第16.5話 その、離ればなれの二人は……2/2
一九四五(昭和二十)年、五月三日、日没後。
沖縄本島南部。
この島では、日本陸軍第三十二軍が、四月一日に上陸してきたアメリカ軍……米軍と、熾烈な地上戦を繰り広げていた。
三十二軍は、沖縄決戦前に、隷下にあった三個師団のうち、およそ三分の一にあたる戦力の第九師団を台湾方面に引き抜かれた状態で米軍上陸を迎えた、不幸な地上軍だった。
地上戦の当初、三十二軍は、米軍を南部に誘引する遅滞戦術を実施し、正面攻撃を避けて戦力を温存して、米軍に出血を強いる持久作戦を展開していた。
だが、これを弱腰と見た大本営陸軍部から、大規模攻勢に出て戦局を挽回すべしという指示が、三十二軍に矢継ぎ早の催促となって降り注いだ。
これに抗しきれなくなった三十二軍は、不本意ながら反攻作戦を立案し、実行に移すこととなったのである。
その三十二軍主力の二個師団の一つ、第二十四師団の第三十二連隊、第一大隊の陣地内。
一人の陸軍少尉が……祥太郎が、胸ポケットから取り出した写真を、月明かりにすかすようにして見ていた。
その祥太郎に、いきなり後ろから声がかかった。
「木下少尉、攻撃準備はできたか?」
「は、はい!」
いつの間にか背後にきていた大隊長に、祥太郎は写真をポケットに戻す間もなく、振り返って敬礼した。
今から三十分後、祥太郎の率いる小隊は、ここを出発する。そして……一キロ先にある棚原一五四.九高地を占領している米軍の、その物資集積所を爆破するのだ。そこへ、後発してやってきた本隊が、一挙に米軍を追い落とすという作戦だった。
その準備の進捗状況を確認しにきた大隊長は、祥太郎に答礼した。
しかし大隊長は、答礼を解いたあとも、その場から去ろうとしなかった。祥太郎の手元を、まじまじと見ていた。
そして、先ほどとは全く違う口調で、祥太郎に話しかけた。
「……その写真に写っているのは、誰ですか?」
祥太郎は驚いた。軍の上官が部下に使う言葉遣いではなかったからだ。
「大隊長、敬語はよしてください」
「……今だけは、敬語で話させてください。何しろ木下さんは僕より年上なんですから」
大隊長……
「で、その写真の美人は?」
「これは……僕が一高にいた頃にやってきた、ドイツ人留学生の女の子です」
「へえ、男子校の一高に、女の子の留学生が?」
「ええ。いろいろ事情があったみたいで……」
「それ、結婚式の写真じゃないですか? 木下さんは、ご結婚されていたんですか?」
「いえいえ、これは妹の女学校の五月祭の、模擬結婚式みたいな催しですよ。彼女が新婦、僕が新郎役をやったんです」
「その方は……お元気に、されているんですか?」
「分からないんです……」
そこへ、誰かが大声で叫ぶ声がした。
「大隊長殿はどこですかーっ!?」
「ここだ!」
そう返事した伊藤のところに飛んできたのは、まだ少年の面影を残した通信兵だった。
「報告! 同盟通信社の放送を受電! ドイツのヒットラー総統がベルリンで自決しました!」
そばにいた祥太郎には、伊藤の顔色が青ざめるのが分かった。だが伊藤は、すぐに大隊長の顔つきに戻り、通信兵にうなずいた。
「ご苦労。士気にかかわるから、他の士官以上には俺から伝える。戻れ」
「はっ!」
通信兵は、踵を返して立ち去った。
伊藤は、その場に座り込んだ。
祥太郎も同じように座り込み、伊藤に言った。
「……事実上の、ドイツ降伏ですね」
「ええ。同盟国であり、陸軍国家のドイツが敗けた……」
祥太郎は思った……サシャが生きているのなら、この報せをどう受け取ったのだろうか。
伊藤が口を開いた。
「……木下さんのガールフレンドが、無事ならいいですね」
「ええ。そう祈るばかりです」
そう言いつつ、祥太郎は、サシャの居場所を知らないという事実を再認識して、言いようのない寂しさに襲われた。ことの経緯を踏まえると、ドイツに帰ったとは考えられない以上、サシャは今どこで何をしているのか……その生死すら、今の自分には分らないのだ。
そんな祥太郎に、伊藤が尋ねた。
「噂に聞きましたが……木下さんは、東京帝大を出られたんですよね?」
「そうです」
「じゃあインテリだ。世が世なら、博士か大臣なのに……。木下さんから見て、この大東亜戦争をどう思われますか?」
「……何も生まない戦争だったと思っています」
「……なるほど。インテリの方からは、そう見えるのですね」
「すみません。大隊長の前で、こんなことをぬけぬけと……」
「それが悪いということではありません。僕らのような陸軍士官学校出の職業軍人は、この戦争……というより、この戦いに意味があることを信じて、ただ戦うのみですから」
「……大隊長は、この戦いにどんな意味を見出されているのですか?」
「本土の人々が、一秒でも長く生き長らえることです。そのために、我々が敵を一秒でも長くこの沖縄に釘付けにする……それが、僕の戦う意味です。そのために僕は、陸軍と国民から今日まで養われてきたと思っています」
伊藤の言葉に、祥太郎は率直に感心した。
「……確かに、大事なことですね。それに比べれば、俺の戦う理由なんて……」
「何ですか? 聞かせてくださいよ」
「……この写真の娘と、もう一度会いたいんです」
「ほお~……」
伊藤がにんまりと笑った。
祥太郎は照れつつも話を続けた。
「俺は、この娘から、好きだと言われたことがあるんです」
「へえ…………」
「でも、すぐに答えられなかった……自分の中でその意味を咀嚼するのに、時間がかかりすぎたんです。そうしているうちに、彼女は俺の前から消えてしまって……」
「消えた……」
「だから、俺は死ねないんです。この娘ともう一度会って、彼女の想いにはっきりと応えるまでは……」
「そうだったんですね……それなのに、危険な任務を与えてすみません」
「いいえ。工兵将校が全滅してしまった以上、俺もやれることをやるだけです」
「しかし……木下さんも東京帝大出なら、なにも軍に来なくてもよさそうなものを……」
「俺は、陸軍が嫌いでした」
「……」
「学校教練で、しぼられましたからね。ですけど、俺たちの配属将校は、俺たち一高生をあえて陸軍嫌いにさせて、戦争のない世の中をつくらせようとしていたんです」
その山崎教官も、第一師団隷下の大隊長として、フィリピンで戦死してしまったと、祥太郎は知らされていた。
「あまのじゃくなんでしょうかね。嫌なものからは逃げるんじゃなくて、内側から変えてみたいというのもあったんで……」
「だから、軍に来られた……しかも海軍ではなく、陸軍を選ばれたんですね」
「まあ、そんなところです」
祥太郎と伊藤は、顔を見合わせて笑った。
ややあって伊藤が、祥太郎に言った。
「絶対に、生きて帰りましょう」
祥太郎も、思いのこもった顔で答えた。
「ええ、大隊長」
*
それから十分後。
第一大隊の全員が整列する前で、伊藤が大隊長訓示を発していた。
「注目! これより、本大隊は棚原一五四.九高地攻略のため出撃する。以下、攻撃に際しての注意事項を達する。夜陰に溶け込むように行動せよ。特に、月明りに身をさらさないようにしろ。月明かりが煌々としているときは、無理なく物陰に潜め。焦る必要はない。行軍中は無防備に立ち上がるな。中腰か匍匐で移動しろ。木下小隊による物資集積所爆破と同時に、攻撃を開始する。突撃時は、いっさい声を出すな。敵の防衛線に近づいたら、各隊指揮官の合図に従って手榴弾を投擲しろ。無理な銃剣突撃はこれを厳禁する」
続いて、伊藤は悲壮な一文で訓示を締めた。
「今や総攻撃にあたり、大隊は全滅するとも棚原西北高地に突進し、全般の為の犠牲となり、軍主力の攻撃を援護せしめんとす!」
そして、祥太郎の率いる小隊が一足先に出撃を開始した。
大隊長訓示の通り、祥太郎は小隊を地形の影に隠すようにしながら前進した。
その甲斐あってか、祥太郎の小隊は、敵に発見されることもなく、目的の棚原一五四.九高地にある米軍物資集積所に到達した。
全身に墨汁を塗った部下の兵士が、見張りの米兵を、着剣した九九式歩兵銃で刺殺した。
それを確認したのちに、祥太郎率いる数名が、集積所の天幕に忍び込み、あちこちに積み上げられている物資の確認を開始した。
しばらくして、一人の兵士が祥太郎を呼んだ。
「小隊長殿、この一角に手榴弾が集積してあります」
「よし、爆薬を仕掛けろ!」
工兵が爆薬を設置した。祥太郎たち小隊員は皆、集積所から離れた岩陰に身を潜めた。爆薬から延びる電気コードの端が、岩陰に据えられた発火装置の端子に接続された。
工兵が発火装置のスイッチを捻った瞬間、爆発音が響き、祥太郎たちは思わず身をかがめた。
音を聞きつけて、集積所の奥のほうに設営されているテントから、米兵たちが飛び出してくる。
そのとき、集積所が轟音と共に炎に包まれた。すべての弾薬に火が回ったのだ。
皆が快哉を叫んだのも一瞬、米軍陣地のあちこちから、岩陰に向けて銃弾が飛んできた。
「軽機(軽機関銃)、応射はじめ!」
祥太郎の命令一下、小隊唯一の軽機関銃が反撃を開始した。
燃え上がる集積所の炎に照らされて、祥太郎たちの潜む岩陰は、米軍の射線に容易に暴露する形になってしまった。戦車ほどの大きさのある岩は遮蔽物として心強いが、逆にそこから一歩たりとも動くことができない。
それでも軽機が応射を続けている間は、米兵の突撃を牽制できる。少なくとも、後続の本隊が攻撃を開始するまでは……そう考えていた祥太郎は、次の瞬間、異様な音が近づいてくるのを聞いた。
ひゅう、と風を切る音は、放物線を描くようにして、岩を超えて祥太郎たちに向かってきた。
まずい、と思ったそのとき、米兵の小銃から発射された
祥太郎は、体中がばらばらになるような衝撃を受けた。
「……小隊長殿! 小隊長殿! 大丈夫ですか?」
隊員の声に、祥太郎はゆっくりと目を開けた。その耳に、高地全体から、銃声と怒号が聞こえてきたような気がした。
全身が悲鳴を上げていたが、祥太郎はかまわずに口を開いた。
「本隊の攻撃は……?」
「成功です!」
高地の頂上から、万歳三唱が聞こえてきた。大隊の主力が、高地を占拠したのだった。血染めの日章旗が、月明りに翻っていた。夜の空に、高地占領を報せる火光信号が上がった。
……だが、この三十二軍唯一の勝利は、沖縄戦の大勢そのものには、何ら寄与しなかった。
三十二軍の組織的な戦闘は、翌月の六月二十三日に終わりを告げた。
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