黄金時代
ユッピー
一話完結
「人生で一番幸せだった瞬間と、一番幸せだった時期っていうのは重なってないと思うんですよね。ずっと嫌なことが続いて、それで嬉しいことがあった時に、気持ちの振り幅が大きいから『人生で一番幸せな瞬間』になると思うんですよ」
新宿の脇にある小さな居酒屋で、アイリは上司のミサに愚痴をこぼす。上司とは言え、アイリと年が一つしか変わらず、まだ20代のミサは穏やかにウンウンと頷いて、アイリの話しに付き合っていた。
「それでですよ、私、今までの人生で、ほとんどいつも『今が一番きつい時期だなあ』と思って生きてきたんですよ。『今から思えばあの時は楽しかったなあ。それに比べて今はきついなあ』なんて考えて。多分これが黄金時代の理論ですよね。略して黄金理論。ほら、黄金時代というのはその時には気づかない、っていうやつですよ」
そう言うとアイリは、整形でもしたのではないかと疑われるほど大きい特徴的な目を閉じ、大きくため息をした。アイリは美人というわけではなかったが、男性社員はよくアイリを可愛がる。
「黄金時代って、響きがいいよねえ。私には黄金時代なんてあったのかなあ」
「先輩はあるに決まってますよ。先輩、めちゃくちゃ綺麗じゃないですか。私からしてみると、ミサ先輩は常に黄金時代みたいに見えますよ」
「やめてよ、そういうの、恥ずかしいから」
「いやいや、本当に羨ましいんですよ。私が高校に入学してバスケ部に入ってから、初めてミサ先輩に会った時、こんなに綺麗な人って本当にいるんだなってびっくりしました」
実際、初めてミサさんに会った時、アイリは、中宮定子に仕えた清少納言の気持ちがわかる気がした。『かかる人こそは世におはしましけれ』つまり『こんなに美しい人がこの世にいるんだなあ』と、中宮定子を清少納言はそう称した。
「先輩は男子からかなりモテてたし。ずっと憧れてましたよ」
それにしても、とアイリは思う。
「それにしても、私が高校を卒業して大学を卒業した後に、今の会社に就職が決まって、人生初の出社をしてから教育係としてミサ先輩が紹介された時には本当にびっくりしました。まさか先輩と同じ会社だなんて夢にも思っていなかったので」
「ほんと私もびっくりしたよ」
と言って、ミサは苦笑した。というのも、アイリはミサと飲みに行く度にこの話をするため、ミサからすると、またその話かと呆れるほどだったからだ。どうもアイリはお酒が入ると思い出話をしたくなるらしい。
ミサは話を変えようと声のトーンを上げて言った。
「でもアイリちゃん、高校時代もうちの学年の男子からモテてたじゃない。アイリちゃんがバスケ部に入った時から、シオンくん、ずっとアイリちゃんのことを気になってたみたいだから」
「シオンがですか。あのバカ旦那が」
アイリが思いの外、暗い声でそう言ったので、ミサは地雷を踏んだと思った。シオンとアイリは3年前に結婚していた。
「でもさ、私、アイリちゃんとシオンくんみたいな恋愛に憧れるなあ。二人って高校時代から付き合ってたんでしょ? それってすごいことだと思うんだよね。二人ともずっと一途だったってことじゃない。いいなあ」
一途? そんなことはない、アイリは思わずそう言いかけた。シオンという男と一途という言葉は、今のアイリには、かけ離れたものに思われた。
「実はですね」
アイリは夫が浮気していたことを話した。
ちょうど1週間前のことだった。アイリもシオンも仕事を終えて、二人で頭を空っぽにしてテレビを観ていた。八畳一間。決して二人が住むには広いとは言えなかったが、アイリはそれでも満足していた。アイリは夫と二人でそうやって、だらっとしている時間が好きだった。
が、その時だった。そのだらっとした時間を引き締めるかのごとく夫のケータイに電話がかかってきた。近くにあったケータイを夫に渡そうとした時に、ふと着信相手の名前が見えた。
「誰なの。この女の人」
菜月、大きく表示された画面をシオンに向けた。
一瞬、夫がギョッとしたのをアイリは見逃さなかった。
「どうしたの。やましいことでもあるの?」
「いや、会社の人なんだけど。ケータイ渡してくれよ」
「じゃあ、なんでさっきギョッとした顔をしたのよ」
「そんな顔してないって」
「なった」
「なってねえって」
「この女の人との関係を教えてよ」
「いいから。さっさとこっちに渡せって」
「その前に教えて」
「渡せ」
「渡さない」
そこでケータイの着信音が切れた。
「そうしたら、シオンは怒っちゃって。頭に血が昇ったらもう手がつけられないんですよ。かといって、私も冷静じゃなかったし」
その時、私はグラグラと頭に血が昇るのを感じていた。やばい、と思った時にはシオンのケータイを投げていた。
「それで、私、シオンのケータイを割っちゃったんですよ」
え、とミサは目をパチクリさせた。
慌ててアイリはかぶりを振った。
「いや、別にわざとではないんですよ。軽く投げたら、ほら、画面がパッカーンときれいに割れちゃって。あるじゃないですかそういうことって」
「いやそんなことってあるかな」
ミサは苦笑する。
「それで当たり前ですけど、シオンはますます怒って」
なかなかの災難だなとミサは思った。
「それで、どうやってその場は収まったの?」
「いや、収まったわけではないんですけどね。シオンは自棄になったのか最近その女の人と会ってたのを認めたんですよ」
実際、認めた。けれど認め方としては最悪だった。
「うっせえな、もう。菜月は最近ちょっと会うようになってるだけだから。いいじゃねえかそのくらい。別に浮気とかじゃねえよ」
「だったら、さっき会社の人だって嘘つかなくてもよかったじゃない」
「説明するのも面倒くさかったんだよ」
ピンポーン。二人の間の熱い空気とはまるで無関係に無機質な音が部屋に響いた。アイリは玄関に向かった。
ドアの向こうに立っていたのはヒョロっとした、まだあどけなさが残る青年だった。たしか、隣に住んでいる子じゃなかったかと、記憶を呼び起こしてみる。
「すみません。隣の者なんですけど。もう十二時回ってるので、少し静かにしてもらっていいですか」
「あ、すみません」
それだけ言うと隣人の青年はドアを閉め、自分の部屋に戻っていった。
「なるほどねえ。それでアイリちゃんは不完全燃焼ってわけだ」
「もう本当にそれですよ。結局、シオンは謝らなかったし、ひどいもんですよ」
「だけどさ」
ミサはいつも通り穏やかだった。
「シオンくんが本当に浮気してたかどうかはわからないんじゃないの? それこそ本当に何回か会ったことがあるだけだったかもしれないし。アイリちゃんが勘違いしてるだけかもしれないよ」
「どうなんですかね。でもどうにも、あの時の顔は信じられなかったんですよね」
うーん困った、そんな様子でミサはどうすればいいだろうかと悩んだ。
「じゃあさ、こうしようよ」
ミサは名案が思いついた様子で明るく言った。
「コックリさんで決めるってのはどう?」
え? コックリさん?
「ほら、私たちが高校生の頃、流行ったじゃない。『コックリさん、コックリさん、どうぞおいでください』って言ってさ。それで、シオンくんに聞いてみればいいじゃない。その菜月ちゃんとどんな関係かって。それでダメだったときはまた考えればいいじゃない。私はシオンくんのこと少し信じてみてもいいと思うけどね」
コックリさんかあ。ミサ先輩は面白いなあ。急にコックリさんだなんて。
あれ?
初めてコックリさんをやったのはいつだったかな。えっと、そうだ、あの時だ。
「そういえば、高校の時に、シオンが私に告白した方法もコックリさんだったんですよね」
「そうだったの」
「先輩も言ってましたけど、本当にあの頃コックリさん流行ってたじゃないですか。で、昼休みに、シオンが二年生で、私が一年生の時に一緒にコックリさんをすることになったんですよ」
あの時は、とアイリは思った。あの時は緊張したなあ、と。アイリは顔を赤らめて言った。
「今から思うと、あの時が私が人生で一番嬉しかった瞬間だったんですかね」
もう10年前になる。昼休みにバスケ部の男子の先輩に小教室に呼び出された。小教室は、昼休みには昼食を食べられるように解放されていて、入ってみるとシオン先輩がいた。その頃はシオンのことをまだシオン先輩と呼んでいた。
「こんにちはっ」
つい素っ頓狂な声でシオンに挨拶したのを今でも覚えている。シオンはその頃、なかなかの美形で女子からも人気があった。シオン先輩ってかっこいいなあ、と例にもれなくアイリも思っていた。
そのシオン先輩が急に「コックリさんしよう」と言うからアイリはびっくりした。
「コックリさんですか」
「ほら、準備はしてるから。そこに座って」
アイリはそう言われるがまま椅子に座って、10円玉に人差し指を置いた。シオン先輩と指が当たりやしないかと緊張して、心臓の音が自分の耳で聞こえるほど鳴っていた。
「コックリさん、コックリさん、どうぞおいでください」
二人の手が乗った10円玉は『はい』という文字の上に移動した。
そこでアイリはちらっとシオンの横に置いてあった紙を見た。どうやらシオンはあらかじめ質問を書き出してきたらしく、コックリさんにする質問が書き並べられていた。可愛らしい字だった。
一番最後の質問がアイリの目を引いた。『シオンはアイリのことをどう思っているか』
「それで、10円玉は最後の質問で見事に『す』『き』に移動したんですよね」
「なかなかドラマだねえ」
「今から思うと、『直接言えよ』って感じですけどね。でも、確かにあの時はドキドキしました」
「その時良かったらそれでいいじゃない。じゃあさ、アイリちゃんの黄金の瞬間ってその時なんだよ、きっと。だから、ほら、やっぱりコックリさんやってみなよ。いいことあるかもよ」
そのあとアイリとミサは店を出た。シオンは多分まだ帰ってきてないだろうなあ、コックリさんの準備でもしようかな、そんなことを考えながらアイリはとぼとぼと家路を進んだ。
「おかえり」
アイリがドアを開けると、シオンが言った。1週間前のゴタゴタ以来、初めて部屋の中で発された言葉だった。1週間の沈黙を破ったその言葉に、アイリは何の返事もしなかったが、シオンはここぞとばかりに言葉を繋いだ。
「コックリさんしよう」
なんだって。口にこそ出さないものの驚いた。
「ほら、そこの椅子に座って。準備は済んでるから」
なんで急にコックリさんをやろうなんて。
むすっとした顔のままアイリは椅子に座り、10円玉に人差し指を置いた。
私とシオンの指はあの時と同じように一つの10円玉の上に乗っていた。やっていることはあの時と同じはずなのに、あの時のようにドキドキすることはなかった。
「コックリさん、コックリさん、どうぞおいでください」
あの時は、とアイリは思った。あの時はシオンの横に質問用紙があったな。今回はどうだろう。視線をシオンの横あたりに移動させる。あった。最後の質問はなに?
『シオンがアイリに言いたい言葉は?』
可愛らしい字だった。コックリさんは一体何を言うのだろうか。いや、シオンは一体何を言うのだろうか。
最後の質問になった。
「コックリさん、最後の質問です。シオンがアイリに言いたい言葉はなんですか」
10円玉は滑らかに動いた。
『ご』『め』『ん』『な』『さ』『い』。
ふっとアイリは顔を緩めた。今、すごい力であなたが動かしたじゃない。
「もう。本当に高校生のままね。あの時も、最後の質問の時だけ、あなた凄い力で動かしたわよね」
はあっとアイリは息を吐く。
「いいよ。もう許すから。もう直接言えばいいのに。私も謝りたかったんだって。私の方こそ、先週はごめんね」
「いや、俺の方こそ、本当に悪かった。菜月のことはしっかり説明するから」
「もう、わかったから。それはゆっくり後から話そうよ。それより、私、気になってることがあるんだけど」
「何?」
「このコックリさん、もしかしてミサ先輩に言われて、しようと思ったんじゃない?」
バレた、と言うように、シオンは少年のような苦笑いをした。
「なんでわかった?」
「だって、その質問用紙の字、ミサ先輩の字にそっくりだから」
もうお手上げ、という風に、いたずらっ子のようにシオンは両手を小さく上げた。
「10年前、私にコックリさんで告白したのもミサ先輩の案なの?」
シオンは苦笑いのまま小さく頷いた。
「もう、ミサ先輩と言ったら」
そう言って、アイリは笑った。
シオンもそれにつられて笑った。
二人は合唱するかのように、仲良くずっと笑った。
黄金の瞬間ってこんな時なのかもしれない、ふとアイリは思った。
黄金時代 ユッピー @yuppy_toishi
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