最終話 その、二人の運命は……(前)1/1







 一九五〇(昭和二十五)年、三月二十四日。





 春の陽が優しく降り注ぐ昼下がり。


 祥太郎は、かつての我が母校、一高の正門前にいた。


 祥太郎だけではない。たくさんの一高在校生や、今日証書をもらったばかりの卒業生、そしてマスコミや野次馬など……が、門の周りにひしめいている。


 今日ここに、ここまで人が集まっているのは、今日が一高最後の卒業式だからだ。五年前に終わった大東亜戦争……その終戦後に学制改革が行われたため、これで長き伝統校の一高はその役目を終え、新制東京大学教養学部として生まれ変わる。


 最後の一高校長である麻生磯次あそういそじ校長が、「さようなら、一高!」と潤んだ声で叫びながら、『第一高等學校』とみごとな隷書で記された門札をとりはずした。


 在校生たちが、卒業生たちが大声で泣いている。いつまでたっても、その場から去りがたい学生たち。明治の代から受け継いできた一高という名の伝統が、自分たちの代で途絶えてしまうのを目の当たりにすることは、なんと切ないことだろうか。


 人ごみの中には、学生服姿でない、背広姿の男たちもいる。過去に一高を卒業したOBたちだった。祥太郎は、その人ごみの中にいた。


 卒業生たちの嗚咽を聞きながら、祥太郎は思った……ああ、俺たちの時代がまた一つ、終わりを告げた。


 大東亜戦争と呼ばれた戦の終わりから五年。あの戦争は、いろいろなものを破壊し、たくさんの人の命を奪っていった。


 ここ東京も、二度の大空襲で焼き尽くされてしまった。終戦から五年たって、少しづつ焼け跡には家やビルが戻ってきているが、焼け出された人々の貧しさや、遺された者の悲しみは、今も消えることはない。


 焼け残った一高の学舎を見て思うのは、今も行方知れずの会いたい人ばかりだ。ああ、級友たちよ、今いずこ……。


 その些細な願望が遠いものに思えるほどに、あの戦争は大きく、そして惨すぎた。


 それでも、今、祥太郎がもっとも会いたい人の顔を思い描こうとした……そのときだった。


「おい、木下じゃないか?」


 背広姿の、恰幅のいい……懐かしい顔が、そこにいた。


「田原……!」


 田原の背後には、さらに二人の青年がいた。


「おう、俺たちもいるぞ」


 同じく、背広姿の鴨井と仁川だった。


 祥太郎は、一瞬にして、あの懐かしい一高の日々に引き戻された。


「なんだよ、元気にしてたか、ばか野郎ども!」


 そう言った祥太郎を前にした級友たちは、一様に目を潤ませた。


「木下、お前、よく……よく無事で……!」


 そう言った田原が男泣きを始めた。仁川と鴨井も泣いている。


 祥太郎は慌てた。


「お、おい、そんな大げさな……」


 しかし田原は泣き止まなかった。


「大げさなもんかよ!」


 そんな田原に、祥太郎は思わず歩み寄ろうとした。その歩みは、左足を引きずるようにしていた。


「おい木下、お前、その足……」


 仁川が、祥太郎の左足の動きを見て、息をのむように言った。


「これか……? ああ、戦闘で怪我して、ちょっと足の自由が利かなくなっちまったんだ」


 田原が、祥太郎をじっと見たまま、深くうなずきながら言った。


「そうか……やっぱり、沖縄戦は苛烈だったんだな……」

「この足は……そう、沖縄での戦闘でやられたんだ。昭和二十年の五月のことだった。その後も転戦を重ねて、大隊長以下の俺たちが降伏したのは、九月に入ってからのことだったよ……」


 そこまで話した祥太郎は、ふと、ある疑問を浮かべた。


「……それより、どうして俺が沖縄にいたことを知ってるんだ?」


 祥太郎の問いに、鴨井が答えた。


「俺たち三人はな、お前も知っての通り、東京帝大を出たあと、海軍経理学校にパスして、卒業したんだ」

「うん、戦争が始まって半年ほどたった頃に、一度だけ皆で会ったことがあるもんな。俺も陸軍予備士官学校を出た頃だったか。その後は……?」


 仁川が、続きを引き取った。


「ああ。海軍経理学校を出てから、俺たち三人はそれぞれバラバラに艦隊に配属されることになった。ところが、連合艦隊も次々にやられていって、乗るべき艦もなくなっちまった」


 田原も口を開いた。


「そのときだったんだ。海軍が、高学歴の一般大出身の将校を集めていたのは……」


 祥太郎は首をひねった。


「どうして海軍はそんなことを?」


 田原が答える。


「通信諜報部隊に配属するためさ」

「通信諜報部隊……?」

「木下は、大和田にあった、海軍の通信所……大和田通信所を知っているか?」

「あ、ああ。名前だけは……」

「俺たちは、そこに集められたんだ」


 鴨井が続ける。


「敵の暗号通信を傍受して、その動きを予測するんだ。米軍の暗号は解読困難だったが、敵機や敵艦のコールサインの識別や、暗号電文自体の長短、そして発信部隊の識別くらいは可能だった。俺たちは、そうした情報を分析するブレーンとして集められたのさ」

「なるほど……」

「だから……俺たちは否応なく、この戦争の戦局が劣勢に傾いていくのを、手に取るように見せつけられたよ。敵の潜水艦の出没頻度、偵察機の動きなんかを追って、それを丹念に積み上げていけば、敵の艦隊や航空隊や司令部の意図が分かった」

「それは、すごいじゃないか……」


 祥太郎の感嘆の声に、仁川が頭を横に振りながら言った。


「何がすごいもんか。敵の次の上陸予測地点を事前に予測できたとして、俺たち大和田通信隊に何ができたと思う?」


 田原も言った。


「陸軍のお前なら、日米の戦力差はよく分かっていただろう? もちろん、俺たちもだった。敵の上陸が予測される島にいる味方の陸軍部隊に、その事実と時期が教えられたところで、ろくに物資も補給もない彼らにとっては、死刑宣告をされる以外の何ものでもなかったんだ……そうだろう?」


 祥太郎は、何も言えなかった。その死刑宣告から辛くも生還した自分の幸運を、祥太郎は改めて噛みしめた。


 仁川が続ける。


「俺たちの仕事はそんなことの繰り返しさ。テニアン諸島しかり、硫黄島しかり、そして……沖縄もだった」

「でも……どうしてお前らは、俺が沖縄にいることまで知ってたんだ……?」

「戦局が悪化していって、お前がどこに配属されているのかが分からなくなっちまった。軍事郵便も宛先不明で帰ってくるありさまだったしな。そこで……俺の中学の同級生で、一高に落ちて陸士に行ったやつが、陸軍省に勤務していたんが、本土決戦が叫ばれ始めたころ……昭和十九年の暮れぐらいだったかな、そいつに、お前が今どこに配属されているのかを聞いたんだ。そしたら……沖縄だって言うじゃないか」

「そうだったのか……」


 鴨井もうなずきながら口を開く。


「昭和十九年の暮れの時点で、俺たち大和田通信隊は、沖縄が危ないことも分かってたんだよ」

「……」


 そして、田原が、驚くべきことを言った。


「だからさ、俺たちはな、木下に会いに行ったんだ」

「え…………?」


 会いに来た……? 祥太郎には理解できなかった。どうやってそんなことができたのだろう。昭和二十年に入った時点で、すでに日本近海の制空権も制海権も敵に奪われていたというのに……と祥太郎は思った。


 種明かしのように、鴨井が言った。


「戦艦に乗っていったのさ。大和に……な」


 祥太郎は驚愕した。


「戦艦大和って……あの、昭和二十年の四月に、沖縄に向けて海上特攻をして、途中でやられて轟沈した……あれか?」

「そうさ。あのとき、俺たち三人は、大和に乗ってたのさ」

「そんな……どうして……」


 田原が、にやと笑いながら言った。


「決まってるじゃないか。お前にもう一度会って、一緒に沖縄を守るためだよ」

「え……?」


 祥太郎は、自分の耳が信じられなかった。級友たちは、危険を冒して、俺に会いに来てくれたというのか。思わず、祥太郎は涙をこぼしそうになった。


 仁川が言った。


「俺たち三人は、大和田から戦艦大和への異動願いを出したのさ。大和乗り組み予定だった学徒将校たちは、これ幸いと交代してくれたよ」


 祥太郎は、涙をこらえつつ問うた。


「大和に乗るってことが特攻だってことは分かってたはずだろう。どうして……」


 田原が、照れるように言った。


「一高の級友が、米軍の次の上陸予想地点にいると知って、ほっかむりできる俺たちだと思うか?」


 仁川が続けた。


「確かに特攻だが、100パーセント死ぬとは思ってなかったよ。何せ大和は、我が海軍が誇る、唯一無二の注排水システムを擁する不沈艦だった。まあ……それでも沈んじまったけどな。海に放り出されたところを、三人そろって護衛駆逐艦に拾われたのは幸運だったぜ」


 鴨井も言った。


「それに、大和田も必ずしもいい居場所じゃあなかったからな。俺たちは早慶出身の上官に眼の敵にされて、よくぶん殴られていたんだ。これじゃあ陸軍と変わらないって思っても不思議じゃなかったよ」


 祥太郎は、もう何も言えなかった。


 田原が付け加えた。


「大和はな、沖縄までたどり着いたら浅瀬に乗り上げて、その四十六サンチ砲で存分に敵の飛行場と陣地を砲撃すると同時に、砲科要員以外はそのまま銃器で武装して上陸し、三十二軍に合流して戦う予定だった。信じてもらえるかはわからないが、上陸後に使用するための多額の現金も、俺たちは大和に積んでいったんだぜ」


 三人の言葉を聞いた祥太郎は、ただ、頭を下げるだけだった。


「本当に……おまえらはばか野郎だ。この命知らずのばか共が……」


 仁川が、笑いながら言った。


「何を言ってる。俺たちは一高時代に、とんでもない死線をすでに一度くぐり抜けてきただろう?」


 祥太郎は、はっとしてうなずいた。


「そうか……確かに、そんなこともあったな……」


 田原が、ややあって祥太郎に言った。


「だから……俺たちが沖縄にたどり着けなくて、済まなかった」

「そんなこと、謝ることじゃないだろう……」


 仁川も言った。


「でも……もし俺たちが沖縄に上陸していたら……木下がそんな怪我をするまでに追い込まれなかったかもしれないし……」


 鴨井も続けた。


「木下だけじゃない。俺たちが沖縄にたどり着き、敵を存分にたたいていれば、勝てはしなかったにしても、多くの軍民の犠牲は減らせたかもしれない。それに……敵の日本爆撃における緊急不時着地点としての沖縄がその機能を喪失したとなれば、本土空襲も減り、そして原子爆弾の投下も避けられたかもしれない。何より、沖縄で敵の被害が増大していれば、アメリカ国内でも厭戦気分が高まって、早期講和がなされた可能性が……」


 そこまで言って、鴨井は頭を横に振った。


「……ま、今さら言っても詮無いことだけどな」


 田原が、気を取り直したように、明るい声を上げた。


「まあ、何はともあれ、一高の俺たち友だちが、今こうして元気で生きて揃ったんだ。嬉しいことじゃないか!」


 その声に、四人は肩をたたき合いながら、およそ十年越しの再会を喜び合ったのだった。





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