リトルストーリー
ユッピー
一話完結
兄貴が何の前触れもなく飲みに誘ってきたのは昨日のことだった。
「明日、飲まないか」
兄貴は電話の向こう側から言ってきた。兄貴の声が電波に乗って耳に届くのはかれこれ数年ぶりだった。いや、声を聞くのさえ数年ぶりか。そうさ、兄貴とは何年も会ってなかった。兄貴と俺はまるっきり違う人生を送ってきた。兄貴は一流大学卒、俺は高卒。俺が長崎の実家を捨てるようにして出てきたのが十五年前、兄貴が大学を卒業して就職したのが十年前、五年ごとに大きなことは起きてきた。五年前の大きなことは何かって? ああ、俺が就職したことだ。人にはあまり言えないようなところにだが。
兄貴が待ち合わせ場所に指定してきた場所は都心から北にずいぶん離れたところだった。街明かりは少なく、駅前の小さな商店街の寂れた様子は、夏を過ごし終えた蝉を思い出させた。ここからじゃ家に帰るのも一苦労だな、そう思わずにはいられない。
駅で兄貴と合流すると、兄貴は俺を居酒屋まで連れて行った。道中では俺も兄貴も終始無言だった。お互いを牽制しあっているように感じられ、ひどく気まずかった。どう挨拶すればいいのかさえ、兄貴も俺もわかっていないようだった。
商店街の一角にある小さな居酒屋に俺たちは入った。予想を裏切らず、と言うべきか、店内も賑わっているとは言えず、店内の晴れない雰囲気が、くたびれた様子の一人で飲んでいるサラリーマンをさらに疲れさせているようだった。中に入るだけで気が滅入ってしまいそうだった。
俺たちはとりあえず日本酒をお互い一杯ずつ頼んだ。そうか、兄貴も日本酒を飲むのか。気づかれないようにちらっと兄貴の横顔を見た。兄貴は明らかに疲れていた。どうしたんだよ、兄貴。高校時代には部活動のキャプテンで、学校の同級生からも信頼され頼られていた。実際、弟の俺から見ても頼り甲斐のある兄貴だった。俺とお袋の間でゴタゴタがあった時でも、兄貴はいつも冷静で、その場を収めてくれた。兄貴には敵わない、そう思い続けていた。
しかし、それがどうだ。瞼の下には大きな隈ができ、頬はこけ、心なしか痩せたようにも感じる。今の兄貴は看病疲れでもしたみたいにやつれていた。
兄貴のその重い口が開いたのは、日本酒で乾杯をしてからだった。
「久しぶりだな、あつし。元気にしてたか?」
「そりゃ俺はいつだって元気に決まってるだろ」
「母さんがお前が元気にやってるか心配してたからな。たまには顔見せてやれよ」
「俺がお袋に会いに行くだって? そんなことするわけねえよ」
汚い笑い方を俺はした。
「そもそもよ、俺はお袋とは馬が合わねえんだ、いちいち俺のやることに口出してきて。うざったらしくてしょうがねえんだよな」
「母さんに謝ろうとは思わないのか?」
「別に謝ることなんかねえよ」
「本気で言ってるのか?」
「そりゃそうだ」
「そうか」
兄貴は呆れたように息を吐くと、日本酒を口に運んだ。
一瞬ギラッとした兄貴からの視線を感じ、俺はドキッとした。
「母さんに最後に会ったのはいつだ?」
「実家を出てからは一回も会ってねえよ」
「声を聞いたのもそれ以来はないのか?」
「そういうことになるな」
「神に誓ってか?」
「そうだよ、兄貴。さっきから一体何なんだよ」
不協和音が聞こえるような会話がもどかしかった。
「あつし、お前、人生で一番口にしてきた言葉って何だ?」
「何だよそれ」
「いいから、何なんだ」
「兄貴は何なんだよ」
「俺のことは別にいいんだ。お前は何ていう言葉を今まで一番言ってきた」
「開始早々、兄貴は面倒くせえな。俺はそうだな、『俺』かな。オレオレ、ってな」
俺は心がけて品のない笑い方をした。店主がこちらに視線を寄越してきたのがわかったが、俺は気にしなかった。
が、兄貴は冷静だった。
「オレオレ詐欺でもあるまいし」
兄貴はただ小さくそう言った。
その瞬間に、背筋に冷たい風が走ったのを感じた。そういうことか。兄貴は今の俺の仕事を知っているってわけだ。『オレオレ詐欺』、五年前からの俺の仕事だ。長崎の方言を直し、喋り方を矯正し、そしてやっと手にした仕事だった。
「面白くない冗談だな、それ」
「ああ全くだ」
「兄貴さ、面白くない冗談は言わない方が良いって教わらなかったのかよ。もっと面白いことを言ってくれなきゃ、すぐにでも俺は帰るぜ」
「そうだな、それは悪かった」
兄貴は日本酒を口に注いだ。
「さっきの質問だが、お前の口からは、『ごめんなさい』って言葉が聞きたかった」
「俺に限ってそれはねえだろ。それに、だからって俺が何かに謝った方がいいってことにはなんねえだろうしな」
「確かにな。お前が謝った回数なんて片手もあれば足りそうだ」
「よくわかってるじゃねえか」
そこで初めて兄貴の表情が緩んだ。
けれどそれも一瞬だった。
「だが、お前が謝った方がいい相手はいるんじゃないのか」
「誰だよ」
「母さんだ」
「さっきも言っただろ。何で俺がお袋に謝んなきゃなんねえだよ」
「お前にも心当たりはあるはずだ」
「別に何もねえよ」
「お前も知ってるとは思うが、母さんは心配性なんだ。お前が妙なことをしてないか心配してる」
「俺が何をしてるって」
兄貴との会話がどこかギクシャクしていることに、俺は苛立ち始めていた。
ふっと息を吐いて兄貴は話を変えた。
「あつし、お前に一つ問題だ。いいか、よく聞けよ」
「なんだよ、さっさと言えよ」
「ある港に一人の漁師がいた。その漁師は一隻の大切な漁船を持っていた。漁師は船にアリスという名前をつけていた。ところがあるとき、嵐でアリスが壊れてしまった。漁師は急いでアリスの修理を頼んだ。するとアリスの壊れた甲板は新しいものに換えられ、次に帆も新しくなった。そして修理が終わった時には、アリスはもう原型を留めておらず、アリスは全く新しい船に変わってしまっていた。アリスはもうアリスではなくなっていたんだ。いいか、ここで問題だ。アリスはいつアリスではなくなったんだ? 甲板が新しくなった時か? それとも帆が変わった時か? 修理が半分以上済んだ時か?」
兄貴はまた日本酒に口をつけ、それから続けた。
「この問題はな、昔から考えられている哲学の問題なんだ。哲学だから別に決まった答えはない。けどな、俺はな、こう思うんだ。たとえ一部分でも元のままでいる限り、アリスはアリスのままなんだってな。何か変わってない部分があればアリスはアリスのままだと思うんだ」
言い終わると、兄貴は目で俺の言葉を求めてきた。
が、俺は兄貴の真意がまるで分からず、苛立ちが募った。
「結局、兄貴は何が言いたいんだよ」
「その漁師は、一部分でも元のままのアリスが残っていたら、その船のことをアリスだとわかるってことだ」
「うるせえよ。アリスの話はもういい。何が言いたいのか、はっきり言えよ」
「いいか、漁師はアリスのことがわかるんだ」
「だから、どういうことだって言ってんだよ」
俺は側にあった灰皿を下に投げつけた。灰皿は勢いよく割れ、店の中のどんよりした空気が一瞬で刺々しいものになったかのようだった。
しまった、俺が真っ先に思ったことはそれだ。兄貴の前でここまで乱暴に振る舞ったことはなかった。職業病かよ。五年前から、ついカッとなって物に当たってしまうことが多かった。こんなところでボロを出すなよ。
内心慌てる俺とは対照的に、兄貴は面白くなさそうにちらっと下に落ちた灰皿を見るだけで、何事もなかったかのように残りの日本酒を飲んだ。
兄貴は小さく「出るか」と言い、店主にお金を渡し、それから俺に聞こえないような声で店主に詫びてから、店を出た。
外に出ると、俺は兄貴の後ろをついていくようにして歩いた。兄貴の顔を見れなかったからだ。陰気くさい商店街の雰囲気は心なしか増しているようにも感じたが、歩いていると外の涼しい風は心地よく、俺の気を静めてくれているかのようだった。
街明かりもほとんどないような郊外の道をそれからしばらく歩いたところで、兄貴が口を開いた。
「すぐカッとなるところは相変わらずだな」
「うるせえって。それよりもこれからどうやって帰るんだよ」
「そうだな、このまま歩いて帰ることにするか」
「なんだって」
俺は耳を疑った。
「だからお前の家まで歩いて帰ろうって言ってるんだ」
「いや、待てよ、兄貴。ここから俺の家まで何時間かかると思ってんだよ」
「そうは言っても、もう終電の時間も過ぎてるし、それしか帰る手立てがなさそうだ」
「正気かよ」
そうは言ったものの、実際、兄貴の言う通り、ここから駅まで歩いても、到底終電に間に合いそうにない。周りを見回してみてもホテルは見当たらない。
ったく、俺は小言を兄貴に言ってやりながら、しぶしぶ歩くことにした。歩いていると、心の中の荒立っていた波が少しずつ落ち着いていくのを感じ、悪い気はしなかった。むしろ、心地の良い涼しい風が俺たちを包み込んでくれるようで、熱くなった体にはそれがとても気持ち良かった。
それにしても、と思った。それにしても、ここから家まで一体何キロあるって言うんだ。いや違う、そもそも何で俺はこんな辺鄙な土地にいるんだ。都心から北に遠く離れたこの場所に、何で俺はいるんだ。そうだ、兄貴が俺をここに呼んだんだったな。周りには泊まれるような場所もなく、終電の時間も早いようなこの土地に兄貴が俺を呼んだ。そして、俺はここに来た。
どこかおかしくないか。
待てよ、どうして兄貴はここを集合場所にしたんだ? 兄貴の家が近いというわけでもないだろうに。もしかすると、兄貴は最初からこうするつもりじゃなかったのか? 俺を店に連れて行き、終電の時間が過ぎるまではそこにいる。終電の時間さえ過ぎてしまえば、俺は帰ろうにも帰れない。それを狙ったんじゃないのか。俺とゆっくり話す時間を作るために。それなら、多分、兄貴はまだ何か俺に言いたいことがあるんじゃないのか? 何だ?
いや、心当たりはあった。やっぱり俺の仕事のことか。それともお袋のことか。俺の仕事のことだとしたら、どこからばれたんだ。兄貴にばれているなら、不味い。
「兄貴、用件は何なんだ?」
「あつし、悪魔の証明ってのを知ってるか?」
「兄貴、そんなのはいいから早く用件を言ってくれ」
「いやだめだ。いいから聞くんだ」
兄貴はまた落ち着いた声でスラスラと話し始めた。
「いいか、悪魔の証明っていうのは、簡単に言ってしまえば、『ないことの証明』のことだ。例えばな、悪魔がいることを証明するためには悪魔を一匹連れてくればいいだけだ。簡単だろ。けどな、その逆に、悪魔がいないことを証明するのはかなり難しいんだ。なぜだかわかるか? 悪魔がいないことを証明するために世界中を回るとするだろ。それでめでたく悪魔を見つけられなかったとしても、それは『悪魔がいない』ことの証明にはならないんだ。運が悪かったから見つけられなかっただけと言われればそれまでだし、そもそも悪魔が宇宙にでもいると言われれば何の反論もできないからな。そういう『悪魔がいない』ことの証明のようなほとんど不可能な証明のことを悪魔の証明と言う」
「それもまた哲学かよ」
「まあ、似たようなもんだ」
「兄貴はそれで何が言いたいんだ」
「『ないこと』の証明は難しいってことだ」
「だから、何なんだよ」
「お前が犯罪に関わっていないことを証明するのは難しいってことだ」
そうか。
そのことか。
ズンと重いものがのしかかってくるような気がした。急にボディーにブローを入れられたような気分だった。周りの暗闇がさらに暗くなったように感じられた。先ほどまではずっと遠くまで続いているように見えていた道が、突然目の前で途切れしまったようだった。もう前には進めない、そう感じた。
そうか、やっぱり兄貴は知ってたのか。悪魔はいないとしても、俺という犯罪者はここにいる。それはもう悪魔の証明でも何でもない。単なる俺の罪だ。
「神様もそれこそ悪魔みたいな酷いことをたまにはするもんだよな」
兄貴はそう言うと、心の中で全てを話してしまおうという決心をしたように見えた。
「この前な、母さんのケータイにおかしな電話があった。見慣れない番号だったが、相手の声は聞き慣れたものだったらしい。それでな、電話の主はそのよく聞き慣れた声で、『母さん、オレだよオレ』って繰り返すらしいんだ。母さんもな、それが詐欺の電話だってことくらいはわかったって言ってたよ。もう典型的なもんだからな」
普段は冷静な兄貴の声はいつになく震えていた。
ついでに俺の足も震えていた。
「母さんは相手の話を聞いたらしいんだ。やっぱり声には聞き覚えがあったらしいが、喋り方は全然知らない人みたいだったらしいがな。けど、電話の主はあるミスを犯してしまった。何だと思う?」
少しの間があった。
「方言だよ。長崎の方言が一瞬出たらしいんだ。方言と言っても、ちょっとしたイントネーションが訛っていただけだ。それでも、母さんはそれで確信したらしいな。電話の向こうにいるのは、あつし、お前だって」
「待てよ、イントネーションが少し違ったくらいで、何でその電話の相手が俺ってことに何だよ」
「あつし、俺がさっき言った話を覚えてるか?」
「何の話だよ」
「アリスだよ。漁師がアリスをわかるように、母さんはお前をわかったんだ。イントネーションが少しだけでも残ってただけでわかったんだ」
本気で言ってんのか? そんなことがあるのかよ、兄貴。俺はさ、これでも頑張って今の仕事をしてるんだ。長崎の方言なんて消したはずなんだ。イントネーションが違ったからわかっただって? お袋はそれじゃあまるで超能力者じゃねえか。
俺は実家を飛び出した時のお袋を思い出した。
あの時、お袋は怒っていた。
「あんたなんか、この家にはいらないよ。出て行きな」
「そこまで言うんだったら出て行ってやるよ」
俺が高校を卒業してから、特に仕事に就く訳でもなく、ふらふらしていた俺にお袋は怒ったんだった。わかるさ、どう考えても俺が悪かった。けれど売り言葉に買い言葉、カッとなった俺は家を出た。今になって思う、あの時の俺は未熟で馬鹿な若造だった。
それに思う。俺は今も馬鹿なままだ。頑張って仕事に就いた? 馬鹿か俺は。結局、違法なことをやってるだけじゃねえか。救いようがねえ馬鹿だな。もう笑えねえとこまで来ちまった。お袋は今の俺を見たらどう思う。カンカンになって怒るだろうか。それこそ勘当するほどに。いや、もう怒りもしないかもしれない。怒りも何もせず、完全に俺のことを見捨ててしまうだろうか。それとも自首するように言うだろうか。そう言われたら、俺は何て答えればいい?
俺と兄貴との間にはまた沈黙があった。兄貴は努めて冷静になろうとしているようだった。
「母さんがその電話のことを俺に言ってきた時、きっと何かの間違いだろうって俺は言ったさ。だけど、やっぱり母さんは聞かなくて。俺は必死で、あつしが犯罪なんかに関わってるわけがないって言ったのに、母さんは」
そこで兄貴は耐えきれなくなった様子で、言葉を詰まらせた。
それでも兄貴は必死に言葉をつないだ。
「それこそ俺にとっては悪魔の証明だ。悪魔がいないことを証明するのが難しいように、お前が犯罪に関わっていないことを証明するのはかなり難しかった。少なくとも、俺にはできなかった。いくら頑張っても俺にはお前が悪事に関わっていないことを証明するのはできなかった。だから俺は仕方なくそれは諦めたんだ。もう仕方なかった。それで俺は逆の証明をしようとした。さっきも言ったように、悪魔がいることの証明は簡単だ。実際、その通りだった。悪魔がいることの証明は俺にもできた。この意味、わかるか?」
その言葉を聞いた瞬間に俺の顔からは血の気が引いたのだろうと思う。全身が凍りつき、歩を進めることさえ難儀に感じられた。
「悪魔は、いた。そうわかった」
もうやめてくれ兄貴。もう何も言わないでくれ。
「ただな」
兄貴は一呼吸置いた。
「このことはまだ母さんには言ってない。母さんにこのことはまだ言えてないんだ。母さんは今、大変だ」
ちょっと待って、大変ってどういうことだ。
「母さんがその電話を取ったのはベッドの上だ。病院のベッドの上だ」
「病院?」
「ガンなんだ。それも末期の。もう長くない。お前は知らないかもしれないが、母さんは今、東京にいるんだ。東京の北のほうにある病院の中だ。そうだな、ここからだとあと30分も歩けば着く。これがどういうことかわかるか?」
え、俺は何度も何度も兄貴が言ったことを反芻した。
どういうことかわかるか? わかんねえよ、兄貴。ガン? 末期? 何だよそれ。お袋に限ってそんなことわけねえだろ。だって、あのお袋だぜ。いつも元気そうにしてたじゃねえか。俺が家を出るときだって、あんなに怒鳴っていたじゃねえかよ。怒鳴る元気があったじゃねえか。ガン? そんなのくそったれだ。兄貴、もう何も言わないでくれって。頼むからよ。
「いいか、もう一回言うからな」
兄貴は自分自身にも言い聞かせているようだった。
「母さんはガンだ。もう長くないんだ。わかるだろ。その母さんが、もう目と鼻の先にいるんだ。あつし、どういうことかわかるだろ」
待てよ、何でそんな近くにお袋が居るんだ。目と鼻の先? 俺はたまたまお袋の近くまで来たのか。お袋がいる病院が帰る途中にあるなんていくらなんでも都合が良すぎやしないか。
いや、違う。兄貴が俺をここにわざと連れてきたのか。待ち合わせ場所をここにしたのもそれが目的だったのかよ。お袋がいる病院が帰り道の途中にあるのは、偶然なんかじゃない。そうなんだろ? 兄貴。
「俺はさ、やっぱり神様はいると思うんだ。だってそうだろ。幸にも不幸にも、お前がかけた電話の相手が母さんだったなんて奇跡じゃないか。普通そんなことが起こるか? きっと神様がくれたチャンスなんだ。無駄にするなよ」
俺は逡巡した。
逡巡、いや、ちょっと違う。俺はどうするべきかくらいわかっていた。そりゃそうだ。お袋に会いに行って、何から何まで全部謝るべきだ。そのくらい馬鹿な俺にだってわかる。『悪かった、ごめんなさい』と。馬鹿な今までの行いを、それに今やっていることについても、全てを謝るべきだ。兄貴の言う通りだ。俺は人生で数えるほどしか謝ってきていない。お袋に謝ったことなんかあっただろうか。俺は人生で何度も『ごめんなさい』と言うべきだった。どうして俺は謝ってこなかった? いやそれもわかる。俺が強がっているからだ。そして今は俺がお袋に会うのを怖がっているからだ。今、お袋に合わせる顔なんてあるわけがない。こんな不甲斐ない俺をお袋はどう思う。
「さっきの漁師はアリスのことがわかるという話だが」
兄貴は多分必死に俺をお袋のところに連れて行こうとしているんだろう、そのくらいわかる。
「漁師は」
漁師はお袋のことか。
「どれだけ姿形が変わってもアリスのことはわかるさ。そんなもんだろ。ただな、それでもやっぱりアリスにはそのままでいてほしいと思ってるだろうな」
アリスは俺だ。
「大丈夫だ、お前が思ってるほどお前は変わってやしないさ。それに母さんだってきっとお前のことを許してくれる。お前の顔を久しぶりに見たいだけなんだ。昔のお前みたいに、ケンカしてでもいいから母さんと話してこいよ。母さんはそれだけで安心するさ」
そうかい兄貴。
わかったよ。
先ほどまではまるで見えなかった道が、今のあつしにはくっきりと見えた。
病院まであと少し。久しぶりに会う母に何を話すべきか、夜風を感じながらあつしは静かに考えた。
リトルストーリー ユッピー @yuppy_toishi
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