真実と誠実の狭間
鈴ノ木 鈴ノ子
①
梅雨時で雨がとかく降りしきる日だった。
厚いどんよりとした雨雲が深く垂れこめていて、この辺りで一番標高の高い恵那山のほとんどを雲で隠してしまっている、その下をトンネルで抜けている中央道は雨天のため速度規制がかかっていたが、やがて通行止めとなってしまうほどに雨量は増していった。
恵那インターで走ってきた中央道が通行止めとなってしまい、仕方なく高速を降りると近くのコンビニへと入った。
客のいない店内でペットボトルに入った炭酸水を持って、レジで煙草を頼もうとした時のことだった。
「あれ?陽介先輩じゃないですか?」
「え?」
唐突な呼び声に思わず煙草の番号に向けていた視線を店員に向ける。
日焼けした健康的な褐色の肌にショートボブだが、流れるような髪をした女性がこちらに微笑んでいる。
「あ、忘れてますね、私のこと」
視線をしっかりと膨らんだ胸元に向けると、少し上を向いた名札に「相川」とあった。すぐに記憶から県立高校に居た頃、出会った1人の後輩が思い浮かんだ。
「あ、麻奈美か」
「そうですよ~」
高校を卒業して8年が過ぎているのに、相川は何も変わっていない、いや、年老いていないと言った方がいいのかもしれない。高校生の頃の姿のままに思えて思わず瞬きを数回してしまうほどだ。
「久しぶりだなぁ、この辺りに住んでるのか?」
首を振って否定すると奥の部屋で新聞を読んでいる初老の男性を指さした。
「あれ、叔父さんなんです。お店のヘルプに来てるんですよ」
「なるほどなぁ、あ、ピース1箱ね」
「キャラに似合わない銘柄ですね」
紫紺の箱を一つ棚から取った相川は呆れたようにそう言いながらレジにバーコードを読み込ませた。ピッと音がした途端にザーっとラジオの雑音電波のような雨音が聞こえてくる。
「うわ、すっごい振ってきた…」
「マジかよ、困ったな」
雨はコンビニ前の道路を走る車の姿すら霞ませるほどの激しさで、とても外に出て車に乗り込もうなんて気すら失わせるほどだ。
「カップのコーヒー追加ね、Sサイズ、ちょっと、イートイン借りるわ」
昔馴染みの口調で思わず言ってしまう。
別に付き合っていたわけではない、相川とは妙に馬が合ったこともあり先輩後輩以上のいわゆる親友のような関係だった。まぁ、それも私が卒業後に相川にあまり素行の良くない彼氏ができたことで、連絡を取らなくなってからは時の流れに任せるまま関係は煙のように消え去っていたのだ。
「6ぴゃ・・・873円になります」
「ん?100円のホットだぞ」
「んふふ、私の分も奢って下さいよ、先輩」
「仕事中だろ?」
「ついさっき、雨の中を店内に入ってきたお客さんを対応したら上がろうと思ってたんですよね」
悪びれる様子もなくレジ横のカップホルダーから2つカップを取った相川は、それをカウンターに置いて首を傾げながら可愛らしく微笑む。
ああ、この可愛らしくあざとい仕草に何度も奢らされた。
「分かった、いいよ、支払いは電子マネーね」
「ありがとうございます!あ、ついでに私の珈琲も入れてください!」
「マジかよ、俺、客だぞ」
「セルフサービスですので、ちなみに私は店員さんですよ」
「うまいこと逃げやがって、分かったよ、フレッシュ3つ入れておいてやる」
「あ、私、ブラックで大丈夫なんで、それは先輩のに入れてくださいよ」
あの頃のじゃれ合いのような会話をしながら支払いを済ませ、カップを2つ持ってコーヒーメーカーで淹れ終える。
イートインへと歩みを進めると、すでにそこには私服に着替えて…といっても上着の制服を脱いだだけだが、イートインに座って優雅に待っている相川がいた。挑戦的な視線でこちらに向いるのが気に食わない。
隣の席へ腰かける、もちろん、カップは渡さずに右手と左手に持ったままでだ。
「さて、頂きます」
「先輩、それ、一方、私の私の!」
慌てて昔のように詰め寄ってきた相川が私の右手のカップに手を伸ばして奪い去ってゆく。
「遠慮してもいいんだよ?2つぐらい飲めるからね」
「遠慮しませんよ~、ああ、優しい先輩の金で頂く珈琲は絶品ですね!」
奪い去ったコーヒー一口飲んだ相川はカップを卓上に置いてから、そう言ってじゃれつくように手を伸ばしてきた。私の片手を胸元に居抱き寄せて甘えてくる。ふくよかな柔らかさの感触が右腕に伝わり、そして、可愛らしい笑顔が間近に迫ってきて思わずドキリとする。
「お前ね、他人にもそんなことしてないよね、誤解されるぞ?」
「先輩だけですよ?こんなことして揶揄うの、私、弄ぶ人は決めてるんで」
「俺の何年間は弄ばれてたの?」
「え!?」
「な、なにその今知ったの可哀そうな人みたいな顔!」
「だって、残念な人だなって…」
「お前!再会したばっかりの人に残念などと…」
「すみません、お残念ですね」
「おをつけて丁寧に見せるんじゃねぇ」
「じゃぁ、コーヒーブレイクして休みましょ?、ね、イートインなんですから」
「あ…、うん、そうするか…」
「ああ、単純な良い先輩だなぁ」
きょとんとした顔でそんなことを言われてしまうと、何とも言えない感情になる。何年もあっていなくても相川は相川のようで安心した。
雨はその降り方を強めたり弱めたりと慌ただしそうにしたままだ。目の前の道路を見渡せるガラスには先ほどから雨粒が勢いよく当たっては、下へと流れ落ちていっている。
「そういえば、お前、今この辺に住んでんの?」
「この辺ではないですよ。卒業しちゃいましたからね、今は実家住まいです、あ、先輩って明智町って知ってます?」
「明智…、ああ、分かるよ、ここからしばらく山に入って行ったところだろ」
仕事の施設工事で街中にあった振興センターとやらを訪ねたことがある。寂れた街並みで正直に言えばどこにである山間の町、といった印象だった。
「あ~あ、電車止まってる…」
スマホをわざとらしく相川がそう言って困ったような顔を見せている。
これだけ降ってるのだから電車が止まることも仕方ないだろうと思いながらその姿を見ていると、猫のようにあざとい視線がこちらに向けられてくるのが分かった。
「先輩、お願いが」
「断る」
あざとい視線が狩りをする目に変化した。
「聞いてくれたっていいじゃないですか!」
元気のよい声が響く、まったく店内だってのに遠慮がないな。いや、ほかにはお客さんいないけどさ。
「家までっていうんだろ?」
見下すような視線を向けてやると、途端におびえるような目へコロリとなった。
「そ、そうですよ、良く分かりましたね」
断られないように可愛らしい仕草を見せながら、上目遣いでこちらを見てきた相川にため息をつく。
「誰かに頼めばいいんじゃないか?」
「頼める人がいないんですよ…」
ぽつりと子猫の声のように相川が呟いた。
子猫は委縮するように鳴いた声を掠れさせる、雨音降る無言がしばらく店内を独り歩きして、店内放送の場違いなほとに明るいナレーションの芸人がバカみたいなことを言ってる。
「…先輩、知らないんですか?」
やがて意を決したようにそう言った相川が私へと子猫でなく大人の女性としてしっかりと凛々しい表情を向けてきた。
「お前のことは何も知らないぞ」
そう返事をすると相川の顔が強張るのが分かった。唇が一瞬歪み、そして呼吸に合わせて肩が上下する。
「私、殺人犯なんですよ」
降りしきる雨音に雷鳴が轟いて響いた。
一瞬にしてあたりが白い閃光に包まれて消える、やがて、雨の音が激しく窓を叩いた。
「えっと…」
実際に聞くと言葉に詰まってうまく返事を返すことができない。それを理解したの相川はいつもと同じような笑みを浮かべる。だが、その笑みには影が差しているように見えた。
その言葉に嘘偽りがないことが理解できるほどに、痛々しい笑みだ。
「私、卒業したらすぐに出産したんです。在学中に子供ができちゃったんですよ」
淡々とした口調になった相川に先ほどまでの面影は消え去っている。
「そう…だったのか…」
「あいつも数か月は父親らしいことしてくれていたんですけど…、子供が2歳になった年、私がパートから帰宅したら、鳴き声が煩くてって、アイツが、アイツが、殺しちまった、どうしようなんて馬鹿なこと言ってきたんです。すぐに子供に駆け寄って必死に揺すって、必死に
スマホをカウンター席の机の上に置いて、相川が両手を広げて震える声をしながら声色をどんどん落として、やがて呟くようなりながら話を終えた。
「それは…」
かける言葉、適切な言葉が見当たらない、いや、見つけることができない。
子供を殺した夫が悪い、それを殺した妻が悪い。ニュースで聞いたのなら短絡的にまとめ上げてしまえる話だ。だが、相川の表情、仕草、語り口を見聞きしてしまえば、なんと言えば良いのだろうか、人間てのはいざ目の前に事が起こると、どうしよもなくなるってのは事実らしい。
「それが今の私なんです。やっぱり駄目ですね。知らないなら先輩には黙っておこうって思っちゃったけど、どうしても騙せないや…」
雨音とは違う水滴の音が聞こえた気がした。
相川のジーンズの上に黒い染みが雨の降り始めのようにぽつぽつとできていく。それを見ていて最後の何かが心の中で吹っ切れた。誰が何と言おうと過去の約束を守らなければならない。
「そうか、そんなことがあったんだな」
片手を相川の頭の上に置いてその流れるような髪の毛をわしゃわしゃとしながら、しっかりと力を入れて撫でる。
高校の時もそうだ、テストや友人関係で泣いたりしょげたりする相川を、私はこうやって撫でながら同情したり、揶揄ったりとした。もちろん、今は揶揄いなんて毛頭もないけれど。
ただ1つ、今の私にできることは、隠し通したい事実をきちんと話した相川に向き合うことだ。
当たり前のことを、当たり前に行うように。あの頃と変わらないように。
「せ、先輩‥」
暫く頭を撫でられていた相川が、私の胸元に縋りつくように抱き着く。
そして、声を押し殺すようにして悲しい声で、それでいて子猫が安堵の時に漏らすような声で、小さく小さく嗚咽を漏らしながら泣き続けた。
「泣け泣け、泣けるだけ泣いてしまえ、多少はすっきりするだろう」
「はい…」
子猫の泣き声はしばらく続いて、私は時より降りしきる雨を見ながら、その小さく丸まった背中を優しく摩っていた。
どれくらいの時間が過ぎたのだろうか、子猫の泣き声が終わる頃には、雨はだいぶ小降りへとなっていた。
未だに抱き着いたまま離れない相川の背中を優しく摩りながらいると、しばらくして顔をくちゃくちゃにして、可愛らしい小鼻から糸を引いて顔を上げた。
「すみません…、服ぐちゃぐちゃにしちゃいました…」
あれだけの話の痕だ、元気のないことこの上ない相川に、私は再び頭に手をやってしっかりと撫でる。
「いいさ、気にするな。クリーニングに出してやるから払えよ」
そう言っていつも通りに嫌味を言ってやると、少しだけ綻びのような笑みが見えて八重歯が可愛らしい唇から覗く。
「へへ、そう言ってくれるんですね」
撫でられて髪の毛をぐしゃぐしゃにされながら、私の上着の裾を掴んで広げると相川はそれで顔を拭いた。
「ば、馬鹿、もう1回本当に拭く奴があるか」
「どうせ、クリーニング出すからいいじゃないですか?」
そう言って嬉しそうな顔を見せた直後のことだった。
相川の肘が机の上に置かれていた珈琲カップを倒した。蓋がうまい具合に外れたそれから黒い液体が流れでると、それはそのまま私のお気に入りのズボンの上に落ちて広がっていく。
「お、お前!」
思わず撫でていた頭をそのまま力づくでスラックスへと持って行こうとすると、必死になって力を入れた相川が大声で謝る。
「わぁ!ごめんなさい!そんな不潔なところに頭持ってかないでください!」
「不潔だぁ!?ことに及んでそんなこと言いやがるか!?」
私は激怒した。
ますます力を入れて頭を押さえつけるようにする。相川が私の手を掴みながら必死になって止めていると、私の肩を突然叩くものが居た。
「すみません、ちょっとお話しいいですか?」
「はい?」
振り向いてみると、正義の味方が2人、恐ろしい形相でこちらを睨みつけている。
岐阜県警察と立派な看板を背負った男性警察官様と女性警察官様だった。
女性警察官が素早く私と相川の合間に割って入ると相川を引き離して守る様に立ちふさがる。綺麗な警察官のお姉さんだったけれど、その眼には、この変態、と言いたげであった。
「ちょっと、パトカーで話聞こうか?」
雨上がりの目の前の駐車場にもう一台、サイレンを鳴らしてパトカーが入ってくるのが良く見えて、大慌てで警察官のおかわりがきてくださるのだった。
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