神を飼う

四時

1




〜これまでのあらすじ〜

 俺の親父は業界じゃさほど名の知れてない音楽プロデューサー。そんな親父がある日、モサモサ頭のヨークシャーテリアみてえな中坊を連れて帰ってきた! 聞けば「公園で歌ってたのが上手だったから連れて帰ってきた」とのこと。いや拾うな。誘拐という名の犯罪だそれは。


「あったとこに戻してこい」

「大丈夫大丈夫、手続きは全部済ませてきた」

「何の?」

 年明け三週目、世間に名残っていた正月気分がようやく跡形もなく消えた、一月半ばの夜だった。ヒゲデブメガネの顔立ちだけが温厚な親父は、俺の声には耳を貸さずに、背後に立っていたヨークシャーテリアをさあどうぞと招き入れる。

「いやマジで、誰んちの子だよ」

「あ、鞄はそのソファの上に置いていいよ〜」

「聞けよ」

 狭すぎも広すぎもしないマンションでの男二人暮らしだが、主に俺が頑張っているおかげで散らかりきっているわけでもない。

 親父が少し、いやだいぶ変わった人間だということは、身をもって知っていた。俺が小学生の頃はヤクザ顔負けのド派手なアロハシャツで授業参観に来ていたし(他人のフリが大変だった)、高校の頃にできた彼女を家に連れてきたときには激しく動揺してなぜか親父本人の履歴書を彼女に提出した(それが理由とは言わないが半月後に破局した)。そうして今日。珍しく早く帰ってきたかと思ったら、なぜか見知らぬ男子を拾ってきた。せめてホントに犬ならよかった。それならばまだ、よもぎと名付けて可愛がれたのに(俺はよもぎ餅が好きだ)。

「大丈夫だって。本人も周りも承知の上で来てもらってるし」

「周りって誰だよ、いいわけねえだろこんな中学生連れてきやがって」

「ミハくんは十六歳だよ」

 言われてうっかり背後の小型犬を二度見した。もさもさに伸び切った黒髪。親父の軽そうなフレームとは真逆の、黒縁の厚ぼったいメガネをかけている。じゅうろく? 高校生? 顔はよく見えないけどこの風貌は中学生では? というか、

「え、なにミハって」

「この子の名前。シーカといい勝負だねぇ」

「テメェが言うな」

 俺の名前は詩歌しいかという。売れない音楽プロデューサーが付けただけあって、鳥肌の立つほど浮かれた名前。成人したら絶対改名すると思っていたのだが手続きが億劫で、ハタチの誕生日から一年以上経ったというのに未だにこのキラキラネームを冠して生きている。ちなみに名付け親のヒゲデブメガネの名前は耕三。お察しの通り農家の三男坊です当たってます。

「ああ、学校は行ってないってから。大学午後からの日はお昼の面倒みてあげてね〜」

「拾ってきといて息子に任せてんじゃねえよ! つーかどこの誰だよマジで!」

 泡を食う俺に、ふいに振り向いた親父がぽそりと言う。

「とりあえずは、名前があれば十分でしょ」

 真面目な顔して真意のようなことをのたまうが、拾ってきた子犬の世話を息子に押し付けようという魂胆が見え見えであること、そもそもテメェのメタボ腹が一緒になって振り向いてる時点で説得力は微塵もないというものだ。張っ倒したい。

「というわけで、シーカ今日の夜ごはんなに〜?」

「チャーハンだけど、テメェの分はその子に回すからコンビニでも行って来い」

「ひどっ! それが一日労働という名の歯車に玩ばれてきた父に言うセリフ!?」

「うっせえ文句があんならあった場所に戻してこいデブ!」

 すでに仕上げて皿に移してあった十分クッキングの夕飯をレンジにかけながら言い返す。温め直した晩飯を、けれど拾い犬はほとんど食わなかった。ぼんやりと、出された皿にしばし目線を落としたまま。何も言わずに座る横顔の表情は、髪とメガネに隠れてよく見えなかった。




 学校に行っていないというソイツは、翌日の昼間、俺が起床して居間に出てきたときもまだそこにいた。外は快晴の冬の朝だというのに、昨日晩飯を出したときとほとんど変わらない様子で座り込んでいる。

 我が家では、毎日の夕飯は俺が何かしら用意する代わりに、朝飯は親父が何かしら用意するという取り決めがある。保温されたままの炊飯器を開けると、三合炊きの窯の中には白飯がまだ十分に残っている。親父と、もしかしたらあの子も朝飯に食ったのかもしれない。俺は朝は極力寝ていたいタイプなので、午前中に授業でもない限りわざわざ朝飯のために起きたりしない。

 十六歳の子犬はどうやら、居間のソファで毛布にくるまって一晩を過ごしたらしい。この家にあるベッドといえば俺の部屋のシングルベッドだけで、親父はそれこそ居間か自室の椅子での寝落ちが基本である。二十四時間いつでも活動していたいタイプなので、とにかく布団で寝るのが嫌いらしい。意味がわからない。 

「おい」

 俺の声に反応して、ぐるりと視線を寄越すモサモサの頭。得体のしれない拾いものとはいえ、一応成人している身として未成年を無視するわけにはいかないだろう。朝飯も食ったか分からないし。

「おはよ。メシ食ったの?」

「…………」

 子犬は俺の問いかけに何か返すわけでもなく、声をつまらせたみたいにただ黙り込んでいる。ただのしかばねかコラ。

「おーい、聞こえてんだろ? メシ。朝メシ食ったのお前」

「…………め、」

「め?」

「め、し……?」

 ──おん?

 え、何? めし? いや、めしはメシだよ。なぜ訊き返す? 今ちょっとメシについて考えすぎて俺の中でメシに対するゲシュタルトが崩壊しかかってんだけど?

「あーもー、わかんねーな!」

 思わずぐしゃぐしゃと頭を掻くと、子犬はビクッと身をすくませた。大きい声に驚いたのか。そう気がついて、余計にイラついてしまう。

 気を取り直して、一旦炊飯器の保温を切った。冷蔵庫の横、レンジ台の上にあるワイヤーバスケットからオレンジを二つ掴み上げた。ヘタのあたりに果物ナイフで軽く切り込みを入れてから、それを持って居間へと戻る。

「ほれ。腹減ってたら食え」

 子犬の座るソファの前のローテーブルにオレンジを一つぽすんと乗せて、俺はソファから少し離れた位置にあるダイニングテーブルの椅子に座った。子犬の視線は、目前のオレンジと、自分の分の皮をむき始めた俺の間を何度か往復した。

「聞こえてなかったか? 食いたかったら食え。いらなきゃそのまま置いといていいから」

 いらないなら俺が二つ食ってもいいし、皮だけ剥いて冷蔵しておいたっていい。努めてはっきり発音しながらも、声が大きくなりすぎないよう気をつけた。子犬はしばらくぼうっとしてから、やがてオレンジを掬いあげた。そのまま口元に持っていって、すん、と、香りを嗅いでいる。なんだか野良犬に餌付けが成功してしまったような、異様な気分に陥った俺の、耳を、

「あ、」

 通り過ぎたその声は。

「あり、ガトウ」

 どう聞いても、日本人の発音ではなくて──なのに、ひどく流麗な音色を帯びていて。俺は思わず剥きかけのオレンジを膝に落として、目の前の子犬を凝視した。

「……え、お前、外国人なの?」

「が、……?」

「外国人……んーと、日本人と、ちがう?」

「ちがう、けど、ちがう、ない」

 どっちだ。モロの日本人ではないようだが、見かけはどう見ても日本の男子中学せ……失礼。男子高校生だ。

「ハーフ?」

 当てずっぽうで訊くと、どうやら今度は通じたらしい。子犬がこくんと頷いた。どこから突っ込んだらいいか、正直困る。

「お前、ほんとに、こんなとこにいていいの?」

「コウゾウが、オーケー、いうなら」

 ああそう。ワケありということだろうか。

「お前、名前なんだっけ」

「……ミハ」

「それ本名?」

「ほん……ホン、ミョ?」

「あーえっと、いいや、今のナシ。とりあえずオレンジ食え」

「Orange」

「そう、なんだ、イート?」

 顔に似合わない流暢な発音にギョッとしてしまう。色々気になることはあるが、あんまり質問攻めにしてもアレだろうし。思いながら、オレンジを一房剥がして口に突っ込む。柑橘の甘ずっぱさが、起き抜けの全身に染み渡る。

「まあ、お前自身がよくて、お前の周りもいいって言ってんなら、いてもいいけど」

 誘拐ではないみたいだから、もうなんでもいいかと思い始めた。ふと時計を見ると、午後イチの授業に出るにはあまり余裕ぶっていられない時間になっている。やべやべと言いつつ最後の一房を飲み込んで、

「ま、ゆっくりしていきな」

 そう言って、あとはさっさと家を出る支度をはじめた。子犬はしばらく俺を見つめてから、やがて最初の一房をようやっと口にした。




 親父は今夜も早く帰ってきた。人との繋がりが意外なビジネスチャンスに繫がることのある職種の親父は、誰かと飲んで午前様という日もザラなのだ。おまけにケーキを買ってきた。最近ウチの近所にできたという、女子受け必至の映える店。

「なんでケーキ?」

「お前じゃねえよ、ミハくんにだ! ウエルカムケーキだ!」

 高らかにのたまうと、にっこり笑って「ミハく~ん」とソファの上で相変わらず膝を抱えているそいつを呼んだ。ウエルカムケーキ! そう言いながら箱の中の映えるショートケーキだのチーズタルトだのを見せた親父に、Thanks、とだけささめいた。モサモサ髪とメガネに覆われた表情はやはりよく見えないが、声の感じだとあんまり喜んでいない気がする。

 大学から帰ったあと、俺はチキンライスを作っておいた。これから薄焼きの卵でくるんでオムライスにする。我が家ではいわゆる「たんぽぽオムライス」をオムライスとして認定していない。薄焼き卵に包んでケチャップを添えたこれぞまさしく、オムライスと呼んで然るべきものである。

 子ども受けするかと思って意気揚々と作ったのだが、反応は映えケーキとさほど変わらなかった。おかしい。こんなつもりでは。

「ミハくん」

 夕食の片付けをしていると、ソファの上で所在なげにしているそいつに、親父が声をかけた。

「約束、今から果たそうか」

 その言葉に。

 それまで一度も認識できなかったメガネの奥の表情が、かすかに揺らいだのがわかった。え、何? なんの話? 約束?

「約束ってなんだよ親父」

「お、シーカも興味ある? 見学する?」

「しねえよアホ」

「アホって。アホってひどくない?」

 バカもクソもヒゲデブも容認するクセに、なぜかアホだけは気に入らないらしい。意味がわからない。さめざめ言いながら、親父は廊下の先の自室へと、モサモサ頭を連れ立って消えた。

「…………」

 いや別に、気にならねえし。ヒゲデブとヨークシャーテリアの約束なんて別に興味ねえし知りたいとも思わねえし。最後の皿を洗い終えて布巾で手を拭きながら、しかし次の瞬間俺はハッと気が付いてしまった。

 あのクソバカヒゲデブアホメガネ、あの子にエロいことしたりしねえだろうな。

 『自称音楽プロデューサー、未成年男児への性的暴行で逮捕~欲求不満のはけ口か』朝刊の見出しを飾るそんな文言までもが目に浮かんで、思わずキッチンを飛び出して親父の部屋の前へと走った。待て待て待て待て逮捕だけは勘弁しろ、俺の沽券に関わるから!

 恐る恐る、閉じた部屋の戸を細く開けて。最悪ナニを殴り潰してでも止めようと決心した俺の目に。

「──……」

 整った少年の横顔が、刻み込まれた。

 親父が仕事で使うDTM機器に囲まれたデスクトップパソコンの前、デスクチェアに座ったそいつは、自分からあれこれ親父に何かを訊いている。表情はやっぱり隠れているものの、かすかに聞こえる声の調子は今までで一番人間じみていた。親父はマウスを何度かクリックして、身振り手振りで何かを教えようとしていた。伝わったのかそいつは一度だけ頷いて、やがてキーボードで何かをカタカタ入力した。無線のヘッドホンを耳にかけようとして、髪とメガネが邪魔だったのか、そいつは重たそうな黒縁メガネをデスクの上に畳んで乗せた。

 無造作に掻きあげられた横髪の奥。初めて見た頬の細さと、瞳の、黒さ。

 白い肌に、やや不釣り合いにさえ見える尖った喉仏が。す、と、息を吸いこんで、音を、

「っ、」

 歌を、紡ぐ、その、声は。

「……んだ、これ」

 ついさっきまで、ケーキにもオムライスにも大した反応を見せなかったそいつが。その大人しげな横顔からは信じられないような、強く美しい声で歌っている。しがない音楽プロデューサーの父を持つ身にふさわしく、俺には音楽の才能なんてまるでない。その俺でさえ、わかる。

 神様の歌声だ。

 全身の毛が立って、足元から脳天まで微炭酸の海に呑まれたみたいな衝撃だった。誰の何という曲なのかは、わからない。歌詞もメロディも日本の曲ではない、ということくらいしか。ただ、初めてきくはずなのにどこか懐かしくきこえるその旋律を、ひどく愛おしげにうたうその横顔を凝視しながら。いつの間にか、心臓は早鐘を打っていた。

 なんだこれ。なんだ、これ。

 ソファの上で萎んでいた数時間前のそいつと、この声の主とが同一人物だなんて、俺でなくても信じがたいだろう。それほど長くない一曲を、静かに歌い終えて。余韻も何もないまま、背後の親父に何か質問しはじめた。親父はそれに答えようとして、ふいに部屋の扉の先の視線、つまり俺の存在に気が付いたらしい。

「やぁだシーカったら覗き見なんて、エッチね~」

 平然と軽口を寄越すそのニヤつき顔に、頭の中の何かが決壊した。

「テメエちょっとこっち来い!」

「きゃーっやめてー、暴力はんたーいっ」

 気色の悪い裏声で俺に腕を引っ張られながら、親父は部屋の中を振り返る。

「ミハくん、好きに遊んでていいよー」

 部屋を出るとき、椅子の上でぽかんと首を傾げる少年の不思議そうな顔が見えたが、申し訳ないことに構っていられなかった。


「なんだよあれ!」

「あれってどれ、こないだ新調した無線ヘッドホンのこと? いやあれバカ高くてさあ」

「分かってて反らすな!」

 居間まで引っ張ってきた親父は、泡を食ったままの俺に、どこか楽しそうに言う。

「だからー、おとーさん最初に言ったじゃんか~」

 ──公園で歌ってたのが上手だったから連れて帰ってきた。

 そう言ってあの子を連れて帰ってきた夜が、ずいぶん遠い日のことに思える。実際にはまだ丸一日しか経ってないんだが。

「いや、上手っつーか……俺でさえわかるぞ? あれ只者じゃねえだろ」

 そうだよね。親父はそう頷いて、ソファに重そうな腰を下ろす。ポケットから携帯を取り出して、昨日言ったまんまなんだよ、と弁明した。

「昨日、公園のベンチで一人、アイフォン片手に歌ってて。少し抑えた声量だったのにあんまりとんでもない歌声だったから思わず声かけた。アプリで録った歌をネットに上げてるらしい。検索してみたら確かにチャンネルがあった。これ」

 そう言いながら、親父は俺にスマホを寄越す。Yで始まる世界的動画サイトの検索結果画面だった。曲名がそのままタイトルとされた動画が四つ並んでいる。どの動画にもそれなりの再生数が表示されていて、俺でも知っているタイトルの曲なんかはズバ抜けて聴かれているようだった。投稿者の名前は、「miha」。

「みは……」

「その読み方で合ってるってさ」

 親父はスマートフォンをローテーブルに置くと、正直、と続ける。

「正直、どうして声をかけたって訊かれりゃそれは、カネの匂いがしたからだ。お前もわかるだろ、あれは化物だよ」

 でもね、他に何も思わなかったかって訊かれたら、素直に頷くのも難しいんだよ。

「個人情報だし今は端折るけど、まあ、色々事情のある子みたいでね。ミハくんの保護者の方に、しばらくウチで預かってもいいかって相談したら、イエスともノーとも言い難い感じの顔で、許可された。ちょっと複雑みたい。僕も全部は聞かされてない」

 親父はそう言って立ち上がると、なんかね、と、闇色をした窓の外を一瞥してから、カーテンを閉めた。

「これからどうするとか、あの子がどうなりたいとかは、まだわからない。僕の中のプロデューサー魂はとりあえず置いといて、まずは本人が望む形で、歌える環境を与えてあげたいと思った。これからのことは、あの子がここでどう歌えるか、というか、どれくらい“うたえる”か、ある程度わかってからでいいかなって」

 親父が少し、いやだいぶ変わった人間だということは身をもって知っていた。俺が小学生の頃、授業参観に着てきたド派手なアロハシャツを放課後に全力で飛び蹴りして汚したら「やめてよ僕の一張羅!」と喚くような父親だったし、その帰り道、交差点で轢かれて内蔵をはみ出させた猫の遺体を、ためらいもなくその一張羅でくるみ込んで、河川敷の原っぱにそのまま埋葬してしまう、そんな父親だった。冬の午後だったと思う。季節外れのハイビスカスに包まれた猫の体を、今でも鮮明に思い出せる。

「……あいつ、学校行ってないって、不登校なの? それとも」

「うん、不登校、ではない。学校に行く道自体選んでない」

 そっちか、と思ったが、むしろそっちのほうが自然だなとさえ思う。

「日本来て、どんくらい?」

「一年くらいだって。人との会話はそんなにしてこなかったのかもね。動画のコメント欄にも、返信はしてないみたいだから」

 外の国から来た子どもが、日本語を一年間でどのくらい体得できるのか、俺は知らない。

「ねえ、シーカ。別に、あの子の兄貴になってやってくれとまでは言わない。ただ、たまに話してやってもらえないかな。僕はシーカに比べると、家にいられない時間が長いし」

 そうしてくれたら、ミハくん、もう少し日常会話に困らないくらいにはなれると思う。そう言われて、さすがにノーとは言えなかった。

「お前も飲み会減らせよな」

「仕事なんだけどなー。まあ、努力するよ。僕が見つけてきたんだしね」

 コイツは、「拾った」ではなく、「見つけた」と言うのか。ふいに気づいて、けれどなんとなく、口をつぐんだ。




「ミハ」

 いざ口に出して呼んでみると、犬というよりは猫のニュアンスに近い気がした。翌日の昼、親父の部屋でヘッドフォンを当てたままぼんやりデスクチェアに座っているそいつに、声をかけた。

「おはよ。メシ食ったか」

「……め、し」

「そ、メシ。ごはん」

「……Not yet」

「まだ、な。昔習ったなそれ」

 英語はあまり得意じゃない。うろ覚えの知識で頷いて、何食いたい? と俺は続ける。

「お前が食いたいのでいいぞ。まあ、家にあるやつしか出せねーけど」

「Orange」

 即答されて、少し驚いた。そんなにオレンジ好きなのか、お前。


「なあ。髪、切ってやろうか」

 一人一つのオレンジで遅い朝飯を終えたあと、俺はミハにそう振ってみた。

「かみ……Paper?」

「ちげーちげー、ヘアー」

 モサモサと顔全体を隠す、子犬を子犬たらしめているモップみたいな黒髪。昨日の夜も邪魔そうにしていた。

「Hair」

「そ。髪長いから、切ってやるか? って。ロングヘアー、イズ、うっとうしい」

「き、って?」

「カット、ヘアーカット」

 下手な英語はともかくとして、一応伝わったらしい。ミハは少し考えこんだあと、やがてこくりと頷いた。

 特段広くも狭くもないマンションだが、ベランダだけは少し幅広めに造られていた。そこに親父の買ってくるスポーツ紙の古新聞を広げて、ダイニングテーブルの椅子を一つ置く。今日は風もほとんどないから、切った髪がバラバラ飛ばされることもないだろう。

「座って。あとメガネ外して」

 椅子にミハを座らせて、散髪用のケープを被せる。時折親父の髪をバリカンしてやるときに使うやつだ。メガネは預かって、洗濯物を干すとき何かと便利な木の台の上に乗せておく。モサモサの後頭部を前に、さてどうしたもんかなとしばし悩む。

「すげー短くするのと、少し長めにすんの、どっちがいい?」

「?」

「あーと、ベリーショート、オア、少し多めに残すヘア」

 なんだそりゃと思いながらも身振り手振りを交えて説明すると、「ノコスヘア」、と返事があった。おっけ。頷いて、まずは霧吹きで髪全体を濡らす。散髪を俺に教えたのは母だ。うまくなれとは言わないけど、覚えとくと便利よ。そう言われて基本だけ教わった。確かに便利だ。こういうときに。

 冬の正午の青空は寒い以上にさわやかで、時折銀色のハサミに太陽の光が反射するのがまぶしかった。しゃきん。しゃきん。少しずつ、伸び切ったモップを切っていく。耳に触れると、ひく、と一瞬震えたのがわかった。長くて、短い、ひとときが。特に会話もないまま流れていく。正直俺は髪を切るのに精一杯で、話している余裕もないのだけれど。

「こんなもんか」

 一通り全体を整えたところで、ミハにメガネと手鏡を渡した。髪は、耳にかかるくらい残した。前髪もいきなり短すぎるのは不安かもしれないので、目にかからないくらいの長さにした。メガネをしていないと、中世的な女の子に見えなくもない。喉仏が立派だから間違われはしないだろうが。

「……し、」

 鏡の中に、何か言おうとしているミハの顔が映る。なんだ? と、後ろに立ったまま声をかけた。

「シ、カ?」

「鹿?」

 訊き返してから、気が付いた。そういやガキの頃は、よくシカだシカだってからかわれたっけ。

「詩歌」

「しい、か」

「そ」

 そもそもは漢文とか和歌とか、そっち方面に使われる言葉らしい。親父はアホなので、そのあたりのことを詳しく調べもしないで名付けたワケだが。

「うた、って意味だよ」

 大意が通じればいいかと、そう説明したら。ミハの目が唐突に、陽の光を受けたみたいにきらめいた。瞳孔だけではなく、虹彩までもが真っ黒の瞳。その黒と初めて視線が噛み合って、なぜか心臓を鷲掴まれた心地に陥る。

「し、か」

「惜しい。し、い、か」

「しいか」

 ありがとう。

 美しい声と瞳で、そんなことを、急に言うから。

「お、おう。もっとショートにするか?」

「……No,thank you」

「ああ、そう」

 なんだか急に気恥ずかしくなってしまって、俺はさっさとケープを脱がせた。




 ●




 父は手慰みに描く絵のモチーフに、僕か母かオレンジを選ぶひとだった。

 オレンジは父のいっとう好きな果物で、そして、僕のあまり好きではない果物でもあった。柑橘類は口にすると歯にしみるような感覚が走って、それがどうしても苦手だったのだ。

 描かれるのはいつだって日常だった。父のクロッキー帳には、それこそ毎日の日記のように、僕か、母か、テーブルの上のオレンジの姿があった。父のクロッキー帳はひどく奔放で、いつ描かれたのか、実際その日に見せたのであろう僕の寝顔や泣き顔、時には、事後と思しき母の裸体までもが描かれていた。

 そんなページの折々に挟まれるオレンジの揺るがぬ球体には、なぜだかひどく懐かしい気持ちにさせられた。僕らの家のキッチンの果物籠にはいつだって、父が朝市で買ってくる二、三のオレンジが入っていて。まあるい黒鉛のやわらかな影を、指でなぞりながら。父さんは本当に、オレンジがすきだねと、特に意味なく問うたことがある。そうだよ、父さんはオレンジも、おまえも、かあさんも、あいしているよ。なんの衒いもなくそんなことを言うから、いつものように出窓に腰掛けて、浅く微笑んだ。僕の、僕らの、日常。宝と呼ぶにはあまりにありふれていて、特筆すべき瞬間もなくて、けれどだからこそ、うつくしかったのだと。今になって気づいてしまう。かなしいほどのうつくしさを宿して息づいていた、表紙のすれたクロッキー帳。

「しいか」

 彼の名は、オレンジ似ている。ほの苦い優しさと、かすかにしみる痛みと、けれどどこかで優しいあまさのある橙色。

 何者かも知らない僕に。黙り込んで俯くばかりのガイジンに。あなたは「ゆっくりしていけ」と、わらってくれた。

 ネイティブのそれではないのだろう彼の明るい髪色を仰いで。まだ慣れない発音を、ゆっくり辿るように音にする。

「ありがとう」

 こういうのは母国語でないほうがあっさり言えるみたいだな、と。ささやかに一つ、胸に刻んだ。

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