狸の怪
黒月
第1話
両親が共働きだった私は夏休みは毎年、北関東にある祖父母の家に預けられていた。祖父母は穏やかで優しい人で、親元を離れた生活でも寂しさを感じることはなかった。
一つだけ、不満があるとすればお盆の墓参りだった。墓参り自体が嫌なのではない。先祖の墓が鬱蒼とした山の中にあり、そこへ行くのが嫌だった。
祖父は山へ入る前、「狸に化かされないように」と、眉毛に唾を付けるよう私に言うのだった。幼い頃は何も考えず言われた通りにしていたが、段々とそれが気持ち悪く感じて嫌で嫌でたまらなくなった。
だが、祖父も山へ入る前は必ずしているから、とその行為を行わなければ墓参りには連れていって貰えなかった。
ある時、そんな迷信じみたことをなぜするのか、と尋ねた。すると祖父は子供時代の話を始めた。「親父からの言いつけだったんだ」と。
明治の終わりごろの話だった。まだ幼かった祖父は父に連れられ、長兄と共に親戚の集まりで本家に向かった。
夜になり、本家からの帰り道は当然街灯などない真っ暗な山道だったという。あるのは、父の持つ提灯の灯りのみ。心細く思いながら、父と長兄の後を歩く。
すると突然、前を歩いていた兄が立ち止まった。急な事に父も足を止め、兄の名前を呼ぶが返事はなかった。代わりに大声で笑いだす。驚いて兄に声を掛けるがその顔は全く自分達を見ていない。白目を剥くようにして笑っている。父が手を引こうとするも、その手を子どもとは思えない力で振り払い、駆け出すと、笑い声を上げたまますぐそばの木に登りだした。
木上から兄の笑い声が響く。その様子に父は表情を険しくした。
「あれは狸に化かされたな。あいつ、眉毛に唾つけておかなかったんだろう。」
そして、兄をそのままに足早に帰宅した。
「兄さんは?」
「この季節なら風邪も引くまい。あのまま待っていたらこっちまで化かされる」
山中に一人残して来たことにバツの悪い思いをしたが、翌日兄はケロリとした表情で家に帰ってきた。どこにも怪我はなく、平然としていたが、昨夜の事は全く覚えていないという。
現在も祖父の長兄は存命中で、大勢の孫、曾孫に囲まれて穏やかに老後を過ごしている。
狸の怪 黒月 @inuinu1113
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