8月32日

憂い凧

8月32日

9月1日、この日は特別な日だと思う人がいる。


9月1日は大抵の学校や仕事の夏休みが終わっている頃だ。どんなに長い休みでもいずれ、終わりは来る。休みを感じさせるのは平日があるからであり、平日と休みは同時に存在しなければならない。


それが常識だとしても、みんながみんな、そう思いたいわけじゃない。私はずっと、休みが続けばいいと思っている。休み明けは憂鬱な気分を誘い、自分がどれほど苦しんでいるのかを自覚し始める。かと言って、それを我慢しないとこの世ではやっていけない。


憂鬱という言葉自体、私は嫌いである。嫌いだからこそ、向き合っていかないといけないのだ。憂鬱という存在により、自殺を考えるもの達がいる。より、詳しく言うならば、9月1日は自殺する人が多い。


上っ面な話だ。憂鬱な気分により、自殺をする。自殺をするリスクはたくさんあるだろうし、自殺するメリットも少なからず存在する。


例え、自殺を自殺だと認識してなくても、それが救いだとしても、世間からは自殺だとみなされる。神やら宗教やら、それら全て、死を救済だと思う輩がいるのなら、それはそれで世の理が正しく、動くことは無い。


倫理観の上、自殺はあるべきして生まれた賛同だ。人はいつか死ぬだろうし、急な死を遂げるだろう。だからこそ、自殺はちょっと早い死と言われても違和感は無い。


そうだとしても、自殺はちょっと早い死で終わるものでは無い。自殺という言葉を安易に汲み取ればそうなることは確かだ。しかし死の原因に問題があるのが現実だ。誰が何をして、誰がこうしたからこうなったと結論付けたがる。こじつけがこじつけを呼び、自殺を遥かに凌駕した問題を直視し始める。


そう、全ては自殺をする動機が重要だ。誰もが、死にたいと思う日が来る。それを我慢している奴らがおかしいとは思わないし、我慢せず、やってしまったことに杞憂をするわけでもない。


自殺をする理由をインターネットの記事やSNSとかに載せる奴らもいる。それゆえ、『私は星になります』という思わず、笑ってしまうほどの夢見がちな彼ら彼女らが存在する。神を否定するわけでもないし、神を信じるつもりもないが、そんな奴らが星になるとは到底思えない。


そもそも、自殺を手にしてそういうことをやる余裕があるなら、憂鬱に呑まれながら、苦しい苦しいと喚きながら、現実を見ればいい。その方がよっぽどためになる。


自殺をする理由は多く、私にとってそれは自殺と繋がる何かなのだ。9月1日に死ぬものが、理由があるかは分からない。憂鬱だけでなく、いじめ、虐待、その他の自分が愛されていない証拠をいくつか挙げよう。それこそが、自殺をする理由だ。


愛されている原因を見つけろ、自殺したときに迷惑だと思われる、泣かれてしまう。そんな原因がいるなら自殺をすぐさまやめてしまえ。


愛されていない証拠があるなら、自殺をするのも手の内だろう。誰も迷惑だと思わないし、誰も助けやしない。だからこそ、やってみる価値はある。





自殺をするのは勝手だと思うし、止めるのも勝手だ。私は愛されていない証拠を証言するためにここに立っている。


風がなびいて、夏が終わろうとしている。夏の次は秋だっけ。私は秋を見ることが出来ずに永遠に夏を見ることになる。


9月1日が来なくても、8月はずっと歩み続ける。


青空は澄んでいて、空になりたいと子供の頃思ったことを今に思い出す。淡い記憶で、少し懐かしむ。


自分より価値が高いローファーを脱ぎ、揃える。フェンスを越して、足が竦むのを無視する。


教科書に載るぐらいの名言でも言ってみよう。


「私はきっと─────」














































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この話はフィクションです。








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8月32日 憂い凧 @takorut

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