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 ○




〜これまでのあらすじ〜

 親父が未成年男子を誘拐してきた! 実際には本人と周囲ともに同意の上だったにしろ、五十半ばのオッサンが見ず知らずの少年に対して「お兄ちゃん、いま一人?」の第一声はちょっとやべえだろ、俺ならその場でスマホの緊急通報押す迷わず押す。

 それはさておいて、モサモサヨークシャーテリアもとい「ミハ」を迎えて、我が家の少しだけ新しい生活が始まったわけだ。そしてその弟分ミハが今。


「しいか……」

 今! 俺の前で涙目になっている!

「めがね……」

 いや、涙目は俺の網膜にかかった弟フィルターが見せた幻みたいだ。現実のミハは泣いてなんかないが、ここまで困った顔を見せたのは初めてだった。ミハの両手の中には今、バキバキにレンズの割れた黒縁メガネが包まれている。フレームもどことなく歪んでいて、一種の騙し絵みたいに軸がぶれていた。

「おまえ、これ……どうやったらこんなにヒビ入るんだ……?」

「ヒ、ビ?」

「あー、ええと、なんでこわれたの?」

「センタッキ……」

 入れて回したの!? 気づけよオイ!

「これ、修理はたぶん無理だな。買い直すしかないな」

「メガネ、ヤサン」

「そうそう、メガネ屋さん」

 ミハの手からメガネを拾い上げて、割れたレンズをちらりと覗いてみる。ほんの一瞬だったのにクラッと視界がねじ曲がった。あ、俺の視力? 両目ともに2.0ですどうも。

「おま……こんだけ目ぇ悪いのによくもまあ脱水終わるまで気づかなかったな……」

 毎朝の洗濯をミハに任せるようになって、間もなくひと月が経過する頃だと思う。洗濯機をセットして回し始めたあと、ミハは大抵居間のソファに身を沈めて、窓の向こうを横目に眺めながら朝メシのオレンジを食っている。遠くを見ていたから、洗濯機からけたたましい異音が聞こえるまで気が付かなかったのかもしれないが、なんつう危なっかしい。つうか、メガネってうっかり洗濯機に入っちまうもんなのか? 俺は前述通りに目だけは生まれてこの方ずっと高視力なのでよくわからない。

「ま、やっちゃったもんは仕方ないな。俺今日は午前中予定ないし、早めに出かけよ」

「すみ、マセン」

「謝んなよ、えっとなんつうんだっけ、ドントウォーリー?」

 自信はないまま、発音の下手な英語で返す。拙い発音でも、ミハは正しく聞き取ってくれる。真っ黒の瞳がひととききらめいて、Thanks、とささめいた。




 ミハはイギリスで生まれ育ったという。父親がイギリス人、母親が日本人のハーフの子ども。

 どうして日本に来たのか、そのあたりの経緯は訊いていないし、打ち明けられてもいない。親父から少し事情があると聞いていたから、興味本位で根掘り葉掘りしていいことでもないかと判断した。コイツがいつか自分から話すようなことがあれば聴くし、なくてもまあ、ミハはミハだし。

 イギリスに住んでいただけあって、英語の発音はすごく綺麗で耳障りがいい。日本語はこっちに来るまでほとんど触れたことがないという。向こうでは普通に学校に通っていたけれど、十六歳の四月にこちらに来てからは未就学を選んだみたいだった。そのあたりの事情もよく知らない。

「お前、ウチ来てから外に出かけたりしてんの?」

「……スコ、シ」

「まあ、歩き慣れない外国探検すんのも大変かもだけどな。近所だけでも少しは出歩けよ? 体力落ちるぞ?」

「しいか、sports、しますか?」

「俺はバイトでチャリ乗るから」

「ちゃ、り?」

「あーえっと、自転車。バイシクル」

 家を出て、しばらく住宅街を進む。とりあえず最寄り駅周辺の店を覗いてみようと思った。ゾフだかジンズだか、何かしらあったはず。

 空は関東圏の真冬らしく、今日も雲の少ない快晴。まだ二月なのに、児童公園の前を通ったらウグイスの下手くそな鳴き声がきこえた。

「シイカ、what's bird?」

「ウグイス。ほーほけきょ、って鳴くぞ」

「ホー?」

「ホケキョ」

 ミハとの会話はいつも他愛なくて、まるで園児を相手にしているような気分になる日もあるけれど。俺より二十センチ近く低い位置にあるミハの喉仏は、立派に尖った大人のそれだ。それに、ミハは頭がいい。俺の英語はあまり上達していないというのに、こいつは一度聞いた日本語をそうそう忘れないのだ。ほけ、っきょ、と、鳴くのが下手なウグイスの口ぶりを真似する小声からは、そんなことちっとも想像できないんだが。

 駅近くまで来て、ファッションブランドのテナントが建ち並ぶ通りに出る。メガネ屋はすぐに見つかった。流行りのフレームが安価で買えるタイプの店だ。

 ミハと二人、あれこれフレームを試着してみた。比較的どんなメガネでも似合う顔立ちをしているのに、よりにもよってなんであの重そうな黒縁を選んだのかが謎だった。

「お前色白だし、髪と瞳も真っ黒だろ? たぶん黒縁だと余計に重たく見えんだよ」

 瞳孔はともかく、光彩まで真っ黒の目というのを、俺は初めて見た。気になって検索してみたら、やはり世界的にも珍しい目の色らしい。白と黒だけで構成された双眸は、光と闇をいっぺんにのみこめそうなくらい綺麗で。いろんなフレームを掛けさせながらも、ついその瞳の深さに見入ってしまう。おまけにミハは俺の顔がよく見えていないのか、なんの恥じらいもなく見つめ返してくる。

「あっミハ、これは? ハート型」

「しいか、かけたら、かける」

 時折そんな風にして茶化していないと、その瞳に吸い込まれそうで。ハートのフレームをかけてポージングしてみせたら、堪えきれない様子で少しだけ笑った。ミハの笑顔はまだそんなに見たことがない。整った顔してんだから、もうちょっとにこやかにしてたらモテるんだろうと思う。

「しいか、コレ、は?」

 今は至って真顔のミハが、紺色の細いフレームをかけて俺に見せる。正直もう少し明るい色の方が、顔はパッとして見えるけど。

「気に入ったの?」

 なんとなくそんな気がして訊いたら、フレームを顔に乗せたままでこくんと頷いた。いいじゃん、と俺は笑う。こういうのは、本人が気に入ったものが一番いいに決まっている。俺の反応に、ミハは少しだけ恥じらったみたいに頷くと、ダッフルコートのポケットから数枚の紙を取り出した。いや、紙じゃない。紙幣。万札だ。

「ストーップ!」

 その手を押しとどめ、カネの心配ならいらない! と俺は高らかに宣言する。

「じゃーん」

 ジャケットのポケットから深緑色の財布を取り出す。目に見えて慌て始めたミハに、心配ご無用と俺は笑う。

「ディスイズ、耕三ズ・マネー!」

 明言したにもかかわらず、ミハはまだ戸惑ったように首を横に振っている。いーんだよ、ドンウォーリー。俺はその頭にボフボフと手を乗せた。

「いいか? ミハ。リピートアフターミー。“耕三のカネは、みんなのカネ”」

「こーぞーのカネは、ミンナのカネ」

「イエスイエス、続けて。“耕三のカネは、生活費”」

「こーぞーのカネは、セイ……?」

「せいかつひ。英語でなんて言うんだろ、待って…………なんて読むんだこれ」

 スマホの英訳ページをミハに見せると、「living expenses」と流暢な発音が返ってきた。リビング、エクスペンシス。

「まあ、そういうこと。別に耕三に礼とかしないでいいから、大事に使うこと。オッケー?」

 言い含めるように言うと、ミハは何かを諦めたのか、Sorry、と小さく呟いた。

「ドントウォーリー! しょげんなって。ほれ、会計行くぞ」

 ポンと背中を押すと、まだ少し困った顔のままミハは頷いた。

 しかし結果として、その日のうちにメガネを持ち帰ることはできなかった。ミハの視力が低すぎて、レンズの加工に数日かかるのだという。受け取るまでは家の中で、バキバキのメガネでどうにか過ごしてもらうしかなさそうだった。ミハと店員の間で通訳にもならない通訳をしながら、とりあえずレシートと客用の控えだけもらって来た道を戻る。

「子どもの頃から、目、悪いのか?」

 自分の目元を指で示しながら訊く。ノー、と、ミハが首を振る。

「大きくなってから?」

「Yes」

 それ以上はどう答えたらいいかわからないみたいだったので、俺もそれきり何も訊かなかった。冬の風が、耳元をヒュウと横切っていく。ミハが寒そうに首をすくめたので、ウチにマフラー余ってたかな、とぼんやり考えた。


 帰宅後、ミハは親父のデスクに向かった。親父から少しずつ使い方を教わり、「好きに遊んでいい」と言われたDTM機器を、暇なときにはいじっているらしい。大学に行く準備を済ませてから、ミハに声をかける。

「パソコン、見える?」

「ダイジョーブ」

 割れたメガネを覗いたり、液晶だのキーボードだのに顔面を近づけたりしながら、ミハは頷く。家の中には分かりにくい段差もないし、普通に過ごす分には怪我もしないと思うのだが。

「俺、学校のあとにバイトあるの。夕飯作っといたから、好きに食って」

 俺帰り遅い、夜ごはん、冷蔵庫の中。念を押すように言い直して、先に食っているよう伝える。たまに俺や親父が帰ってくるまで食わずに待っていることがあるのだ。八時九時ならまだしも、夜中に達していたりするとこっちも気が咎める。

「俺のことも親父のことも、待たなくていいかんな? ドントウェイト」

 繰り返し言う俺に、ミハはYesとまた頷いた。それを見届けてから、俺は「いってきます」と部屋を出る。廊下に置いておいたバックパックを背中に引っ掛けた。

 玄関の戸を閉める間際、かすかに歌を口ずさむ声が耳を掠めた。普段のそれよりいくらか高い声。ミハはあまり、俺や親父の前で歌わない。声域は、親父いわく「広すぎる」らしい。四オクターブは間違いなく出せると言っていた。聞けば子どもの頃、住んでいた街の教会の聖歌隊に入っていたという。地声は普通に低いのだけれど、高い声の出し方に慣れているのかもしれない。あまり音が響かないよう、けど、扉の閉じる音はちゃんと聞こえるくらいの感触で、扉を閉めた。

 一階までエレベーターで降りてから、マンションの駐輪場にある愛車のロックを解錠する。愛車といっても、元々は親父がダイエット目的で購入して三日坊主で乗るのをやめたロードバイクなのだが、買ってきた本人はもはや我が家に自転車があることさえ忘れている。

 冬の午後、自転車で風を切って大学へ向かう。さっき来た駅前を抜けて、沿線の通りをひた走る。途中で数本の下り列車に追い抜かれる。銀色の車体に陽の光がきらめいた。

 三十分かけて大学に到着する。春休み中だから学内はそれほど騒がしくないのだが、サークルの部室周辺では主に一、二年生が数名ずつでたむろしているのが見えた。駐輪場にチャリを停めて、学部で開放している自習室へと向かう。家だと気乗りしなくてなかなか課題も勉強も捗らないタイプなので、長期休暇中でも学校にはわりとよく来る。

 自習室には同じような目的で来ている数人の学生がいたけれど、昼時だからか根を詰めてテキストにかじりついている奴はいない。顔見知りからの挨拶に軽く応じつつ奥へ進んでいくと、

「いつき〜」

 姓の方を呼ばれて、俺は声の主へと目を向ける。いつきという名字なので、それこそ子どもの頃は「サイだしシカ」とよくバカにされたものだ。

 部屋の隅、窓際の席から俺を呼んだのは、友人の榎本。同学部の同期で、席があいうえお順だった入学式で隣同士だったから仲良くなった。めちゃめちゃに目立つ金髪を短く立たせている。タワシみたいだとひっそり思っている。

「よ」

「よー。斎なんかめっちゃ久しぶり」

「二週間前にも会ったろ」

「だっけか?」

 ジャケットを脱ぎながら隣の席に腰掛けて、パタパタとパーカーの前をつまんで服の内側に風を送る。

「今日もチャリで来たの? このさみいのに」

「そんなでもなかったけど」

 三十分ほぼノンストップでペダルを漕ぐと、さすがに暑い。冬だから着替えるほどではないけれど。

「ほいこれ、飲め」

 自分のバッグをがさがさ探った榎本が、唐突に缶を一本机の上に置いた。怪訝にラベルを確認する。シークワーサージュース。

「は? シークワーサー?」

「沖縄行ってた。お土産」

「いきなりだな。なに、彼女と?」

「いねえの知ってて訊くのマジで言葉の暴力だかんなお前」

 榎本は一人旅が好きだ。ちなみにこの間の冬休み中はアルバニアに行っていたという。アルバニアってどこにあんの。

「冬寒すぎて詰んだから沖縄行ってきた。夏だった」

「だろうな」

「なあ今度斎もどっか行こうよ〜。タクマとかイザワとかとさ〜。結構みんな行ってるよ? 就活前の記念旅行的なさ〜」

「んー、飛行機乗らないで済むとこなら……」

「相変わらずだな」

 飛行機というか、空港にトラウマがある。六歳の頃、両親に連れられてオーストラリアに行ったのだが、帰りの便が機体トラブルで遅れた。それはまだ仕方がないにしても、俺の記憶に刻まれた恐ろしさはそこからが本番だった。予定を狂わされた同便の乗客たちが航空会社の職員に詰め寄って、彼らそれぞれの母国語で一斉にブチキレたのだ。俺はその、違う言語がいくつも入り混じった大音量の怒声があまりに怖くて、べそべそ泣いた。結局帰国できたのは、当初到着予定時刻の六時間後だった。

「飛行機使わないっつーと、まあ本州だよなー。京都とか行ってくる?」

「軽やかに言うけど、お前大丈夫なの? 店番とか」

「あー、うち来月いっぱいで店舗閉めるって」

「え、やめるの?」

 榎本のお父さんは、ウチの大学の最寄り駅付近で古書店を開いている。自営の小さな店だけど、開店してもう三十年が経つという。

「やめるっつうか、ネットで注文受けたやつだけ配送するみたい。店舗をなくすって」

「なくすって、なんで?」

「オヤジが配送で出てる間、店番してくれるバイトがなかなか見つからないって。オレは授業ないときしか店番できないし、他の学生ももちろんそうだし。パートさん雇うにしても、普通のチェーン店みたいにそんないい時給払えないし、って。オカンはスーパーのパートがあるしさ。古本だけで食ってくのはムズいからしゃーないんだけどな。店舗の維持費がもったいねーって。俺も継ぐかって言われたら、今のとこすんなりとは頷けねーし」

 榎本の気持ちはわかる。このご時世に古書店だけで食っていくという決断を下すのは、なかなかに度胸のいることだろう。

「ま、そういうわけで。店番の心配はもうそんなにしなくてよくなるかもだから」

「あー、そっか……」

「なんだよ斎〜、お前が落ち込むなよ〜」

「いや落ち込んでは……なんつうか、難しいな」

「ははっ、ありがとな。親父に言っとくわ」

 うん、と頷いて、俺は机の上の缶のプルトップを引いた。シークワーサージュースは酸味が強くて、思わず眉をひそめた。




 昼過ぎからは真面目に参考書と向き合った。榎本が先に帰宅したのを見送って、次に我に返ったときには六時を回っていた。

 構内を出る前に個人ロッカーへと寄って、中から仕事で使う大きな保冷バッグを引っ張り出す。空いた時間を使って、Uで始まるフードデリバリーの配送をしている。厳密にはアルバイト雇用ではないのだけれど、ミハには混乱させないためにバイトと説明している。

 チャリに跨り、とりあえず駅前で仕事用のアプリを起動する。そう間髪を入れずにすぐ依頼が入った。件数は日によって全然違う。ほどよく稼げる日も、全然仕事が入らなくて下手な路上ライブを聞き流して終わる日も、ちょっともうペダル漕げないですと零したくなるほど舞い込む日もある。店で商品を受け取って保冷バッグに納め、依頼主の元までそれを届ける。基本的には延々とチャリを漕ぐ仕事。単純だしいい運動にもなるけれど、まあ、普通に疲れる。

 結局、九時過ぎまで真面目に働いた。本当は八時で切り上げようと思ったのだが、アプリを閉じようとしたその絶妙なタイミングで依頼が突っ込まれてしまった。ゼイゼイ言いながら、冬の夜道をひた走る。親父、なんで電動バイクにしなかったんだよ。三日で飽きるならガチのロードバイクじゃなくて俺のために電動アシスト自転車にしてくれりゃよかったよ。

 マンションに着いたのは十時になろうとする頃だった。ただいまー。玄関を開けて居間に入ると、ローテーブルでは親父とミハが俺の作っておいたドライカレーを食いながらテキストを開いていた。俺が高校生のときに使っていたオーラルコミュニケーションの授業の教科書だ。

「えーミハくん、これは? これなんて読むの?」

「Disagree」

「でぃさぐりー?」

「Disagree」

「“一致しない”」

 横槍を入れると、おかえりシーカ、とようやく親父が顔を上げた。

「カレー美味しかったよ。ね、ミハくん」

「Great」

「そうそう、グレイト!」

 そうかい、と、ようやくバックを背中から下ろして。シャワーを浴びに行く前に、ミハが座るソファの横に腰を下ろした。

「つーかこの部屋エアコン効きすぎじゃね? あっち」

「ミハくん、暑すぎるって英語で何て言うの?」

「Too hot」

「トゥーホット」

「トゥーホット」

 ミハが日本語に馴染もうとする傍らで、俺と親父もまた少しずつ英語の勉強を始めていた。俺は現役の学生だからまだしも、アラフィフの親父にはなかなか大変そうだ。だけど、ミハにだけ日本語を覚えさせるのもなんだかフェアじゃない。珍しく父子の意見が一致したので、斎家もまた国際化へのささやかな一歩を踏み出したわけだ。少しずつ単語や挨拶を覚えては、ミハに得意げなツラで披露する親父のヘタクソな発音を聞きながら、俺も自分の分の晩飯をレンジであたためる。

「そういやシーカ、教科書からお前の定期テストの答案出てきたよ。六十三点」

「ああ!? 見てんじゃねーよ!」

「だって間に挟まってたんだも〜ん、ねーミハくん?」

「ミハを共犯にすんな!」

 出来るだけ早めに帰宅する習慣をつけると宣言したとおり、最近親父は帰りが早い。どうしても外せない飲み会の日はともかくとしても、ここ一ヶ月ほど、ほぼ毎晩九時頃には帰宅している。別に親が恋しい歳でもないし、普段はいてもいなくてもいい、どちらかといえばやかましいから近寄らないでほしいと思っている父親だが、一緒に暮らす人間が増えるとまた少し違う感覚がある。親父とこうやって、日本語でさえ頭の悪い会話ばかり繰り返しながら、二人してミハを構う夜は思いのほか楽しかった。一人で食って一人で片して一人でベッドに潜るのも嫌いではないけれど、この賑やかさもたぶん、嫌いじゃない。

 やかましい俺と親父を、ミハはいつもぽうっとしたまま眺めている。けれど来たばかりの頃のような、虚無感ばかりを漂わせているわけでもない。ミハくん、シーカが入る前にお風呂済ませておいで、ゴートゥーバスルーム。親父に促されて、ミハは一つ頷くと素直に立ち上がった。




 ●




 この国では、食前と食後の挨拶というものがある。食べる前に「頂きます」、食べた後には「ご馳走さまでした」と、両のてのひらを合わせて言う。日本に来て、祖母がその日のうちに教えてくれた言葉だった。日本はゆるやかな仏教の国だと聞いてはいたけれどどの仏に祈っているのかと思ったら、どうやら頂く料理そのものへの感謝を口にしていることが多いらしいと説明されて納得した。イギリスでは、食前にも食後にも決まった挨拶というものは存在しないから、日本の煩雑かつ繊細な文化には多少ならず驚いた。祖母とは数えるほどしか会話をしたことがないけれど、来日した晩の、その挨拶の話はよく覚えている。

 イギリスも多宗教社会であるけれど日本の宗教事情はさらに柔軟で、国教がない中でめいめいが色んな神様を信じていたりいなかったりするらしい。いっとう興味をひかれたのが、八百万の神というもので、「シンラバンショウ、すべてのものに神がやどる」という考え方だった。だから人々は、食べるものにも、住む家にも、路傍の石にさえも、時折祈り、同調する。すべてのものに、神がやどる。言葉にも、旋律にも。すべてのなにかがどこかにつながっている世界。

「わ、あぶね親父蹴るとこだった」

 入浴を終えて居間に戻った詩歌が、ローテーブルの脚元に転がっていた耕三の頭に躓きかけてぎょっとしていた。彼らはとても仲のよい父子で、見ていると心が和む。

「親父さあ、いい加減自分の部屋に布団くらい置けよ。ミハが落ち着いて寝れねえだろ」

 続いた声はそのすべてを頭の中で翻訳することはできなかったけれど、「自分の部屋」「フトン」「ミハ 寝れない」と続いたから、たぶん耕三に自室で休むよう促しているのだろう。詩歌の呼びかけは届いていないようで、耕三の健やかな寝息は途切れない。僕は耕三と同じ部屋で寝ることを、決して厭っていない。自分以外のひとの気配のある部屋で眠ると、時々言葉にできないほどの安寧がもたらされたり、するから。

「しいか、ダイジョウブ」

 そういう全部を、たとえば僕が日本人だったとしたって、僕は詩歌に話さないのだろう。言葉は内に留めたほうが、よいときもある。そのまま眠らせたり、あるいは、もっとべつのかたちでいずれ声にしたり。

「大丈夫って、親父結構イビキうるさいだろ。あ、わかる? イビキ」

「イ……?」

「ねてるとき、グーグー」

「Snore」

「すのあ? 英語だとそんなオシャンな響きになんのかイビキ……」

 僕らの会話にも目ざめる様子を見せない耕三にため息をついて、詩歌は肩にかけたバスタオルでわしゃわしゃと濡れ髪をこする。冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出しあおるその背中に、

「しいか」

 声をかけた。綺麗な名だと、呼ぶたび思う。なに? と振り向く高い背中。詩歌は冷蔵庫みたいに身長が高い。

「…………」

 呼びかけておいて、続ける言葉が見つからない。日本語に変換できないのではなくて、ただ、自分の気持ちをどう言い表したらいいのかがわからないだけ。

「……ナンデモ、ナイ」

「ホントかよ。なんかあんなら言ってみ? 英語ででもさ」

 斎家の二人は、僕に日本語を強要しない。僕に日本語を教える代わりに、自分たちに英語を教えてと、言ってくれた。優しい人たち。この国の人々はみな、優しい。

「……アリガトウ、きょう、メガネ」

 眼鏡屋に連れて行ってくれて、とは、敢えて言わなかった。ああ、と、詩歌はやっぱりけろりと笑う。

「気にすんなって。早く受け取れるといいな」

「……ウン」


『ああ、モスグリーンの財布なら詩歌のだよ』


 頷きながらも、詩歌の帰宅前に耕三から聞いた話が、脳裏をもう何度目かで過ぎっていく。仕事から帰宅した耕三に、モスグリーンの財布は耕三のものかと尋ねたのだ。昼間詩歌が眼鏡屋で取り出した財布には、お金の他にいくつかのカードが入っていた。そのうちの一枚に、詩歌の顔写真が小さく挿し込まれたものがあった気がした。ぼやけた視界で不明瞭だったけれど、なんとなく、あの財布は詩歌の私物ではないかと思った。

『アイツが大学入った年にボクが贈ったんだ。あの緑、いい色でしょ?』

 冬の森みたいに、印象的な深緑だった。僕は頷く。

『きょう、しいかが、メガネを、かってくれました』

『へえ、それはよかったね! グッドグッド!』

『デモ、しいか、コーゾーのオカネ、いってました』

『アイツの財布には、アイツのバイト代しか入ってないよ。わかる? 働いて稼いだお金』

『Yes』

 僕のうまく言えない部分を、耕三は正しく酌んでくれたらしい。いいんだよ、と、耕三は朗らかに笑って、プルトップを引いた缶ビールをぐっと呷る。銀色の五百ミリ缶に、天井の灯りがちかりと反射した。


「……ホントウに、アリガトウ。Thanks」

「な、なんだよもー、いいって。どーいたしまして! えっとなんつーんだ、ユアウェルカム!」

 気恥ずかしくなってきたのか、早く寝ろよと言い置くなり、詩歌は自室へと戻っていった。


『シーカはたぶん、ミハくんに、何か贈りたかったんだろうな。プレゼントね』

『Present……』

『そうそう。シーカは素直じゃないからね、自分からって恥ずかしくて言えなかったんでしょ』

 歓迎の、しるしだよ。ようこそ我が家へ、ウエルカム、って。

 そう言ってのんびりと笑いながら、耕三はドライカレーの皿のラップを剥がした。


 祈る神をなくした僕に、斎家の二人はいくつもくれる。居場所や、視界、鳥の名前に、ドライカレーの美味しさ。

 僕は二人に、これからなにを返していけるだろう。ちっぽけな異邦人の、こんな自分が。返せる何かなど、果たしてあるのだろうか。

 今は浅い鼾で眠る耕三とともに居間に残されて、おもむろに閉じたカーテンを少しだけめくる。地上六階。冬の夜空は澄んで高く、けれどぼやけた目では、星の光は見えなかった。

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