*
(あの雲は、ライオンに似てるかな)
水曜日の四時間目、算数の授業中。
僕は教室の窓から空を眺めていた。
梅雨の明けた夏の空には、面白い形の雲がいくつも浮かんでいる。
あれはライオン。あっちはハト。向こうの雲はロボットだろうか。
「――秋目君、ちょっと」
考えていると、腕をヒジで小突かれた。
突いてきたのは、隣の席の女子、漆原さん。
顔を向けると、彼女はシャーペンで教室の前の方を示した。
黒板の前では、先生が怒った顔で僕をにらんでいる。
「また授業聴いてなかったの、秋目君?」
「えっ。それは……ええと……ごめんなさい」
これは僕の悪い癖。形や模様が気になると、他の事が頭に入らなくなる。
雲を見たり、水たまりを見たり、壁のシミを見たり。すると僕はその中に意味のある形を探してしまって、それ以外の事が考えられなくなってしまう。
きっとこれは、わき腹のアザが原因だ。
いつどこで、なぜ出来たのかも分からないアザ。
その正体が知りたくて、僕は不定形なものへ眼を凝らす。
いつしかそれは、あいまいな形自体への興味に変わって、僕の心をつかんだ。
なのだけど……
雲にも水たまりにも壁のシミにも、僕は形を当てはめられる。けれどわき腹のアザだけはダメなのだ。なにを想像しても、ちがうと感じてしまう。
もしかすると、発想力が足りていないのかもしれない。だから僕は、日々あいまいな形と向き合って、己の発想力を試していた。
(でも、今はいったんあきらめよう)
窓の外を見るのはガマンして、授業に集中する。
僕の気が逸れるのはいつもの事だから、先生もそれ以上は何も言わない。
そうして算数の授業が終わった後、僕は隣の席の漆原さんに声を掛けられた。
「秋目君。ちょっといい?」
黒縁メガネの奥の瞳で、漆原さんはじっと僕を見る。
「どうしたの」と問い返すと、彼女は小さなメモ帳を取り出してから続けた。
「今朝、秋目君が好きそうなシミを見たんだよね」
「おわっ、本当!?」
情報提供だ! 僕があいまいな形に興味を持っていることは、クラスメイトなら誰でも知っていることで、時々こうして目撃情報を教えてもらえる。
「また見つけてくれたんだねー、ありがとう漆原さん!」
「別に……たまたまだけど」
メモ帳に目を落としながら、漆原さんはササッと地図を書く。
どこで見つけたのか、目印になる建物を記しながら、正確に場所を示す。
「助かるよ~! 漆原さんのメモていねいだし、いつもすぐ見つけられる!」
「私、記憶力良い方だから。……っていうか、それ男子とかが雑なだけじゃない?」
「あ~、確かに! そもそもメモくれない事の方が多いし!」
男子の友だちは、もっと適当な物言いをする。あの店の横の通りン所、とか。
それはそれで見つけ甲斐があるんだけど、今は七月だ。炎天下で探し回るのは、流石にちょっと止めておきたい。
「なにかお礼いる? 今日の給食のプリンとか!」
メモを受け取って問い返すと、「いやいや」と漆原さんは苦笑した。
「釣り合ってない。ただの壁のシミ情報だし」
「ん~。でも漆原さん、もう四回目の情報提供でしょ? なにか返したい」
「要らないけど……じゃあ、そうだな……」
漆原さんは考えこんで、それならと一つ提案する。
「秋目君が見たもの、今度じっくり教えてよ」
シミの中に見た形。抱いた感想。
それを聞けたら、教えた甲斐もあると思う。
そう言って笑う漆原さんに、「分かった」と僕はうなづいた。
カンタンなお礼だ。っていうか、言われるまでもなく教えたいくらいだ。
……ただ。少し未来の話をしてしまうと。
残念ながら、僕はこの約束を果たすことが――出来なかった。
*
放課後、帰宅した僕は、手洗いうがいを済ませて冷蔵庫を開ける。
冷蔵庫には、作り置きの野菜炒めが入っていた。
僕の家は両親が共働きで、今日は二人とも遅い時間まで帰らない。
炊飯器のタイマーを見ると、ごはんが炊けるのは六時半ごろのようだった。なら、六時過ぎには家に帰っていようと僕は心に決める。
美味しいごはんが食べたいというのもあるけれど、それ以上に、作ってもらったごはんを美味しく食べたいのだ。
外は相変わらず暑かった。
連日の猛暑のなか、セミでさえも暑いのか、鳴き声は去年よりも元気がない。
だけど、僕の心はまだ見ぬ形への好奇心でいっぱいになっていて、暑いとかダルいとか考えているヒマがない。足早に地図の場所へ向かい、シミを見ようとしたけれど――
(あれ、先客?)
シミの浮かぶという廃ビルの壁の前に、一人の女性が立っていた。
背が高く、髪を緑に染めた、キレイな大人の女性だ。彼女はビルの壁にそっと手を伸ばして……ぱちり。僕がまばたきをした一瞬の間に、姿を消してしまう。
「ん、あれ?」
気のせい、だったんだろうか。
夏の暑さが見せた幻、とか。どっちにしても、いないものはいない。
僕は気を取り直して、廃ビルの前に立つ。
不思議な事に、ビルの壁は濡れていた。
それも、ただ濡れているのではない。
とくとくと、ビルの壁面から染み出すように、水は流れ続けている。
その水が流れる大元が、シミとなっていた。この壁の向こうで、水道管でも破裂したんだろうか? 僕の思考は、だけど目前のシミを前にすれば吹き飛んだ。
面白いシミだった。今まで見てきた形と、何かが違う。
(魚? ヒレが大きくて、ドレスみたいな……)
いや。確かに魚みたいなヒレの形があるけれど、ギザギザした歯や、長い尻尾のような部分もある。ならこれは、魚じゃない。
「魚の……龍。魚龍だ!」
現実には、そんな生き物はこの世にいない。
だけど僕には、目の前のシミがそう見えた。
優雅なヒレを持つ巨体の龍。水の世界をめぐる龍。
その姿が、青と赤のグラデーションを描く色までが、僕の頭に鮮明に浮かんで。
ざわり。僕の胸がさわいで、わき腹がジッと熱を持つ。
気配がした。大きな龍の、泳ぐ気配。
また夏の暑さが幻覚を見せているのか。熱中症かな、マズいかな。
ぼんやり思いながらも、僕は引き寄せられるように一歩、シミへと寄った。
そして幻覚で見た女性と同じように、魚龍のシミへと手を伸ばして――
――ざぶん。
瞬間、僕は水に呑まれた。
ぼがっ。あわてた僕は息を吐き、目をつむって急な流れにさらわれる。
(なに!? 水道管、爆発でもした!?)
だとしても、子ども一人を呑み込むような水は出ないハズだ。
じゃあなにが起きてるんだろう? 混乱する僕は、流れが収まったのを感じ取って、意を決して目を開く。……と。
町が、水に沈んでいた。
見知った家々の屋根や、人気のない学校。遠くには僕の家。
それら全てが水に浸かり、辺りはまるで海の底。
海上から梯子のように光の注ぐ、明るく静かな海中を、それは泳いでいた。
青から赤。グラデーションの大ヒレを持つ、尾長の巨体。
僕がシミからイメージした通りの……いるはずのない、魚の龍。
『――、――、――ッッ!』
魚龍は吼えた。水の中、魚龍の声は振動となって周囲を揺らす。
やっぱり、あれは魚のようで魚ではないんだろう。
そして魚龍のそばには、ふわりと浮く一人の人間の姿があった。
(あれって……)
髪を緑に染めた、背の高い女性。
僕が廃ビルの前で見た人だ。幻覚だと思っていたけれど、今はハッキリ姿が見える。
彼女は水の中だというのに、地面に立ってるかのように真っ直ぐ背筋を伸ばし、魚龍をにらんでいた。それから、ごぽり。何かを言葉にした彼女の口から、空気が泡となって吐き出される。
『――ッッ!!』
魚龍はもう一度叫んだ。怒っている、のかもしれない。
女性の態度が、もしくは存在自体が、魚龍にとってはイヤなものだったのかも。
そして魚龍はヒレをはばたかせ、大口を開けて女性にせまった。
(危ないっ!)
ここがどこで、なぜ魚龍がそこにいて、女性が何者なのかも分からないけれど。
このままでは、女性は食べられてしまうかもしれない。
(そんなの、見てられない!)
いやだ、なんとかしたい。
僕にその力があれば――願った瞬間、じわっ。
わき腹のアザが、強く熱を持つ。焼けるような痛みと共に、ぶくぶくと水中に泡が立った。いったい何が……僕が混乱している間に、アザの熱は僕の全身へと広がっていく。
そして気づけば、僕は変貌していた。
夜空のような深い色の手足に、背中に感じる翼の感覚。
体格は元の僕より一回り大きくなっていそうで、自分の手の平を見つめた僕は、「ああ」と理解する。
これは、あの日銀河の光の下で見た、あいつの姿だ。
なぜ、という疑問は消えない。
むしろ増えるばかりだ。けれど、姿の変わった僕は、疑問をひとまず棚上げした。
ぶわり。水中で翼を動かすと、重たい反動と引き換えに、体はグンと前へ進む。
水の中を、飛ぶように。
真っ直ぐ突き進んだ僕は、勢いそのままに魚龍の顔へと体当たりする。
『――ッ!』
魚龍が声を上げ、吹き飛んだ。
大きくなった気がするとはいえ、今の僕より、魚龍はずっとずっと巨大なのだけど。
それでも問題ないくらいに、今の僕には力がある。
「ゥ、ォァァアアアアッ!」
有り余った力は、声となってほとばしった。
水の中だというのに、不思議と息の苦しさは感じない。
チラと目を向けると、魚龍と相対していた女性は、色素の薄い瞳を丸くして僕を見ていた。おどろき、戸惑い。ああ、でもそれも――どうでもいいか。
「ヴルァァァッ!」
ぐんっ。翼を振るい、吹き飛んだ魚龍への追撃を狙う。
けれど魚龍もすでに体勢を整えていて、ぶわり。大きなヒレを振るわせると、目の前に巨大な渦巻が発生した。僕の身体が、渦巻に引かれる。なるほど、これで僕の動きを止めて、キバで仕留めるつもりなんだな。
(やらせるわけネェだろ、ンなことをよォッ!)
心の中で叫んで、あれ、と思う。
これ、本当に僕の思考か? まぁ、でも、事実だ。
魚龍がしたい事は分かるけど、そんなもの、今の僕ならぶっ壊せる。
「ヴァルァァァッ!」
ぎゅおんっ! 身体を渦巻と逆の方向に回せば、その勢いで、生まれた渦巻は相殺。
乱流となった水の中を、僕は再度翔けた。狙いの外れた魚龍は、けれど動じずに僕を出迎える。ぐわり。広げた大アゴは、僕の身体を丸のみに出来るほどに大きかったけど。
(小っちェッ! その程度でオレが終わるかよッ!)
呆れたような、悲しいような。
ツンとした感情が胸を突き抜けて、けれどそれはすぐに、怒りにも似た熱に変わる。
ぶっ壊す。ぶっ壊す。ブッッッッ壊すッ!
「オレは壊すくらいしか、出来ネェんだからよォォォォッッ!!」
叫びながら、ザンッ!
爪を前へと立てながら、僕は魚龍の口の中に飛び込んで。
喉の奥に突き刺した爪先から、ぎゅおんッ! 体中の熱を、魚龍へと注ぎ込む。
一呼吸の間を置いてバンッ! 注がれた熱は魚龍の身体を爆ぜさせ、同時に周囲の水を一挙に蒸発させた。
にわかに空いた広い空間に、雨となった水がざぁぁと降り注ぐ。
僕は翼で中空に留まって、チリとなった魚龍の破片を見、ハァとため息を吐く。
「またかよ」
……また? って、なんのことだ?
「壊す。燃やす。砕く。壊す。燃やす。砕く。これだけだゼ、オレに出来ンのは」
確かに、あり得ないくらいのパワーだったけど。
助けられたじゃん、あの女の人のこと。
「そう思うか? まぁテメェはそうかも知れねェけどナァ」
うん。あ、でも、さっきの蒸発で、あの人巻き込まれてないかな?
それに、この町も。五分もしない内だったけど、間違いなく水の底に沈んでたんだ。
大変なことになってるハズだから、僕に出来ることがあれば――
「――あァ、テメェやっぱお人好しだわ。他人の心配してる場合か?」
僕の疑問に、僕が答える。いや待って、ちがう。これは僕の言葉じゃない。
僕の身体に、誰かがいる。今僕の身体を使ってしゃべっているのも、そいつの声だ。
ようやく分かったか、と僕の中の誰かはため息を吐き、続ける。
「今のままじゃ、オレはテメェも、テメェの世界もブッ壊すことになる」
思い出せよ、あの光景を。
なにもかも燃え尽きて、銀河の光さえ消えていくあの世界を。
そいつの言葉に、僕はふるえたくなるが、体は反応してくれない。
もはや、僕の身体は僕の意思では動かせなかった。乗っ取られたんだ。
もう戻れないの? 泣きそうな胸の痛みだけが、僕に残された唯一の自由だ。
僕は絶望し、意識は眠るように遠くなっていく。けれど――僕が消える寸前に、キレイな低い女性の声が僕らの耳に届いた。
「大丈夫。私がそうはさせないから」
続けて、ザシュッ。
翡翠色の光のラインが走る金属の腕が、僕らの胸を貫いた。
「あァ……?」
僕の意識は、そこで途切れる。
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