第5話
落ちた神を信仰する宗教団体に、彼の母がのめり込み狂信者化したのは一年前のことだった。
彼の母が千里眼たる姉を教団に捧げたのは半年ほど前で。
彼を生け贄にして儀式を行ったのは、二週間前のこと。
奥底にしまってあるのは、今や無縁の痛みと熱さと忘れた感情とその時の記憶。
思い出すのはとにかくおっくうで、面倒臭くて仕方がない。
彼はそこで思考をストップさせることにした。
面倒くさいこと、この上ないからだ。
彼の記憶は曖昧だった。
それをよしと受け止めてもいた。
ようは思考するのが面倒臭いからで。
母の行った神の器たるなんちゃらで、虚実体になったことだけは知っている。
それだけで、十分だ。
寅茶の猫が彼にどうも、と挨拶をくれて無我のそばに腰を下ろした。
無我はおもむろに寅茶の背中を舐め、ごろごろと喉を鳴らし始める。
「おぼっちゃんはあっこの神を信じていらっしゃるのかや」
毛繕いの合間に投げかけられる。
茶寅の猫が目を閉じて恍惚とする表情を見つつ、彼は首を強く横に振る。
信じているのは姉だけだ、と口だけ動かして。
青白い顔の女能面を付け、目の穴から鬼のような眼孔でモノを視て、混濁し泡を吹きそれでもなお過去を読み取り神を信ずる母は信じられない。
そんな母を巫女として、落ちた神を信仰する教団も信じられない。
母の理知を食い止めようとして、未来を予知する千里眼を開眼し、用途不明の管に繋がれ両腕自由を奪われた巫女姫扱いされている姉しか、信じていない。
「そのほうが、ようございましょうや」
聞こえもしない返事に無我は嬉しそうに愉快そうに、目を細めて毛並みを揃え続け言葉も続ける。
「あっこは八百万の神々が穢れて墜ちて蠢いて苦しんでいる姿を信仰しておりますかや」
物知り猫はそう言うや彼を上目使いで見やった。
毛繕いはおしまいのようだ。
喉のごろごろも聞こえない。
「天罰がお下りになりましょうや」
さも愉快と猫のくせに微笑み、その時はお気を付けてくだされやと洩らす。
なにか、言おうとして止める。
どうでも、いいと切り捨てた方が楽だったからだ。
自由な身には楽な思考がしっくりくる。
悩んで考えるくらいなら、切り捨て御免が楽で良い。
「ところで、そちらの旨そうな紙飛行機は、今日も頂いてよろしいんですかや」
うちの若いのに、狩らせてほしいのですかや、と首で合図する無我。
紙飛行機。
彼を尾行している教団の目。
彼はすっかりその存在を忘れていた。
反射的に頷き瞬いた時にはもう、そのうちの若いのは紙飛行機を捕獲していた。
羽音がコンクリと頬まで裂けた口に隠されていた牙によって押しつけらればちばちと激しく震え。
ぐっとひと噛み。
断末魔もあげず死に絶え咀嚼される。
もう一機は無我がちゃっかり捕獲しており、咀嚼済みだった。
これで晴れて自由の身だ。
元々自由だったけれども。
「ぼっちゃんは、この二週間おんなしように町を巡って駆けてなにか変わりましたかや」
牙を晒し、舌で口をなめ回す。
そのついでとばかりに、無我が諭すように聞いてくる。
「変わられ、ましたかや」
白髪交じりの老猫が、先輩風を吹かすかのようにして何かを引きずり出そうとする。
切り捨てるのを、どうしてか少し鈍らせる。
少しだけだ。
爪の先程度の動揺でしかない。
そんなものは切り捨てるにかぎる。
黄色い光りに、微かなオレンジが混ざり出した頃。
無我は大きなあくびをかいて丸くなる。
寅茶の猫もそれに伴い、こてんと傍で寝転がった。
嫌味なのかなんなのか、理解不能な言葉を残して無我はくうくう夢の中。
勝手すぎる行動には、虚ろな体の次に慣れたこと。
彼はしばらく二匹の猫を眺めてから、再び先へ駆けだすことにした。
無我の三角耳が、ぴくりと反応したのを後目に。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。