開いた扉のソノサキの
後藤の背中を見守ったあと、しばし力が抜けていたのを感じ、大きく深呼吸をした。なんだろう、この感覚は。呆けているとも思われるかもしれないが、今は新たに行動することができない。
「種田さん、言葉が悪いかもしれませんが今後はあまり深入りしないのをおすすめします。でないと、種田さんの心が潰れてしまいますので」
心が潰れる。今の現状を例えるなら、なんとよくできた比喩表現なんだろうか。内臓の中に心という臓器はないが、軋み捻れ千切れるようなあの痛み。
「はい、善処します」
「今日の業務はこれで終了にしましょう。これ以上続けるのは、種田さんの心身に悪影響が及びますので」
今日の仕事はこれで終了か。審問官って大変な仕事なんだな。覚悟が出来てる なんて言ってしまったが、実際は見てわかる通り疲労困憊。思った以上に、心身に来る仕事だと感じる。
「……しばらくは、動けそうにないようなのでここで休んでてください。よき安寧を」
そう佐藤さんが言い切ると電源が切れるように意識が途切れていくのを感じたーーー
◇◇◇
体感としては、30分ほどだろうか。目を覚ますと、佐藤さんが日本茶を湯呑みに注いでいる。
傍らには、ポケットラジオだろうか。聞こえてくるブラックミュージックの音色が小さい音量ながらも耳に入り、鼓膜を揺らす。
茶を飲んでいるだけなのにすごく画になっていてしばらく眺め呆けていると佐藤さんと目が合い、一気に意識が覚醒していく。
「起きましたか。おはようございます。……顔色は先ほどよりはいいようですね。お茶、呑みますか?」
「いただきます。……どれぐらい眠っていましたか?」
「約二時間といったところでしたか。起こすのも悪いと思いましたので、そのまま寝ててもらいました」
二時間……そんなに眠っていたのか。体感と実質は思っていた以上に離れていたようで瞼はまだ重い。仮眠状態とはいえ眠っていたのに疲れはとれたといえず、徹夜明けの気怠さのような感覚が身体に残る。
佐藤さんが淹れてくれた緑茶を一口啜ると渋みが強かったが、その後に甘味が残り後味はとても爽やかに感じた。
「このお茶美味しいですね。茶葉の銘柄とかこだわってるんですか?」
「これは天竺から取り寄せている茶葉ですね。茶葉も嗜好品ですから、少しだけ手間がかかってもいいものを揃えたくなってしまいます。まぁ趣味みたいなものです」
天竺の茶か……趣味の範囲だから野暮なことは聞くまいと思ったが、これは現世で飲むとしたらいくらぐらいになるんだろうか……そう考えると味わい深く感じ、残りの茶をさらに味わうように呑んでいた。
◇◇◇
「さて、食事の前に種田さんを新しい居住まいに案内します。これが部屋の鍵です」
佐藤さんが渡してきたのは、真鍮製と思わしき鍵だった。見た目は古風なデザインで、RPGなどの宝箱の鍵といった印象を受ける。持ち手の部分には、ネクタイピンと同じ 彼岸花 がレリーフ状に彫刻されていた。
「これを案内するまで、ポケットにでも入れて肌身離さずにしておいてください。そうすると、種田さんの情報を読み取って鍵が新しい形に変わります」
これも現世にはない謎技術か。そういうところはファンタジー要素が強めなんだな、地獄って。今度、時間が空いた時に佐藤さんに教えてもらうことにしよう。
室内から、外に出て廊下を進んでいくと来る時よりも獄卒を見かけるのが増えてきていた。仕事の終了を表すのであろう鐘の音が鳴り響き、若干慌ただしくなってきていた。
「この廊下をまっすぐに進んで次の丁字路を左に曲がってください。その先に居住地へ行く扉がありますので」
「佐藤さんが案内してくれるんじゃ?」
「私も一緒に行きますが、もしもはぐれた時のリスクを考えた場合、目的地を教えておいたほうがトラブルを回避できますから。なので、はぐれた場合は教えた道順の通りに行ってみてください」
先ほどよりは若干混み始めた廊下を、教えてもらった通りに進むと引き戸型の扉が現れた。エレベーターの扉のように、スライドして行く形状らしい。
その手前にある、マンションのロビーにあるような無機質な箱に先ほど預かった鍵を差し込むと、奥にもう1つドアが見える。おそらく二重ロックのようになっているのであろう、そのドアを開けるとそこはーーー
◇◇◇
そこは、今朝もう二度と戻らないと思っていた安アパートの一室だった。部屋のレイアウトは変わらず、変わっているとこといえばベッドが新しくなっていることと窓から見える景色が以前のアパートのように、向かいのマンションの壁ではなく、草原が広がっているのが見て取れる。
「種田さんの居心地のいい空間に設定されるようになっていましたが、やはりこの部屋になりましたか」
佐藤さん曰く、先ほどの鍵で読み取った情報を基に、部屋が構成されるらしく俺の居心地のいい空間は、あの安アパートの一室だったようだ。
以前は、決められた形式の部屋があてがわれていたらしいが、獄卒によってはストレスがかかり、仕事の効率はおろか退職し人員が足りなくなる状況がよくあったらしく、その状況は明らかに不得手と判断、即急に対策がとられ、今の方式に固定したらしい。
今朝、出てきた部屋に戻ってきたような感覚と、染み付いた匂いはしない空間に身体を慣らしていく。同じレイアウトであっても、同じ部屋ではないという違和感はまだあるが、じきに慣れて当たり前になっていくのだろう。
「では、一時間後に迎えに上がりますので、それまではゆっくりしていてください。こちらもその間、少し作業が残っていますのでそれを進めてきます」
そういうと、佐藤さんは踵を返し部屋を出ていった。
その後ろ姿を見送った後、部屋の片隅に置いてある段ボールを開封し、愛用の枕とマグカップを取り出した。
枕を真新しいベッドに置いて横になると、かすかにだがあの古アパートの匂いが染みついていた。それは、もう手に入らないものーーー手のひらから離れていった物の匂いだった。
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