冴えない俺が、留学してきたドイツ人美少年のご学友にされてしまった件

鮎川 雅

第1話 その、ドイツ人美少年は……1/3




 一九三五(昭和十)年 秋。





 ある晴れた十月の朝のことだった。


「おい、今教員室で聞いたが、今日、このクラスに転校生が来るぞ!」


 朝礼前の教室の扉が開き、飛び込んで来た生徒が、そう叫んだ。


 ここは、東京の名門ナンバースクール・第一高等学校……通称・一高いちこうの二年文(科)乙の教室。学校がつい先日、本郷から駒場に移転したばかりで、そわそわと、どこか落ち着きのない状態だった教室内が、この話題に明るくざわめいた。


 すぐに二、三人の生徒が声を上げた。


「どこから来るんだ?」

「二高か? 三高か?」

「我が一高の編入試験をパスしたということは、相当優秀なやつなんだろうな?」


 立て続けの質問に、飛び込んで来た生徒は首を横に振った。


「いや、国内からじゃない。ドイツから海を渡ってきたらしい」

「ドイツから? なんだ、それじゃ転校生じゃなくて、留学生じゃないか?」


 ざわめきが倍加した。


「ああ、これ以上のことは俺も分からん。とりあえず、先生と転……留学生が来るのを待とうじゃないか」


 朝っぱらから自席で居眠りをしていた木下祥太郎きのしたしょうたろうは、この転校生……いや留学生騒ぎに起こされて、級友たちが興奮気味に話しているのを、ぼんやりと聞いていた。


 ……へえ。ドイツからの留学生か。遠路はるばる、ご苦労だな。まったく、この女人禁制の一高に、女の留学生が来るわけでもないだろうものを、よくも皆はしゃいでいるもんだ。


 文乙クラスの中心近くにいるほど、陽気なキャラクターでもない、どちらかというと陰気な部類に入るのを自覚している祥太郎は、また居眠りを再開しようとしたが、ふたたび教室の扉がガラガラと開いた音を聞いて、伏せていた頭を上げた。


「起立!」


 号令がかかり、クラスの全員が立ち上がる。


 そのとき祥太郎たちは、担任である国文の中澤教授のかたわらに、くだんのドイツ人留学生を見た。


 身長一七〇センチほどのその留学生は、小顔の金髪碧眼で、すらりとした体形をしていた。髪型は、ショート・カットと言うのだろうか、清潔そうに耳を出しており、おかっぱというよりも、さらに短く刈られていた。


 服装は、洗いたてのシーツのように白く輝く長袖のシャツに、紺色のネクタイを締めている。足回りは、乗馬ズボンのような黒ズボンに、黒光りするブーツだ。


 祥太郎は、最初、その留学生に、まるで少女メッチェン……いや、宝塚の役者……男装の美女であるかのような印象を持った。が、ここが一高である以上、中身が女であることは恐らくなかろうから、中性的な美少年というのが妥当なところだろう、と思い直していた。それに、よく見れば、この留学生には、歳頃の少女には特有の、恥じらいひとつ見られなかった。


 その白い美貌の表情は……祥太郎から見れば、なんだかめんどくさそうな顔をしていた。


「礼! 着席!」


 美貌の留学生から視線を外せないまま、生徒たちは、ガタガタと席についた。


 中澤教授が、黒板にドイツ語を書いた。その留学生の名前だった。書き終わると、中澤は生徒たちに向き直った。


「いきなりだが、今日からこのクラスに留学生が来ることになった。サシャ・ツー・フランベルグ君だ。ドイツはベルリン生まれのベルリン育ちだそうだ。一応ことわっておくが、サシャ君はmännlich男の子だぞ」


 生徒たちはどよめきの声と、残念そうな声を上げた。どよめきは、ベルリン生まれ云々にではなく、名前に「ツー」が入っていることに対してだった。ドイツ語を履修している一高生には、「ツー」が貴族の証であることが、すぐに分かった。そして、残念そうな声は、留学生がよもや女ではないかという、皆の淡い期待が裏切られてしまったことに対してのものだった。


 祥太郎は思った……そんなやんごとなき貴公子なら、皇族や華族の生徒が多い学習院にでも行きそうなものを、どうして、わざわざ一高に来たんだろう?


 誰かが中澤に聞いた。


「先生、〝ご学友〟はどうなるんですか?」


 ご学友。それは、皇族や華族の子女が、慣れない学校生活を送るにあたって、それをサポートする役割を負う同級生の存在だ。皇族や華族の子女の友ともなれば、それに相応しい家柄の子女があたるのが常だという。いわゆる、釣り合いをとるというやつだ。日本の学生生活には当然慣れていないであろう貴族のサシャには、やはり、ご学友にあたる存在が必要になると思われた。


 だが、そもそも、一高には、単なる金持ちの家庭の息子は多いが、皇族とか華族とか、そんなお上品な家柄の同級生はいない。となれば、誰がこのドイツ貴族令息のご学友に選ばれるんだろうか、と祥太郎は思った。成績優秀者だろうか? ドイツ語が達者な者だろうか? ちなみに祥太郎は、お世辞にも、そのどちらでもなかった。


「それは、もう決めてある。……なんだ、立候補したいやつがいるのか?」


 皆、無言だった。美貌とはいえ、サシャが男と知って、皆の興味は薄れたようだった。誰も手を挙げないのを確認して、中澤が再び口を開いた。


「木下。木下祥太郎。お前が、ご学友だ」


「……はい? 俺ですか?」


 自分の名前を呼ばれたことに気づいて、祥太郎は耳を疑った。そこそこのサラリーマンの父と、主婦の母。それに、高等女学校に通っている妹。そんな家族構成の、何の変哲もない家庭に生まれ育ち、一高にどうにか滑り込んだものの、成績も何もかも冴えない俺が、ドイツの貴族令息のご学友……?


 ……わけがわからないよ!


 中澤は続ける。


「ああ、お前がご学友だ。いいか、お前はサシャ君から見たら、日本そのものだ。失礼のないように、また日本の高等学校の頂点に立つ、我が一高の生徒としての誇りを忘れないように望め」

「ええっ? ちょ、ちょっと待って下さいよ!」

「ちょっともへちまもない。頑張ってくれ」

「先生、どうして俺なんですか?」

「嫌なのか?」

「い、嫌と言うほどではないですが……。俺のドイツ語はそれほど……」


 祥太郎は、正直に言えば嫌だった。クラブ活動もしておらず、何らかの研究や創作にふけっている訳でもない彼にとっても、人生のモラトリアムである高校生としての時間を、こんな形で奪われるのは本意ではなかった……恐らく、これからは、居眠りする時間すら奪われるだろう、とも思った。だが、それを、サシャを目の前にして言えるほど、祥太郎は徹底した個人主義者でもなかった。……サシャが日本語を解せるのかどうかは知らないが。


「嫌じゃないなら、つつしんで頑張れ。それに、ドイツ語の心配はしなくていい。あと、彼は外部から通学するから、寮での世話も不要だ」


 右隣の席の仁川謙吾にがわけんごが、憐れみを包んだ笑顔を向けてくる。


「良かったな、木下……」

「……なんなら、代わってやろうか?」

「い、いや、俺はいいよ」


 仁川ににべもなく言われて、祥太郎は、改めて察した。そうか、要するに、俺は面倒ごとを押し付けられた……そういうことなんだな。そうかそうか、つまりお前らは、そういう奴らだったんだな。


 そんな祥太郎をよそに、中澤は話を続けた。


「というわけだ。サシャ君、何か一言……」

「僕の席は、どこになりますか?」


 サシャから返ってきたのは、流ちょうな日本語だった。存外に高い声に、祥太郎は驚いた。もっと低い声を出すのかと思っていたからだ。まだ、声変わりはしていないらしい。


「あの右奥の、窓際の席だ」


 中澤が、祥太郎の左隣の空席を指した。


 サシャは、特に挨拶もせず、さっさと教壇を降りて、早足で祥太郎の隣の席までやってきた。そして、席について、ドイツ製のものらしい革の鞄を机の横に掛けると、ぷいとガラス窓の外に眼をやってしまった。


 その様子を、教室内の皆は、あっけに取られて見ているだけだった。


 その後の午前中の授業は、文乙の全員がサシャの挙動に注目していたが、当のサシャは、どの授業も、退屈そうにしていた。


 ドイツ語の授業に至っては、サシャは机に突っ伏して、ノートをとろうとすらしなかった。皆の眼には、ふてぶてしさに余る態度に見えた。


 最初のうちは、祥太郎は、自分を含めた皆が〝ご学友〟になるのを渋ったのを目の当たりにしたから、サシャは機嫌を損ねたのかと思ったが、それにしては、何となく様子がおかしいと思い直していた。


 なんだか、教室内の雰囲気が、ぎこちなくなったように祥太郎には感じた。ご学友を拝命して、さっそく、祥太郎は胃を痛めていた。

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