第2話 ささやかな日常

 ある日のこと、緑丸が寄席のない日にバイオレットの家へと行くときに、ふと菖一がこう言った。

「そういえば緑丸さん。バイオレットさんの家に行ったとき、いつもおやつを振る舞ってもらっていますが、いつももらってばかりでは悪いでしょう。

たまにはこちらからもなにか持って行きませんか?」

 それを聞いて、緑丸は恵次郎をちらりと見る。

「それもそうだな。

バイオレットもせんべいを気に入ってたみたいだし、それ持ってくか。

でも、たまには他のも持っていった方が良いかな?」

 緑丸の言葉に、恵次郎は少し考えて返す。

「いつもせんべいばかりでも飽きるだろうしな。たまには他のおかしも持って行っていいかもしれない」

「そうだよな。でもなに持っていこう」

 そのやりとりを聞いていた菖一が首を傾げてから言う。

「それでしたら、饅頭まんじゅうなんてどうでしょう。彼らの食べているパンというものに似ているので、馴染みやすいでしょう」

「そっか、饅頭か。それならちょっと買っていくか」

 菖一の言葉に、緑丸はいったん足を止めて歩く方向を変える。馴染みの饅頭屋に向かうためだ。恵次郎はもちろん、菖一もそれがわかったようで着いていく。時折すれ違う人から緑丸が菖一を庇いつつ、饅頭屋に辿り着く。

「よう、緑丸さんいらっしゃい」

 店主に声を掛けられ、緑丸は愛想良く笑って注文をする。

「おっちゃん久しぶり。

今日は饅頭を八つ欲しいんだけど」

「八つかい? 少々お待ちを」

 店主はお代を緑丸から受け取り、店頭で蒸している饅頭を紙に包んでいく。それを紙袋に入れて緑丸に渡した。

「まいどあり! 愛子あいこちゃんにもよろしくな」

「あいよ。ありがとな」

 愛子というのは緑丸と恵次郎の妹だ。どうやら店主は饅頭を愛子と一緒に食べるものだと思っているようだった。

 けれども、わざわざ訂正するほどのことでもないので緑丸はそのまま店を後にする。それから、今度は馴染みの雑貨屋へと向かう。その雑貨屋ではせんべいも売っているので、そこで買っていこうと思ったのだ。

「菖一、倫子りんこさんのところ行くから気をつけろよ」

 緑丸の言葉に、菖一は頷く。

「わかりました。あそこは子供が多いですからね」

 倫子というのは、これから向かう雑貨屋の店主だ。あの雑貨屋は駄菓子も多く扱っているので、学校が休みの日や学校が終わった後はいつも子供達で賑やかなのだ。

 饅頭屋から少し離れたところにある、入り口がガラス戸の雑貨屋につく。今日は子供達はいないようだった。

 子供達が嫌いなわけではないけれども、目の見えない菖一がいるときは、子供達はいないでくれた方が助かる。

 緑丸がガラス戸を開けて中に入り、声を掛ける。

「倫子さん、いるかい?」

 その声に、すぐに奥から返事が返ってくる。

「緑丸さんいらしゃい。

あら、今日は菖一さんもいるんですね、珍しい」

 倫子と呼ばれた女性の声に、菖一は軽く頭を下げる。

 店の中が雑多なのがわかっていて入り口近くに立ったままの菖一を置いて、緑丸と恵次郎が奥の方にあるせんべいの入った器の前に行く。

「兄さん。どれを買っていく気だ?」

「うーん、のりせんべいもいいけど、やっぱざらめだよな。ざらめにしよう」

 そのやりとりを聞いた倫子がふたりに訊ねる。

「今日はどこかへのお土産ですか?」

 倫子の問いに、恵次郎が返す。

「今日はバイオレットのところへ行くのにおやつを買っていこうと思って」

「そうなんですね。楽しみでしょう」

 楽しみかと言われて、緑丸はにっこりと笑う。

「今日も外国の歌を教えて貰うんだ。楽しみだよ」

 そんなやりとりをしてせんべいの勘定をして、緑丸達は店を出る。それから今度こそ、バイオレットの家のある居留地へと向かった。


 バイオレットの家に着くと、いつも通りバイオレットが満面の笑顔で迎えてくれた。

 いつも通りに食堂で浪花節を一節披露し、その見返りに、外国の歌を三十分ほど教えて貰う。緑丸が歌を教わっている間、恵次郎と菖一は椅子に腰掛けて聞いている。

 ふと、恵次郎が菖一に訊ねる。

「お前も、外国の歌に慣れてきたか?」

 菖一は口元に手をやって返す。

「まぁ、聞くのは慣れてきましたが、演奏できるかと言われるとまだまだ難しいですね」

「もしかして、練習してるのか?」

 少し驚いたように恵次郎がそう言うと、菖一が頷く。

「なにかの役に立つかもしれませんからね。

ですけれども、どうにも三味線と外国の歌は音階が合わせづらくて」

「そういうものなのか?」

 恵次郎には、音楽のことはよくわからないので菖一の言葉が不思議なようだった。

 そうしているうちに、緑丸の歌の練習が終わる。バイオレットが緑丸に椅子を勧め、恵次郎に話し掛けている。それを聞いた恵次郎は、手に持っていた紙袋をふたつバイオレットに渡して言葉を返す。すると、バイオレットはうれしそうに笑って食堂を飛び出していった。

「なんだ、なにがあった」

 緑丸がそう訊ねると、恵次郎は苦笑いをする。

「おやつにせんべいがきたのがうれしかったらしい」

「おう、そっか」

 それからしばらく待つと、いつものように急須と茶碗、それに皿の上にせんべいと饅頭を乗せ、それらをお盆でバイオレットが運んできた。それから、茶碗の中に赤いお茶を注いで全員の前に出した。

 いつも出される赤いお茶にも、もうすっかり慣れた。お茶を飲みながらせんべいと饅頭を囓る。

 ふと、バイオレットが不思議そうな顔で饅頭を手に取り、恵次郎に話し掛ける。恵次郎はその言葉に返しているけれども、その中に饅頭という言葉が入っていたので饅頭の説明をしたのだろう。

「やっぱバイオレットは饅頭ははじめてか?」

 緑丸が恵次郎に訊ねると、恵次郎が頷く。

「ああ、パンに似ているけれどもパンにしてはしっとりしてるからなにかと思ったらしい」

 そうしている間にも、バイオレットは饅頭を口にする。それから、もぐもぐと口を動かしながら真顔になった。そのようすを見た緑丸が、慌ててバイオレットに訊ねる。

「どうした? 不味かったか?」

 緑丸の言葉を聞いて、菖一が不思議そうな顔をする。

「おかしいですね、あの饅頭屋さんはこのあたりで一番おいしいところなのに」

 きっと、ふたりがなにを言っているのかバイオレットにはわかっていないだろう。難しい顔をしたまま、もう一個饅頭を手に取る。それから、恵次郎にまた話し掛けた。

 緑丸が恵次郎に訊ねる。

「なんて言ってる?」

「ひとり二個しかないのかと」

 恵次郎の言葉に、菖一がくすくすと笑う。

「おやおや、どうやら気に入ったようですね。残念ながらひとり二個ずつです」

 それを恵次郎が訳すと、バイオレットがあまりにもしょんぼりした顔をするので緑丸が自分の分を一個バイオレットに譲り、その日のおやつ時間を楽しく過ごした。

 後日、居留地の英吉利イギリス人の間で饅頭が話題になったのは余談だろう。

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