ひとつぶ
藤和
第1話 不思議な先生
海老名先生は不思議な人だ。
授業中や廊下ですれ違ったとき、生徒が制服を着崩していたりアクセサリーを着けていたり、メイクしているのを見ても注意しない。むしろ、アクセサリーやメイクに関しては褒めることもあるくらいだ。
だからだろうか、海老名先生は生徒達から人気がある。他の先生達からはたまに怒られたりしているようだけれども、海老名先生は服装のことで生徒を怒ったりすることはなかった。
ある日のこと、俺が廊下を歩いていたら海老名先生に呼び止められた。
「東大島君、ちょっといいですか?」
「あ? なんすか?」
足を止めて海老名先生の方を見ると、海老名先生は俺の耳たぶを指さしてこう言った。
「ピアス穴、開けたんですね」
もしかして、俺が普段から他の素行も悪いからさすがに文句でも言いたくなったのだろうか。
「開けたのがなにか?」
思わず不満に思ってそう返すと、海老名先生はこう続ける。
「ピアス穴を開けてすぐの頃は化膿しやすいです。
ちゃんと毎日消毒してくださいね」
「……うぃっす」
なんだ、別に文句を言いたいわけではなかったようだ。
「もしピアス穴が化膿したり、腫れたりした場合はすぐに皮膚科の病院に行ってくださいね。
万が一、感染症にでもなったら大変ですから」
海老名先生の言葉に、ちょっと口うるさいなと思う。でも、ピアスを開けたくらいで理不尽に怒鳴りつけられるよりは全然良い。
それに、心配してくれてるから口うるさくもなっているのだろう。そう考えるとすこしだけこそばゆい。だって、俺の親はそんな心配なんてしてくれないから。
俺はじっと海老名先生を見て言う。
「先生、ピアス開けても怒んないんすね」
すると海老名先生は、当然といった顔で返す。
「そうですね。ピアスを着けているかいないかは、学力とは因果関係が無いので。
学生の本分が勉強であるのであれば、その成果である学力に因果関係が無い部分で縛る必要はありません」
なんだか難しいことを言っていてよくわからない。でも、海老名先生が服装にこだわらないのにはそれなりに理由があるというのはわかった。
それから、海老名先生はピアス穴に皮が張るまではくれぐれも気をつけてと言ってから、俺に軽く頭を下げたあとどこかへと行ってしまった。
「……『インガカンケイ』ってなんだろ?」
廊下の端によってポケットからスマホを出し、ネットに繋いで海老名先生が言っていた単語を検索する。
なるほど、こういう意味だったのかと納得した。
また別の日、授業をサボって校舎裏で煙草を吸っていたら、どういうわけだかこんな時間にこんなところに来た海老名先生に見つかった。
でも、海老名先生のことだから文句を言ったりはしないだろう。そう思いながら煙草を吸い続けていると、海老名先生が声を掛けてきた。
「授業はどうしたんですか?」
ああ、そうか。学生は勉強するものって言ってたから、煙草はともかく授業に出てないのは気になるのか。
俺は素直にここにいる理由を話す。
「俺、倫理の先生嫌いなんすよ。だからここにいます」
「なるほど。人間誰しも苦手な人はいますからね」
思いのほかすんなり納得したな。
そう安心していると、海老名先生は俺の手元を見見る。
「ところで、煙草を吸っているんですね」
「それがなにか?」
煙草の煙を口から吹きながら返事をすると、海老名先生はすこしだけ厳しい顔をしてこう続けた。
「未成年のうちは煙草を吸わない方がいいです」
まさか文句を付けられるなんて。意外に思いながら、俺はへらっと笑って言葉を返す。
「なんすか。体に悪いからやめろとか?」
そう、海老名先生はピアス穴の心配もしていたし、体に悪いとでも言いたいのだろう。でも、煙草なんて大人でも吸ってるし、いつ吸いはじめるかなんてたいした差じゃないだろう。それに、煙草を吸ってたって長生きする人はいる。
すると、海老名先生は予想外のことを言った。
「いえ、未成年の喫煙は国の法律で禁じられているのでいけません」
法律なんて気にするなんて、海老名先生もやっぱり先生なんだ。そう思って顔を背けると、海老名先生はさらに言葉を続ける。
「国の法律というのは、国民が権利を使うために守らなくてはいけないルールです。
ルールを守るからこそ、権利を主張できるんですよ」
つまらない話だ。そう思いながら聞き流しているけれども、海老名先生はまだ話し続ける。
「それに、煙草を買うということは、たばこ税を払うということになります。
たばこ税を払うのは、収入が多くない学生には負担が大きいです」
それを聞いて、ぱっと海老名先生の方を向き直る。
「えっ? 煙草って税金かかってるんです? 消費税じゃなくて?」
「消費税とたばこ税、両方かかってますね」
「まじかー」
税金がかかってると聞いて、急に煙草を買うのなんて馬鹿らしいなという気になる。
そもそも、煙草自体おいしいから吸ってるわけじゃない。なんとなく、何かに反抗したいから吸ってるだけなのだ。
俺は煙草の箱をすこし離して見てから、海老名先生に訊く。
「先生、やめた方がいいって言う割には没収するとは言わないんすね」
すると、海老名先生は当然といった風に返す。
「そうですね。没収することにメリットを感じませんから。
没収してもまた買ってしまったら意味がありませんし」
よくわかってる。俺の友人なんかも、他の先生に煙草を没収されたりしてるけど、その度に買い直しているだけだ。だから、海老名先生の言っていることは理に適ってる。
「それに、学生のうちから自主性を育むことも大切です。
どんな些細な理由であれ、自分で考えて納得して、その上で煙草をやめるというのが自主性です」
俺はまた煙草を吸ってから先生に言う。
「やめるかどうかは俺次第ってことですか?」
「そうです。あなた以外には決められません」
海老名先生の話を聞いて、何かに反抗したいからとか、ただ友達が吸ってたからだとか、そんな理由で流されるように煙草を吸っているのがなんとなくダサく思えた。
煙を口から吹いている俺に、海老名先生はこうとも言う。
「それに、あなたが今吸っているその煙草が、だれかかけがえのない人から貰った大切なものである可能性もあるのです。
もしそういったものだった場合、無理に没収して処分するなんていうことをしてしまったら、私には責任が取れません」
「そっかー……」
なんか、なんて返せばいいのかわからなくなった。海老名先生は普段ぼんやりしてなにも考えてないように見えるけど、ちゃんとこうやって色々なことを考えてるんだ。
他の先生はただただ生徒が何かやらかすと、怒鳴ったり取り上げたりそんなことをするだけで、そういうことをしない海老名先生は生徒に甘いんだなんて言ってた。なんなら生徒の人気取りをしてるとも言われてた。
でも、人気取りとかそういうんじゃないんだろうなって、今の話を聞いてなんとなく思った。なんか、どういうことなのか上手く言えないけど……
「先生、授業出てないのは怒んないんすか?」
煙草をポケット灰皿に入れながらそう訊ねると、海老名先生はにこりと笑ってこう言う。
「授業にはなるべく出てほしいのですが。
ですが、今ここにいるという事実は今更変わりません。
次回からちゃんと授業に出てくれればそれでいいでしょう」
「うぃっす」
俺はポケット灰皿をズボンのポケットにしまって歩きはじめる。
「教室に戻るのですか?」
横に並んでそう訊ねてくる海老名先生に、曖昧に笑って返す。
「とりあえず昇降口までは行く」
「そうですか」
ふたりで昇降口まで行って、そこで別れる。
チャイムが鳴るまで誰もいない化学室や地学室の前をぶらぶらして時間を潰した。
それからまた少し後になって、海老名先生が俺の件で他の先生に怒られたという話が耳に入った。
なんだかもやっとした気持ちになった。
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