Voise

ねむり凌

倹約家

 事件は、月城祥真つきしろしょうまが中学からの友人と一緒に映画を観に行ったその帰りに起きた。


「それじゃ、また明日な」


「おう、また明日」


 高校になってから友人とお互い密かに考えていた悦楽、制服のまま放課後に映画館に行き、ポップコーンを片手にハラハラドキドキなストーリーを鑑賞するというその行為を存分に味わい、頭も心もホクホクになった状態で名残惜しくも祥真は友人に別れを告げた。

 徐々に暗くなる上空に、あまりお腹が空いていないなと思いつついつもの道を歩く。いつもなら退屈に感じる信号待ちも、今日は買ったばかりのパンフレットを袋越しに眺めるだけで時間を潰せた。そのときの顔は同級生に見られていれば声をかけるのを遠慮するほどの満足顔だった。

 とにかくこのときの祥真はこの上なく上機嫌であった。



 あと数分で家に着くという場所に差し掛かったとき、祥真は脇道に逸れ、とある場所に向かった。とある場所と言ってもそれはいわば近所の公園なのだが、そこは祥真にとってお気に入りの場所だった。

 四段しか置かれていない階段を大股二歩で飛び越え、敷地に入る。点々と置かれた街灯を目印に、人気ひとけの無い公園の端に建つトイレ――正確にはその隣に置かれた自動販売機に向かった。

 少々不気味に感じてしまう時間帯だが、年中金欠の祥真にとっては背に腹は代えられない。ちょっとの我慢をしてでも、破格である全品百円で佇んでいるそれを目的に足を運ぶ価値はあると考えていた。



 遠目でも分かるほど無駄に明るい自販機に目を痛めながらその目の前に立ち、かねてから決めていた炭酸飲料を見つけると、迷うこと無く購入のボタンを押す。背負うリュックから財布を取り出すのが面倒だったために電子決済にしようとスマホををズボンから出し、自販機に近づけた所で祥真はこの場所の異変に気がついた。

 自販機の青い本体の下半分に付いた、何かしらの液体が飛散したような跡。そして今立っている自分自身の足下に、雨も降っていないのに溜まっていた液体。

 ほんの数秒前までは気にも留めていなかったその事実に、手に持つスマホの購入音と炭酸飲料の落ちる音が同時にこだましたにも関わらず祥真はそのまま後ずさる。

 色をハッキリと見たわけでは無いが、本能がその正体を血だと言っていた。

 数歩後ずさったところで遅れて嗅覚も加わり顔をしかめる。

 他人から見ればこの状況など今すぐにでも逃げるべき状況だが、祥真はそれが出来ずに自販機から少し離れた場所で頭が真っ白になりながら立ち尽くしていた。

 こういう時は何をすれば良いんだっけ?

 警察?

 それなら楓(祥真の兄で警察官)に連絡した方が早いか?

 いや今日は休みって言っていたような……。

 正常な判断が出来ないまま、必死に最適解を考え込む。とりあえず誰か人を呼ばなければという結論に至った祥真は、手に持ったままのスマホのロックを解除した。が、しかしそのスマホが一瞬にして宙を舞う。チクリと手に痛みが走った。


「え?」


 何が起きたのか全く理解できないまま、飛んでいったスマホの方向とは反対を、反射的に振り向いた。


「大丈夫か、お前」


 祥真はその声に安堵し、その姿に再び恐怖した。

 こちらに駆けてくるのはハロウィンのコスプレのような黒マントにしっかりフードを被った男。いや、顔は見えないので男だ。


「チッ、逃げた後か。――こりゃまた盛大にやってくれたなぁ」


 吐き出すように呟いた男は、一目自販機を見て祥真でさえ把握しきれていない全ての状況を見透かしたようだった。


「あ、そこのお前はそのまま動くなよ。誰かに連絡取るのもナシだ。いいな?」


 祥真に向かって指を指しながら、命令口調の鋭い言葉が突き刺さる。

 何も言われなくとも動こうとする気力などさらさら無かったが、その言葉に体が強ばった。

 一度も躊躇した様子を見せない男は、駆けてきた足でそのままズカズカと祥真の買おうとした自販機に近づき、そのままその裏に回る。しばらくして男が連絡を取っているのだろう声が聞こえた。

 祥真には裏に何があるのか、どんな様子なのか見えはしなかったが、恐らくこびりついた血の持ち主がそこにいるのだろうことは容易に想像が付いた。

 立っているので精一杯な祥真は誰か頼れる他人の介抱を待つばかりだった。



 電話を終え、自販機の裏から出てきた男は祥真に気づくと心底驚くような声をあげた。


「え、なんで君起きてるの」


 起きている?何の話をしているんだこの男は。

 純粋な疑問が浮かぶ。


「その手だよ、俺撃ったよね?」


 手?

 男に言われるがままに左手右手と確認すると、右手、つまりスマホを持っていた手に何か小さなボトルがくっついていることに気づいた。


「あれー、それ一般人用の麻酔なんだけどな。エラーで空箱だったとか? いやでも試し撃ちしたし……」


 最初に声をかけられたときとは打って変わり、柔らかい口調になった男はやけにベラベラと思ったことを口に出す。相変わらずフードで顔は見えないが、祥真にはまるで中身が別人になったように思えた。


「ま、いずれにせよそのまま待っててね。その靴のままじゃ家にも帰れないでしょ?」


 男に言われ足下を確認する。

 血溜まりを踏んだことにより、祥真の足跡がハッキリと、そして靴底には血の残りがベッタリと付いていた。

 短い悲鳴をあげ、限界を迎えた体がバランスを崩し尻餅をつく。

 さっき男が言っていた麻酔が効いてきたのだろう。


「あ、やっと効いた? まあとにかくもう大丈夫だから安心して寝てな、俺が責任持って家まで届けるから」


「あの、あなたは一体……」


 カスカスになってしまった声で男に尋ねる。

 自分に声をかけてくれたのは誰なのか、言えなくともどのような人物なのか。

 寝てしまう前にそれだけは聞いておきたかった。


「何者かって? 久々だなそんな質問。まー、そうだな。猛獣を狩る獣とでも言っておこうか」


 猛獣を狩る獣――。

 少年誌かなんかの異名かよ。

 意識の途切れるその直前、気が緩んだ祥真はそのまま上体を重力に委ねるよう倒れ込んだ。

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