第3話 天穹からの目撃者
〈1〉
若葉が明け方の雨に濡れて、朝の光がレイン・ドロップを虹色に輝かせるたびに、緑は幾度も生まれ変わって、さらに一段と彩りが濃くなっていくように感じられる。
そういえば六月もすでに後半になっていたのだ。地上世界では紫陽花の色だけが妙に鮮やかだが、午後はどうにも鬱陶しいモノトーンの空模様が続いている。どうかすると時間の経過でさえ遅れ気味のように思えてしかたがない。
「ねぇ、なんだかさぁ、これってやっぱ、子どもっぽくない? 小学生みたいだし」
「別にいいんじゃないの? 図書館だって、これで少しは華やいで見えるかもよ」
校舎の一階、廊下の途中に突如出現した巨大な植物オブジェ。
そこを頂点に、二年生の図書委員ふたりが、声までトライアングルになって、はしゃいでいる。
笹? いや、笹にしては度の過ぎた大きさと、見上げるような高さだ。やっばりこれは竹と呼ぶべきなのでは? 七夕という絶好の季節行事を当てこんで、狭い廊下を占拠しているそれは、ぶら下がった蛍光灯の高さをはるかに超えて、天上界、いや、アーチのような天井を撫でるかのように伸びている。
「七夕がチャンスだなんて言ったのは、誰の発案だったっけ?」
委員長の行橋まどかが、C組の桐原裕美に確かめる。
「あぁ、それなら一年の帆村さんよ。何でも幼稚園の弟くんと、七夕飾りを作るのが毎年の楽しみなんだって」
ふーん、そうだったのか。するってぇと、高校生にもなって七夕の準備にいそしんでいるあたしたちって、一体何なのだろう。まんまと個人の趣味に乗せられてしまったというわけか。
もちろんあたしたちにも大義名分はある。七夕はあくまでも口実で、本当の目的は読みたい本のリクエストを集めることなのだ。今月の図書委員会で、リクエストを効率よく集める方法について議題が上がったのだが、多数決で採択されたのが、今回のアイディアだったというわけ。
短冊に、願い事の代わりに、読みたい本のタイトルを書いてもらおう、という作戦だ。よく考えたら、それも一種の願い事には違いない。この案が候補に挙げられたとき、司書の川村先生が、「あたしにまかせなさい!」と、いとも簡単に請け負ってしまったのだが、成せば成るもの。その言葉通り、本日、二人は先生の知り合いだという造園業者から、何と無料で笹をもらってくることに成功したのである。
図書館の前には、委員長としての責任感で描いた、まどかデザインによるハンドメイドのポスターと、図書委員みんなで作った短冊とをトレーに乗せた。ペンも置いた。とりあえず放課後の仕事としては上出来なんじゃないかな? 自画自賛かもしれないけどね。
「で、どうする? このまま帰る?」
「それはないでしょ。せっかくなんだから、あたしたちも書かなきゃ!」
まどかが言うと、一瞬後には裕美がポケットから細書きマーカーを取りだして、さっそく一枚書き上げていた。何だ。最初からそれを狙っていたのか。
たしかに廊下に鬱蒼と、わさわさした笹が生い茂っているだけでは、気の早いお化け屋敷へようこそ、と誘っているみたいなものだ。うんと飾らなきゃ、とても七夕には見えない。
「とにかく飾らないと。廊下にただの巨大な笹なんて、場違いだものね」
「場違いじゃが、しかたがない」
「キリコ、あんたって金田一さんの読み過ぎ!」
「あははは!」
「コラ~、笑ってる場合か!」
桐原裕美の読書傾向に文句をつける立場じゃない。まどかもミステリは大好きなのだ。新着図書に入ったら、すぐにでも読みたいのだ。ところが、それを妨げる人物が約一名いるわけだ。
今度こそ、先を越されないようにしなきゃ。
そう思いながら、結局まどかは裕美といっしょに何枚かの短冊を書き上げて、笹にくくりつけた。高校生のお小遣いでは少しばかり苦しい本のタイトルが、見事にリストアップされて、まさに願い事そのものとしてぶら下がった。図書委員特製の色紙のチェーンやスイカを飾ると、もうそこには年に一度の出逢いを待つ、ロマンチックなオーラが漂い始めた。もちろん、あくまでリクエストを誘うサクラだ。いや笹だったっけ。
「キリコ、何て書いたのよ」
「とりあえず、『ハマキンのすらすら数学Ⅰ』って、どうかしらね?」
「何よそれ。参考書じゃない。ユメってもんがないよぉ、そんなの」
「でもね、けっこう欲しい生徒がいるのに、この図書館には置いてないのよ」
そりゃ受験参考書なら、買ってもらえる本のリストではかなり優先されるだろう。だけど、そんなの全然おもしろくない。こんなとき、あいつなら絶対おもしろい本をリクエストするのに。
そう。あんにゃろ。吉見祐介に読みたい本のアンケートを聞いたら、実現性ゼロ、抱腹絶倒のリクエストが返ってくるはずだ。前回は、何と『ヴォイニッチ写本』をリクエストしてきた。読めるものなら読んでみろ!
「誰が解読するのよ」と聞いたら、「行橋さん」と答えやがった。
あたしはマイケル・ヴェントリスでもFBIでもないんだぞ。
さすがに『グーテンベルク聖書』と書いてきたとき、怒ったまどかは、祐介を頭からグーテンタークにしてやった。ざまみろ。祐介もさすがに、ミステリ・シリーズを希望に挙げることで妥協したようだが、まどかが借りようとすると先を越されるので、非常にくやしい。
そんなわけで結局、まどかは祐介にはCMを流さないことに決めた。あいつのことだから、黙っていてもいずれ気がつく。放置だ!
「そんじゃ、帰ろうよ」
「うん」
もうたいていの部活が終わっていて、廊下には他には誰もいなくなっていた。満足感とともに学校を後にしたまどかだったが、裕美と下校してから二十四時間後、巨大七夕飾りは、思わぬ形で彼女に謎を投げかけてきたのである。
次の日、昼休みに図書館を通りかかると、すでに十枚を超える短冊がぶら下がっていた。
(あるある。効果抜群じゃないの!)
目立った者が勝ち、というのは本の世界も変わらないようだ。よく見たら、備えつけの短冊をわざわざ切って作ったらしい、レースや折り紙などの七夕飾りがいくつか混じっていた。まぁ許す。これが七夕の日まで続けば相当にリクエストが届くだろう。目立ちたいのか、そうじゃないのか、手の届く限りに背伸びをして、高いところにくくりつけた短冊もあった。
何て書いてあるんだろ? まどかは、本のタイトルを読もうとした。
「?」
視界にチラッと、違和感が走った。何だろう。
えっ!
まどかが驚いたのも無理はなかった。
笹の先端、廊下の天井と触れあうあたりに、一枚の赤い短冊がくくりつけられていた。
一体どうやって、あんな高いところに? たった一枚だけだが、いくら手を伸ばしても届くはずがない。なのに、こよりでしっかりと結んであるのが見える。
そんなことができるのだろうか?
もちろん高い脚立でも持ってくれば可能だろう。だけどそのために脚立を借りてくるなんて信じられるか? そんな面倒なことを廊下でやっていたら、誰かに気がつかれるはずだ。それ以前の問題として、短冊を飾るだけのために、脚立を生徒に貸してくれるとは、とても思えない。
家から持ってきた? とんでもない。
第一、笹をもらってきたのは昨日だ。昨日の放課後までは、もらえる笹がこんなに巨大だとはまどか自身も思ってもみなかったのだ。だから校舎から生徒がいなくなる下校時までに、誰もあんな高いところに短冊を下げようなんて思いつけるはずがない。ということは今朝、登校のときに持ってこられるはずもないのだ。
いや、そんな推理などするまでもない。脚立を持って登校なんかできない。
ラッシュアワーの電車で脚立を抱えて右往左往する、わがB高の生徒の姿を一瞬想像して、まどかは失笑した。もちろん改札すら通してもらえるはずがない。
では?
何かの方法でひもなどを引っかけて、先端の部分を曲げて下げるという方法はどうだろう。これなら見込みはありそう……だが。やっばりできない。
なぜなら、笹の先端が蛍光灯を超えてまたがっているからだ。
先端を引っ張れば、蛍光灯に引っかかる。途中を引っ張っても今度は蛍光灯を落下させかねない。ということは、笹を曲げる案は却下するしかない。では、どうしたら上空でこよりを結ぶことができるのだろう。手詰まりだ。うーん。
そこへ「行橋、何で空を見てるんだ?」と、聞き慣れた声がした。
「あ、吉見君。あれ見てよ」
「へ~え。行橋って器用なんだ」
「あたしじゃないわ」
「じゃ、誰?」
「短冊が読めたらわかるかもしれないけど」
「長い棒か何かでやったんじゃないかな」
「こよりを結ぶことはできないでしょ?」
「そうか……」
一瞬後、祐介は何を思ったのか、駆けだして廊下を曲がって行った。
階段を急いで登る足音、そしてこんどは下りる足音。
「お待たせ!」
息を切らせて持ってきたのは、ただの掃除用ほうきだ。
「これで落としてみる!」
祐介は何度も短冊に当てようとしたが、軽い衝撃でも笹が動くので、まるで落とせない。
「無理かな。吉見君、もういいよ」
そうは言っても、簡単にあきらめる祐介ではない。何度もやっているうちに、少し短冊の紙が破れてきた。
「今だ!」
とうとう「ピシッ」という音とともに、短冊が破れてひらひらと落ちてきた。ついでに笹の小枝までが、こよりを結んだまま落ちてきた。
「やったぜ!」
「何て書いてきたのかしら?」
短冊を拾い上げたまどかは、凍りついた。
「おい、行橋?」
祐介がまどかの手元をのぞき込んだ。祐介も言葉を失った。
そこに書かれていたのは、本のリクエストなどではなかった。
赤い紙片には、震えるような字で一言。
「たすけて」
二人は眉をひそめて顔を見合わせた。
昼休み終了のチャイムが、別世界の出来事のように遠くで鳴っていた。
〈2〉
「それじゃ、八行目の日本語を、英語に訳しましょう。前回の課題でしたね」
午後の授業、英作文の時間。話が佳境に入れば入るほど、眠くてしかたがない。
その上、まどかにとっては、短冊に書いてあった言葉が頭にこびりついて離れない。こんなときに指名されても、考えるだけの精神的余裕がないのだから答えようがない。だから当たらないで。お願い。
「では、行橋さん」
なんであたしなのよ! しかたなくまどかは立ち上がった。でも口をついて出た言葉は、
「Help me……」
「は? そんな文章ではないですよ、行橋さん。それとも思いつかなかった?」
しまった。何人かに小さく笑われた。居眠り中のやつもいるから、その程度ですんだのかもしれないけど、あ~恥かいた。
「あ、では菅波さん。せっかくだから黒板に書いてみて」
着席するしかなかった。さすがに寝てなかったやつはちがう。かなり苦戦して詰まりながらでも、紀恵ちゃんはなんとか黒板の右端まで長い英作文を並べて、ピリオドを打った。まどかの手はほとんど自動的に紀恵ちゃん―菅波訳を写していたが、心は全然別のところに跳んでいた。
「たすけて」の謎。
誰が、何のために?
そして、どうやってあんな高いところに結びつけることができたのか?
シャープペンを指先で回しながら短冊の謎を解こうとした。もちろん英作文の方にも思考の1割程度は分け与えないとまずかったが。やっぱり休憩時間に一階に下りて、もう一度「現場」へ行ってみよう。シャーロック・ホームズだって、現場や人物を鋭く観察するではないか。置き忘れたパイプから人物像を探り出したように。あたしもやってみなくちゃ。こう見えても視力は両眼とも一・五あるんだ。
チャイムが鳴り、英語の時間お決まりの「Good-bye everyone !」を全員で言い終わった次の瞬間、まどかの姿はもう教室から消えていた。
ポケットに畳んで持っていた「たすけて」の短冊を、まどかはそっと取りだした。
こよりが結んであった部分はここにない。では、残った部分はどうなったのだろう。一階の図書館前、まどかは天井の笹を見上げた。そこには何もついていなかった。なぜだろう。そんなことがあるんだろうか。
5時間目のチャイムが鳴って、教室に駆け込む寸前の出来事を思い出そうとした。あのときは……そうだ、いっしょに笹の枝が落ちたんだ。それはどこへ行ったんだろう。廊下を見ても、それらしいものは落ちていない。記憶違いでなかったとしたら、誰かが拾っていったということだろうか。とすると。
廊下のひと教室ほど先の隅っこに、ゴミ用の缶が置いてあった。よくあるワックスの空容器を再利用したやつだ。あのあとすぐ授業が始まったから、もし拾った人がいるとしたら、きっと先生の誰かだろう。拾ったゴミをずっと持って歩くなどとは考えられない。図書室から歩いてすぐの場所のゴミ缶に捨てておくんじゃないかな。
そう思って缶の中をのぞいてみた。
あった! やっぱりそうだ。
笹の葉っぱが何枚も入っていた。誰かが揺らしたりして、あるいは自然に落ちたのだろうが、間違いなくまどかの持っている短冊の、残片のくっついたものが一本あった。それは確かに、しっかりと、こよりで結ばれてあった。
この謎が解けるだろうか。小枝を観察してみた。何か変わったところはないだろうか?
白い粉がついている。竹や笹ならよくついていることがある。あれがどういう粉なのか、正体は知らないけど。いや待てよ。本体にくっついていた根元にも何かそれらしきものがついている。こすっても落ちない。これと似たような物をどこかで見たことがあるような気がする。ん? なぜか思い出せない。これは……
「そういうことだったんだ」
「わぁっ!」
本気でびくっとした。祐介が背後に立っていたのだ。
「何よいきなり! びっくりしたじゃないのよ!」
「ごめん! 驚かせるつもりなんか、全然なかったんだ」
チャイムとともにいなくなって、ここであんまり熱心に見ているから、つい声をかけてしまったんだ、と祐介は弁解した。
「で、何が、そういうこと、なのよ」
「謎が解けたんだ。やっぱり現物を見なきゃわからない」
「解決!?」
「どうやって、これを天井の笹に結びつけることができたのか、だよ」
「方法って、どんな?」
「ひどく簡単。これはあの高いところについていた小枝じゃないんだ」
「それって、どういうこと?」
「低いところから切り取ったり、全然別の笹から持ってきてもいいんだ。これに短冊をこよりで結びつけてから、先端の枝にくっつけるんだよ」
「くっつける?」
「瞬間接着剤で」
まどかは心の中で手をたたいた。そうか!
「短冊のついた笹に接着剤をつけて、長めの棒に乗せて、天井になるべく近いところで笹の本体に押しつければ完成だ。脚立もいらない……」
そこまで言うと、祐介はいきなりくやしそうな顔になった。
「そうか、もっと早く気がつけばよかったんだ」
「何のこと?」
「竹や笹の小枝って、簡単には取れないものだろ? オレがさっきほうきで叩いたとき、短冊と別に小枝ごと落ちてきたんだ。ということは、根元の一点だけで、かろうじてくっついていたニセ物だから、あの程度の衝撃で落ちたんだ。そうとわかっていたら、どうやって結んだか、なんて謎は、最初からなかったはずなんだ」
「ところで、棒から落ちないようにできるの?」
「すぐはがれるようなテープでつけておくんだ」
なるほど、それなら手早く終わるし、誰も見ていないときを見計らってできるだろう。竹をむりやりに撓ませる必要もない。道理でどこかで見覚えがあるような気がしたはずだ。竹の粉だと思ったのは、瞬間接着剤が乾いたものなのだ。もし、ここに謎がなかったら、その気で見ない限り何も不審を抱かれなかっただろう。
でも、しかし。
「大事なことを忘れてない?」
「へ、何?」
「問題は笹に結びつけた方法なんかじゃなくて、『たすけて』の意味よ。いったい誰が書いたものなのか」
「それは、まだ……」
「全然解決なんかしてないよ」
「そうだね」
まもなく六時間目も始まる。この場は引き上げるしかないだろう。
ダッシュ! 同時にチャイムが鳴り始めた。まどかと祐介は、階段を駆け上がった。残念。わずかの差だが、祐介の方が速い。あたしも自信はあるんだけどな。と思った瞬間、
数歩前で、廊下を曲がったはずの祐介が大声をあげた。
「すっ、すみませ~ん!」
まさか。そのまさかだ。
数学の西澤先生と祐介がぶつかって、チョークや出席簿が散乱していた。
「吉見っ、これで何度目だと思っとるんだ!」
結局、お情けで遅刻だけは勘弁してもらった。
とても気まずい数学の時間が終わった。
謎の一部が解決したので、ややほっとしたものの、放課後に図書館へ行こうと思ったまどかは、ちょっぴり祐介とは離れていようと思った。こんなに簡単に解決されてしまうようでは、あたしの出る幕がない。少なくとも「たすけて」の謎は自分で解決したいと思った。図書館は午後も開いている。笹の謎のおかげで、昼食後初めての入館ということになる。
ところで、短冊は?
(おおっ、すばらしいじゃない!)
まどかは声を出さずに喝采した。朝より数も増えている。何よりも、本のタイトルが書き込まれているのがありがた……
まどかの目が点になった。天井近くに、再び短冊がぽつんと一枚、ぶら下がっていた。
誰が……
早く、何が書いてあるかを見なければ! まどかは焦った。近くの掃除用具入れを探しに走った。持ってきたほうきで何とか短冊に触れて、何回も叩くと、それは落ちてきた。そこには、
〈二年A組 小口梓〉
ポケットの「たすけて」と同じ筆跡に見えた。だが。そんなはずはない!
「今度は何て書いてあったんだ?」
祐介だ。ええい、この際もういいや。まどかは、祐介に第二の短冊を見せた。
「……えっ?」
祐介もキツネに包まれたようにとまどった。これをどう考えればいいのか。沈黙と同時に、二人はごくりと唾を飲み込む。謎が再び回り始めた。
「あたしたちのA組に、小口梓という人はいないわ!」
〈3〉
六月が梅雨のシーズンだというのは、決して間違っていないとは思う。
だけど週明けからずっと青空の日が続くと、これが本当の六月の姿なのではないか、雨の日なんて、空に仕組まれたバグなんじゃないか、と思いたくなる。確かにどこか緑の香りに出逢えそうな初夏の空気というのは気分がいい。
午後四時。まどかは陽差の図書準備室で、古いアルバムを見ていた。
二枚目の短冊を発見した瞬間は、不思議さに幻惑されて何も思いつかなかったのだが、祐介が、普段からさぼりまくっている掃除当番に呼び出されたあと、ひとりで残されたときに、まどかにふいに閃くものがあった。
短冊に書かれた2年A組が、今年の二年A組だとは限らない。
「小口梓」が、あたしたちの先輩である可能性はないだろうか。もちろん今の三年生の顔と名前なんて、まどかには全員はとてもわからない。それを調べる手っ取り早い方法は?
もちろん職員室に行ってみることだろう。図書館の前から職員室はさほど遠くない。行ってみる価値は大ありと思った。
「失礼します」
そう声をかけてドアを開けてみたものの、とりあえず何のあてもないのだった。
「はい。どの先生に用事?」
教頭先生がまどかの方を向いて聞いてくれたのだが、どうしようかな。妙に間が空いて、フル回転の換気扇の音が耳に入ってきた。
「あの、西澤先生はいらっしゃいますか?」
探偵としては、四月以来、なぜか偶然に関わってもらっている顧問みたいなものだ。とりあえず話を通してみたらどうだろう。まどかはとっさに判断したのだが、正解だったかもしれない。この先生になら話をしてもいいだろう。まどかは西澤先生に短冊のいきさつを話すことにした。西澤先生は興味のありそうな顔で聞いてはくれたのだが、答えは期待したものではなかった。
「本校には、そんな名前の生徒はいないねぇ」
「三年じゃなくても?」
「二Aにも、もちろんいないだろ。今年のB高にはそういう名前の生徒はいない。納得できないのなら、三年の先生に聞いてみたらどうだ?」
もちろん三年の先生にも聞いてみた。やっぱり、小口という生徒はいないという返答だった。予想されたことではあったが、老数学者からの当然の質問。
「どうして、そんなことを聞きたいんだね?」
「はい、いや特に何もないです」
失礼しました、というやり取りがあって、あわててその場を逃れたものの、あれでは余計に不審に思われてしまうだろう。現役の三年生ではないとすると?
それが図書準備室に来た理由だった。
今日の川村先生は、髪を纏めるカチュームが、ずいぶんときつそうに見えた。
「過去の卒業アルバムって、図書館にあるんですか?」
「あるわよ。もっとも開架に並べたりはしないけどね。何年のアルバム?」
「いえ……」
それがわからないから困っているのだ。今年か去年の卒業生を見たいと申し出たら、準備室のロッカーを開けてくれた。
川村先生はいつもの机に戻ると、パソコン画面に目を集中させた。
まどかは、今年のアルバムを取りだした。緑色のクロスが表紙の、なかなか豪華な本になっていた。最初の数ページはお決まりのように、校長先生はじめ、職員の集合写真、校舎の写真が続く。手がかりにならない部分は飛ばす。
A組から写真を見ていく。知らない顔も多いが、なつかしい先輩たちの顔が並ぶ。一年のとき、新聞部や生徒会で一緒にふざけあったこともあったっけ。そんな人たちが、妙に静けさをたたえた顔で集合写真に収まっている。しかし「小口」はもちろん、似た名前もなかった。「梓」もそうだ。
間違いだろうか。もう一度写真の名前を点検する。ない。
他のクラスにも目を通す。B組もC組も……。ない。最後まで見たがなかった。
それでは、その前の年度はどうなのだろう。
次のアルバムはオレンジ色だった。
知っている顔はもはやない。これもA組から見ていく。ない。なぜだろう。
ガラス扉のロッカーには、他にも数十冊にもなりそうなアルバムが並んでいる。
「先生、このアルバムって、一体いつからあるんですか?」
「創立以来ね。少なくとも一九五〇年代、昭和で言えば二十年代からの分がほぼ残っているんじゃないかな。この学校の前身になった戦前の旧学制時代のものも、奇跡的に少しは保存されているわよ。もっとも、今と違ってきちっとした製本アルバムじゃなくて、卒業記念写真集といった程度のものでしょうけどね」
そんな。それじゃとても探しきれないじゃない!
アルバムの森に取り残されたように、まどかは手を止めた。探し当てられたらいいけれど、もし見つからなかったら? 見つかったとして、それが何十年も過去の卒業生だったら、あれはどういう意味になるのだろう。
第一の可能性は、最もくだらないけれど、ただの悪戯だったという可能性。
でも、それなら、何だってあんな高いところに、わざわざトリックを使ってまで短冊を吊す必要があったんだろう。
第二には、本当に何十年も昔のことだとしたら、この学校で事件か事故かがあったのかもしれない。それが何だったのかはさておき、でも、何で今ごろ? 今この時に出してくる意味もわからない。何十年も前の出来事に対して、あたしたちが助けられるようなことが何かあるなどとはとても思いつかないのだけど。
憶測ばかりを考えてもしかたがない。苦しいけれど、調査続行だ。
カウンターの方から、ピッという音が聞こえてきた。次の瞬間に祐介が現れた。
「よぉ、何調べてるの?」
「何でもないわ」
「小口がどういう人物なのか、ということだろ? オレも協力するよ」
「協力?」違和感ある物言いだなぁ。
そういえば、自分はどうしてアルバムを調べようなどという気になったんだろう。誰かに頼まれたわけではないのだ。「たすけて」の文字を見た。ただそれだけなのだ。しかしあの文字、その登場のしかたは確かにインパクトがあった。
「誰なのかは知らないけど、きっと短冊を書いた本人は切実だったんだと思うよ」
「どうしてそんなことがわかるのよ?」
「二回に分けて書いている、ということは、それだけ強く短冊を印象づけたかったからだ、という気がしないか?」
そうかもしれない。もし名前まで同時に書いてあったら、まどか自身、調べてみようという気になっただろうか。それでは短冊を天井の近くにわざわざ吊そうとした(トリックがわかった今、あれを「吊す」と表現していいものかどうかわからないが)ことも、それが目的だったのではないだろうか。
「とにかく探してみよう。アルバムを手分けして」
作業再開。数分間はまどかも祐介も黙ったまま、アルバムの写真と文字を追っていた。
「ね、吉見君」
「何だよ」
「今までひょっとしたら間違って探していたかもしれない」
「どういうことだ」
「〈梓〉という名前を見て、あたしは勝手に女子生徒だと思っていた。だけどこの名前は男子でもおかしくないんじゃないかしら」
祐介の目が大きくなった。まどかの顔に焦点が合った。
「そ、そうだ。オレもうっかりして男子を飛ばしてた」
〈栄〉〈薫〉〈明〉とか、男女どちらでも可能な名前というのは割とあるはずだ。歴史的にも、緯度観測の木村栄、平塚らいてうの本名、明、など、掘り出せば例に事欠かない。
「今年の分から、やり直しよね」
室内がすごく暑かった。六月の太陽は何の容赦もなく、風の通りにくい図書館を攻撃していた。
川村先生もさすがに仕事に差し支えるので、窓を傾けて通風はしてくれたのだが、あいにく風が吹いていない。窓の外には、植え込みの木々がまだ新しい無数の葉を繁らせている。これがぴくりとも動かない。まどかには、その一枚一枚がこの高校の卒業生ひとりひとりのような気がしてきた。そのうちの一枚だけを探し当てるのは、気の遠くなるような作業のように思えた。
「冷房欲しいよね」
まどかがつぶやいたのを聞き逃さず、パソコン画面から顔を上げて、
「ごめんね。来週あたりから全館冷房が始まるはずなのよ。今はそのために点検中」
川村先生が、いかにもすまなそうに言う。
ごめんなさい。そんなつもりじゃ……
結果は収穫なしで終わった。数十年間に降り積もった埃やカビの匂いとの格闘技だったのに、ゴングならぬチャイムによって決着がついた。閉館時刻までねばってみた。しかし新制高校(歴史的には、今の高校をそのように言うのだ)以前の分も含めて、結局「小口梓」の名前を発見することはできなかった。
もし遠い過去の卒業生だったとしたら、故人である可能性もあるだろう。そうだったら、短冊は幽霊が書いたことになるかもしれない。そう気がついて、まどかはぞっとした。部活の「幽霊部員」などとは違うのだ。どっちにしたって過去の事件・事故を掘り起こすことには、少しためらいがある。怪談なんかを信じているわけではないが。
図書館を出てから、祐介ががっかりしたように言う。
「名前、出てこなかったよね。どうする?」
「そうね。何か見落としているかもしれないけど」
「ひょっとして卒業生とは限らないんじゃないかな」
「?」
「高校だから、中退という場合も考えられるんじゃないかな。その場合は卒業生に数えられないから、アルバムにも残らないし」
「だったら、放課後に探したことはムダだったわけ?」
「そうとは思わないよ。可能性をひとつ潰したわけだから、他の方向を探索してみたらどうだろう」
そこまでの話が終わらないうちに。
「×××……ゃーッ!!」
異様な悲鳴が聞こえてきた。
「何よあれ!」
「上の方じゃないのか?」
校舎から出るつもりだったが、まどかも祐介も近くの階段を駆け上がって、悲鳴のあった方へ向かった。ドタバタと足音がコンクリートに反響した。明らかにその中には、二人のものではない足音が混じっていた。
だが、二階から三階にかけて走っている途中、それ以上の音は何も聞こえてこなくなった。
四階に上がると、それこそ二人の息切れの声だけがしていた。
「何だったのかしら、今の?」
それ以上何も起きなかった。最上階。吹き抜けの階段室の窓から、まぶしい夕陽が差し込んで、二人の影を鋭く廊下に灼き込んでいた。
「今のは、何だったのかしら?」
「ひょっとすると……これがあの『たすけて』に関わっているのかもしれないな」
「そうかもしれないけど、それをどうやって確かめるの?」
「わからない」
「あの悲鳴は誰だったのかしら。それすらもわからないとすると?」
「これから学校で何が起こるのか、成り行きを見逃さないようにするしかないだろう」
「けど、間に合う?」
祐介が答えに詰まった。
階段を降りていた二人が、合図もないのに同時に足を止めた。
「短冊を書いて、訴えようとしていたのなら、相当に切羽詰まっていたんじゃないかしら。何かが起こるまで、そんなに時間はないかもしれないじゃない」
「そう思うか?」
「思う。根拠なんかないけど、あの字は、あたしにはそんなふうに見えた」
「せめて、書いた人間が誰なのか、それがわかったら……」
「吉見君、さっき何か言いかけていたでしょ? あれは何?」
「そうだ、思い出した」
祐介が、ふたたび階段を降り始めた。
陽差が翳ってきたのか、階段が青い風に包まれているようだ。
「図書館で過去の卒業アルバムを調べた結果、小口梓はこの学校の生徒ではないらしいことがわかった。だとすると、他の学校の生徒という線を考えないといけないんじゃないだろうか」
「それは無理!」
まどかが言い切った。
「あたしたちのような一介の生徒に、どうやって他の学校、それこそ何十校あるかもしれない高校の生徒を調べられると言うの?」
「そうだな、だけどアルバムをひっくり返す必要は、もうないと思うんだ」
「どうして?」
「他ならぬ短冊が証拠。この学校の図書館のディスプレイに、果たして他の学校の生徒が、わざわざ短冊をぶら下げに来るだろうか、ってことさ」
最初の一枚は、放課後に笹を設置した次の日のきょう、すでに天井に届く高さに吊してあったのだ。もし偶然に、他校の生徒が訪問していた場合でも、短冊に書き込むことはできても吊り下げることはできない。あらかじめ知っていないとトリックに使う道具の用意ができないからだ。しかも笹があんなに大きいのは、造園業者からもらってきた昨日、現地で初めてわかったことなのだ。そうでなければ、キリコと二人で、あんなに苦労して運ぶ必要はなかった。
「昼につるした短冊の二枚目が、六時間目の終わりにはもうすでに吊してあった。だけど他の学校から誰かが来たのなら、そんなに長時間校内にいられない。逆に長時間訪問するのなら、オレたちの耳に、そういう行事とかの話が入ってきても良さそうなものじゃないか?」
「先生のだれか、という可能性もないわ」
「そうなのか?」
「『たすけて』なんて、冗談でも書くはずがない。そんなことしたら大問題よ」
「納得」
いつのまにか玄関を出ていた。校門の外の空気に触れると、蒸すような湿っぽさに、少しムッとくる。祐介とここまで一緒に歩くのは久しぶりだ。夕暮れには早いので、グランドでは体育系の部活の喚声が、まだ盛んに聞こえている。思わず擬音をレタリングで書きたくなるほどジャストミートした金属バットのノックを合図に、ソフトテニス部の集団が舗道をリズミカルに走ってくるのが見えた。D組の松崎静佳が最後尾にいる。
「おっす」
まどかが手を上げると、しいちゃんも手を上げた。
「探偵の方はどう。何かあった?」
「えっ、まぁ、ボツボツってとこよ……」
「そぅ、あとで家に電話する。じゃねーっ!」
足にテーピングをしていたしいちゃんが、確かな足取りでランニングしながら校内に入って行った。なんだか、まるであたしが探偵として、すっかりキャストが定着してしまったみたいだ。まどかが振り返ってみたら、祐介も静佳の走り去るのを見届けていた。
そうか。こいつがいるせいか。
「吉見君、また部活をさぼったでしょ」
「気にしないの。まだ試合はないんだし」
これじゃ、祐介って男はいつ退部になってもおかしくない。それでも部活を続けていられるとは、とても信じられないが、ぜひ、そこまで寛容な顧問の顔が見たいもんだ。
「あんがい、明日ランニングで絞られたりしてね」
「明日は雨だってさ。ところで……」
祐介が声を潜めて言った。
「松崎が小口だという可能性はないか?」
「吉見君。今、何て言ったの?」
顔から血の気が退いていくのが、まどかにははっきりわかった。
まどかは紅茶が好きだ。
紅茶が美味しいハンバーガーショップがあるので、この駅前が好きだ。駅を降りて歩いて行くB高への道も好きだ。だけど、こんなに動揺して「ブラウニー」の紅茶を飲むなんて。こんな日は今までなかった。できるだけ誰にも話を聞かれまいと、まどかは目立たないように、二階の端のテーブルを選んで座った。
静佳――しいちゃんが小口だというのなら、彼女はいま救助を求めていることになるのだ。店内に流れる耳新しいオールディズの曲も、まどかにとっては、右から左に頭の中をニュートリノのように素通りしてしまう。食べる気なんか、なおさら起こらない。それなのに祐介ときたら、一〇〇円オフのクーポンがあるのをいいことに、レタスバーガーを頬張りながら話を始めている。
「それでさぁ、話の続きだけど……」
「吉見君、よく食べる気になれるよね」
「勘弁してくれよ。腹減って、もうペコペコなんだからさ」
「そんなにお腹が減るってのが、とても信じられない。部活もさぼっているくせに」
祐介がいきなり咽せた。セルフの水を飲み干して、どうにか破綻せずにはすんだ。
「ゴホッ……松崎のことなんだけどさ」
「落ち着いて話してよ。他のお客さんが注目しちゃうじゃない」
すでに何人かのお客さんが振り返って、こちらを見ている。しばらく黙っていたら興味をなくしたのか、それぞれ元の話に戻ったり、読書の続きに集中し始めたようだ。オレンジ色のいすをテーブルに引き寄せて、祐介が小声で話を再開した。
「ごめん。オレが気になったのは、テーピングだ」
「しいちゃんのテーピングのこと?」
「それから、ランニングの時に行橋に言った言葉」
「しいちゃんが何か変なこと言った? 全然覚えがないけど」
「何のために短冊を書いたんだろうって、考えてみたことがあるか?」
「それは誰かに助けを求めて、ということで間違っていないと思う」
「では、誰に向かっての訴えなんだろう? あんなふうに図書館の前、それも七夕を狙った笹飾りの先端という、非常に目につく場所に吊り下げた意味は何だろう。普通に考えれば、不特定多数の生徒か、または先生に対して訴えたかったんだ、と思えるよな」
「その通りだと思うけどね」
「でも六時間目の後で、その考えは怪しくなってきた。なぜなら、第二の短冊が吊られていたからだ。名前が書いてあったからだよ」
「正体不明の〈小口梓〉って誰なんだろうね、一体? 二年A組の生徒でないことは、あたしたちのクラスなんだから自明のことだし、今の先輩でも、過去の卒業生でもなかった。他の高校の生徒だというのなら、もうお手上げよね。調査不能だわ」
「その線は一旦置いて、なぜ名前が書いてあったのかを考えようよ。昼休みに行橋は短冊を見つけた。それをオレがはたき落として、書いてあった〈たすけて〉を読んだ。そのとき、誰か他に〈たすけて〉に気がついた生徒は?」
「いないと思うわ。もしいたとしてもごく少数なはず。あのときは……そんなに廊下に生徒は歩いていなかった、っていう気がする」
「短冊を落としたから初めて読むことができた。ということはぶら下がっている状態の時には、誰も読めなかっただろう。そうだとしたら、異様な文面に気がついたのはオレたち二人だけなんだ」
「すると……」
「〈たすけて〉〈二年A組小口梓〉と、文面は続いているように見える。もし、〈たすけて〉を知っているのがオレたちだけだとしたら、それを承知で第二の短冊をぶら下げたのだ、ということにならないか?」
「と、いうことは……」
スチロールのドリンクカップを持ったまどかの指に、思わず力が入る。まだ熱い紅茶の湯気が、ほとんど層流に近い静けさで香りを立ち昇らせている。一瞬、BGMが途切れた。
「短冊は不特定多数に向けて訴えたものじゃなかったんだ。最初からオレたちに向かって発信された通信なんだよ」
なぜ? どうしてあたしたち?
「そう考えると、さっきの松崎の言葉って意味深だと思わないか?」
「しいちゃんが? あのとき何て言ったかなぁ」
そうだ。思い出した。
〈探偵の方はどう。何かあった?〉
〈そぅ、あとで家に電話する。じゃねーっ!〉
「松崎は、どうしていきなり〈探偵〉なんて言葉を持ち出したんだろう。それに、あとで行橋に電話したいことがあるって言うんだろ。それにあのテーピング。オレには何かケガの跡を隠しているように見えたんだ。だから」
ストーリーが読めてきた。つまり、しいちゃんが何かの危害を加えられたのではないか、だからあたしたちに相談しようとしたのではないかと。だけどそれは違う。まどかには確信があった。
「せっかくの推理だけど、それは当たっていないよ」
「え?」
「しいちゃんはケガなんかしていない。午前中に出逢ったとき、あたしの前でテーピングしてる途中だった。ケガの跡なんか全然なかった」
「それじゃ〈探偵〉の件はどうなんだろう」
「あんた、自分の存在に気がついてる?」
灯台元暗し。祐介はまるで、自分が世界の外から成り行きを見ているかのように思っていたらしい。けどそんなはずはない。しいちゃんが探偵がどうのとか、呼びかけをしたのは、まどかと祐介が二人で歩いていたからだ。少なくとも彼女は、これまでのまどかと祐介の〈探偵〉としての行動を知っている数少ない生徒のひとりだからだ。
「先月のカンニング事件のことも、しいちゃんは心配してくれたんだ。話を持ち出すのは当然だったと思う」
「そうか……」
祐介はやっと見落としに気がついたようだった。もちろん祐介本人だからこそ見落とすという種類の見落とし。
「とにかく、オレたちが読んだことがわかったから、だから第二の短冊が出現したということになる。だとしたら〈小口梓〉の正体は、オレたちの極めて近いところにいる人間だということになるだろう」
すると、名前の書かれた短冊の中身をすでに知ってしまったのだから、次の第三の短冊が現れてもおかしくないことになるのか。
「ところで、松崎の相談って何なんだ?」
「相談とは決まっていないでしょ。〈家に電話する〉って言っただけ」
「何で?」
そんなことはわからない。でもそうだとしたら、早く家に帰らなければいけない。
「あたし悪いけど先に帰る。しいちゃんの電話を待ってなきゃ」
「え? ちょっと待てよ行橋」
しかしまどかは、いつのまにか空っぽになったカップをゴミ箱に入れ、トレーを片づけて出ていった。らせん階段を降りる音があとに残った。
結局、夜になってから静花からかかってきた電話は、別に何でもない話だった。短冊にかかわる話はついに静花からは出てこなかった。とはいえ一時間はいろいろ話し込んだだろう。そしてやっとわかったのは、長電話になりそうだから、携帯からはかけたくなかった、という単純な理由だけだった。
六月も終わろうとしていた。
次の日はただ蒸し暑いだけで、雨も降ってこない鬱陶しい空模様だった。まどかは登校するとすぐに、図書館の前を通って短冊を点検することにした。
もちろん表向きは図書委員長として、七夕イベントとしての図書リクエストが、どの程度集まっているかを把握するのが目的だが、心の中ではまったく別のことを心配していた。
笹飾りは?
昨日のうちに少しはリクエストも増えたのか、相変わらずにぎやかな彩りの、七夕らしい華やかさが見ていて好ましい。
星は空から見ているから、真相を知っているだろう。しかし届かぬ地表から、ほうきで星を落とそうとしているような、大勢のひとりにすぎないあたしに、一体何がわかるというのだろう。
天井の近く、先端には何もなかった。このまま待っていても何も起こらないだろう。
まどかはとりあえず教室に引っ込むことにした。
「おはよ!」
みんなが元気であいさつを交わす。だがあるいはこの中に〈小口梓〉が? 「犯人」を捜しているのではない。相手は救援を求めているのだ。それだけに焦る。
予鈴が鳴る。それでもいくつか埋まらない席がある。本鈴が鳴って一時間目が始まる。あいつめ、まだ来ないのか。暑いので全開にしてある教室うしろのドアから、そっと祐介が入ってきた。同時に、西澤先生が出席を取るために名前を呼び上げた。
「吉見」
「はいっ」
「今、どこから返事した?」
「すみません。セーフにしてください。ほら、あれ」
廊下から、他の教室で遅刻した生徒の足音と、「すみませーん」と大声で言っているのが聞こえてきた。
「まぁいいだろう。しかし三回目はアウトにするぞ」
「へ? 先生、一回目ってありました?」
「昨日のことをもう忘れたのか。これじゃテストが心配だな」
最初から教室中が爆笑だ。まだ残っていた眠気もどこかへ吹っ飛んでいった。数学はなごやかに始まったものの、まどかには裏で事態が緊迫しているような気がしてならなかった。
そしてついに。
3時間目が終わり、体育の授業が終わったまどかが、図書館の前を通ったそのとき。廊下の天井、笹の先端には新しい短冊があった。
どうしよう。まどかは着替えも後回しにして、ほうきを探しに走った。そして、ジャンプ。さっきの授業のように跳び上がれば、かろうじて届くはず。もう少し。
バシッ、と音がして、赤い短冊が落ちた。ひらひらと廊下に舞う短冊を掴んで、読んだ。
「本日、屋上で」
これはどういう意味? 何があるというのだろう。
屋上に果たして何かあるのか。
デパートの屋上なら、ガーデンショップとか、小さな小さな遊園地が定番だ。大人なら夏のビヤガーデンを第一に連想するかもしれない。空に向かって開放された都会のオアシス、あるいは空中庭園。ところが、まどかの学校の屋上ときたら、給水塔やエアコンの室外機だけしかない。あいにくと天文ドームすらないのである。
実をいうと、まどかは屋上に上がったことすらない。何もない場所に生徒が上がる必要はないので常に閉鎖されている。校庭から見える無骨な機械以外に何があるのか、ほぼすべての生徒にとっては謎に包まれた場所。いや、そもそも普段の意識にさえ上らない。
そんな屋上で、今日何が起こるというのだろう。
「たすけて」「二年A組 小口梓」「本日、屋上で」
この三枚の断片を結びつけられる要素は何か。それさえわかれば謎は解決する。連想できるのはどうしても不吉なイメージでしかないのだが。
屋上からの墜落? まさか。そんなことは考えたくもない。
だが、それ以外に思いつくものがない。小口梓は絶望している自分を救ってくれと言っているのか、それとも危害を加えられる恐れがあるということなのか、それすらもまだ判然としないのだ。あたしに何ができるのだろう。まどかは迷った。わからなくなった。
四時間目のチャイムが聞こえてきた。「本日」という言葉を信じるとしたら、それはこの時間帯なのかもしれない。あるいはもう手遅れなんだろうか? まどかは遅刻を覚悟した。七夕飾りを後にして校舎から走り出た。あんなに鬱陶しかった雲が切れ。隙間から初夏の太陽が、まるで空のカーテンの光条のように、グランドをまぶしく照らしている。地上にはまだ何もない。屋上は? おそらくコンクリートの陸屋根になっている(であろう)屋上自体は見ることはできない。何の声も聞こえない。音がすべて空に抜けてしまったかのようだ。少なくとも誰かが屋上に上がっているような気配はない。
待てよ?「屋上」とは、この校舎のことなのか?
B高には倉庫やクラブボックスなどを除いて校舎が四棟ある。倒したドラム缶を切ったかのような体育館に屋上はない。これを除外すると、残るは三棟。そのうちのどれか。決め手はない。短冊に他に何も書かれていないからだ。ということは、逆に校舎といえばここを指す、そんな建物を示しているようにも思える。つまり学校で最も大きな建物、本館。
二年A組もここに入っている。ほとんど牽強付会にすぎないが、小口梓のクラスがここにある(と言えるのだろうか?)ことを根拠にできないか。いま可能なことは、本館屋上で何が起こるかを見守ることではないだろうか。よし。
まどかは着替えに戻ることにした。誰もいなくなった更衣室でウェアを脱いでいる時間さえ、とんでもなく長く思えた。汗のせいかもしれない。自分がラストだからかもしれない。着替えが終わって、急いでグランドに戻っても、見渡す限り、まだ変化はなかった。
図書館の前には、もう笹の葉の一枚も落ちてはいなかった。七夕飾りへのリクエストはどんどん賑やかになっていくが、〈小口梓〉からの新しいメッセージはなかった。ずいぶんとためらったが、まどかは教室に戻ることにした。ひとり分だけの階段の足音が、止せばいいのによく反響する。二年A組が階段から最短距離なのは、こんなときには憾みでしかない。ドアを開けると遅刻者への一斉目線が痛い。ざっと見て、祐介だけは好奇の目で見ていなかったのが救いだ。
「すみませーん」
着席して最初に野口先生から「ちょうどよかった。改めて次のページの最初を、行橋さんに訳してもらいましょう。順番ですよ」と、とんでもないことを言われた。
そんなぁ……。いきなり英作文に当たるなんて運が悪すぎ。叱られる方がましだったかも。
黒板に向かったものの、まどかの神経は室内からはるかに遠いところにアンテナを張っていた。全神経を集中して、何か物音や話し声が聞こえないか耳を澄ませた。おかげで関係代名詞を忘れた。席に戻ったまどかの訳に野口先生が添削を入れているとき、異変に気づいた。
(ナルミちゃんがいない?)
斜め二つ前の桜井成美の席が空いている。さっき走り高跳びをした体育の時間、まどかが顔を見ているし、声もかけた。早退なのか?
心の中で疑問符を打ったのと同時に、うしろのドアが開く音がした。
「すみません……」
桜井が入ってきた。野口先生から、遅刻への一通りの注意を受けたあと、まどかの右側を通って席についた。なぜかスカートのうしろに白い砂汚れがあった。グランドで転んだか、それとも校舎の壁で擦られたかのようだと、まどかには見えた。首を乗り出してみても、まどかの席からは桜井の顔はよくわからない。でも、わずかに頬の上部が紅潮して、わずかに光っているように見えた。ふだんにも増して背中を丸めているような気がした。
まさか。彼女?
桜井は決して強くない生徒だとまどかは思う。小柄で目立たない桜井が、たとえば何らかの攻撃の対象にされることは、十分考えられるのではないだろうか。ノートの英訳にピリオドを打った鉛筆の先を見つめながら、まどかは彼女から目を離さないでおこうと決めた。パイプ机を三回叩く音が、不自然ぎりぎりの感触で聞こえてきた。まどかと一瞬目が合った祐介が、何か言いたそうな表情をしていた。まどかは曖昧に一回うなずいた。
長く落ち着かない時間がチャイムとともに終わった。昼休みに突入した。
まどかは真っ先にパンを買いに走った。だが一階の購買部から駆け足で教室に帰ってくると、桜井の姿がなかった。机の上に、なぜか「シャーロック・ホームズの冒険」が置かれていた。
(いない……)
しまった。まどかは紙袋を抱えたまま廊下へ出た。いつも施錠されている屋上への扉のノブを回した。開かない。
これはどっちを意味するのだろう。屋上に誰かいるのか、それともいないのか。だがこうなったら、行けるところはひとつだ。その足でグランドへと走り降りた。二階の踊り場まで降りたところで、祐介が呼ぶ声が聞こえてきた。
「どうしたんだよ!」
「いっしょに来て。お願い!」
グランドにはまだ誰もいなかった。
昼休みが始まって間もない時間。昼の放送が始まって、校舎内のスピーカから聞き覚えのあるJ-POPが、まどかのうろたえを無視するかのように流れてきた。
「一体、何だというんだよ?」
真上からの太陽を大げさにまぶしがった祐介に、まどかは第三の短冊を見せた。祐介の顔色が変わった。
「これは……」
「いよいよ危険が迫ってきたんだって、そう思ったのよ」
「一体いつなんだ? たとえ今日だということは確かでも」
「わからない。だけど放っておけない」
バタン。
ふいに重い音が聞こえた。どこから? 何の音? いや、間違えるはずはない。今まで聞いたことはないが、これは屋上の扉が閉じた音ではないのか。まもなく四階の屋上から話し声が聞こえてきた。鍵がかかっていたはずではなかったか。
「ね、どうしよう?」
「オレ、先生を呼んでくる!」
「どうしてよ。屋上へ行かないの!?」
まどかの言葉を無視して、祐介は本館に戻って廊下を走っていった。
まだ何が起こるのかわからない。まどかが思っているのは最悪の事態だが、それはまだ想像でしかない。屋上への不審な侵入だという理由で、先生を呼ぶのが賢明な選択なのだろうか。
しばらく時間が経過した。話し声は少しずつ大きくなってきたようだ。何を言っているかわからないが、その中に明らかな罵声が混じっていた。
「……んだってぇ!」
男の声のあとに、屋上の手摺りに人影が現れた。顔は見えないが、突き飛ばされたかのように背中が手摺に当たって、女子生徒の後ろ向きの姿が見えた。
危ない。落ちるうっ!
まどかは顔を覆いそうになった。いつ本当に落ちるかわからない。どうする?
すがるものを探すように周囲を見た。南の理科棟の前に、三時間目に使った水色の体育用品が目に留まった。あれだ! まどかは無我夢中で駆け寄ると、布の取っ手を持って、その巨大な分厚い塊を引きずった。重い。だがそれだけではない。地面との摩擦抵抗で、なかなか動かない。
あぁ、どうしてこんなときに、周りに誰もいないのだろう。祐介っ、なぜここにいないのよ!
まだあと十数メートルもある。間に合うのか。
祐介が本館から出てきた。
「あれです!」祐介が屋上を示すと、何人かの先生が屋上へと階段を駆け上がって行った。
まどかは高跳びの着地マットを引きずりながら叫んだ。
「お願い、こっちにも来て!」
祐介と、事態に気づいた西澤先生、野口先生が駆け寄った。四人で改めて持ち上げて、ようやくマットは校舎の下に来た。屋上での騒ぎが激しくなってきた。女子生徒が身体を揺すぶられていた。ガーン、という扉の音がした。
「お前たち。何をしている!」
それとわかる、大きな怒鳴り声のあと、間を置かずに悲鳴が聞こえた。
「△□××……ゃーッ!!」
「わぁっ!!」
上空でバランスを失った身体が、手摺を越えた。
まどかが見たのは、青空から落ちてくる白いブラウス。空気抵抗で乱れなびく髪。
途切れる悲鳴。そうだ、マットを持ち上げないと! いくら何でも四階の屋上からでは、たとえマットで受け止めてもダメージが大きすぎる。死んじゃうよぉ!
とは考えなかった。全くの反射で取っ手を上げた。四人が一斉に反応して動いたのと、夏服の身体が水色のマットに着くのが同時だった。
衝撃を肩に喰らった。落ちた身体の足がまどかを直撃して、まどかの顔がマットに押しつけられ、思わず取っ手から手が離れた。マットは重力加速度のついた人間ひとりの身体の重さで、わずかに遅れながら地面に落ち、その衝撃で祐介と西澤先生が前のめりに倒れた。夏服の白い身体がマットの上で跳ね返って、グランドの地面に投げ出された。
だっ……大丈……ぶじゃない。激痛! それでもまどかは起きあがって、落ちてきた生徒に駆け寄った。えっ! それは桜井ではなかった。
とても自分の見ている人物と、その光景が信じられなかった。
「キリコ! どうして!? どうしてあんたなのよ……」
唇を切って気を失っている桐原裕美に向かって、まどかは必死で呼びかけていた。
莫迦だ。大莫迦だ。けなしているのではなく、その真逆。
友達を助けるために自分を犠牲にするなんて、あたしならできない。
そして決して褒められたことではないんだ、とも思う。そこに生まれてしまった悪自体が消えてしまうわけではないから。そして誰かが結局はひどい目に遭わなければならないなんて、間違っているよ。そんなの正義じゃない。
キリコが軽傷で済んだのは偶然だった。もしあのとき四人の人間が間に合わなかったら?
マットの位置が悪くて、受け止められなかったら? それ以前に、高跳びマットがグランドに置きっぱなしになっていなかったとしたら? この条件がひとつでも欠ければ、今ごろ、桐原裕美はこの世の人ではなくなっていたはずだ。偶然は恐ろしすぎる。
あのあとすぐ、屋上にいた二人の生徒、男女それぞれは警察に連れて行かれた。どのような処分がなされるのか、それはまだこれからのことだ。念のため救急車で運ばれて行ったキリコは、気がつくと、すぐにあたしに会いたがった。あたしに、どうしても話をしたいから、というので、放課後、病院を訪ねて事情を聞くことができたのだ。
発端は、二人が桜井を威かして金品を巻き上げようとしたことに始まる。このような場合、たいていは要求がエスカレートしていくし、カモにされた生徒はわざと非行をさせられ、弱みを握られて誰にも言えなくなる。お決まりのパターンだ。
桜井への強要の件を偶然聞いて、怒ったキリコは、自分が代わりになろうと考えたのだった。
もちろん、短冊はキリコが書いたのだ。
今朝、桜井を屋上に呼び出そうとしていることを知ったキリコは、桜井を昼に早退させ、代わりに自分が屋上へ行った。例の二人はキリコを裏切り者と決めつけ、暴力がエスカレートし、 そして……
でも、キリコ。危ないことはやめて。自分を危険に曝しても、誰も喜ばないよ。
水色の空から水色の空のようなマットに向かって、太陽を逆光にダイビングしたあの二秒間を、あたしは思い出したくない。一緒に図書委員として仕事をした仲間を失うことは、あたしには耐えられない。
七月七日。七夕の夜がやってきた。
この日ばかりは、駅前の商店街にも夜店が出て、七夕セールを繰り広げる。
アーケードには華やかな飾りがあふれ、オルゴールの曲が流れていた。昨日まで続いていた雨が去って、幸いにも晴れた今夜は、いやが上にも二つの星を愛でようという気分に盛り上げている。本格的な夏はまだこれからだが、すっかり街中が夏祭りに包まれている雰囲気だ。
祐介は着慣れない浴衣姿で七夕気分に浸っていた。のどが渇くので、ハンバーガーショップ特製のトロピカルジュースを飲みながらの待ち合わせである。
「遅いですね」
「七時。だからもう来るはずだよ」
そこへ浴衣を着て、まどかが姿を見せたが、祐介の隣に見たことのない浴衣の女の子が立っているのに気がついた。誰、なのよ、この人。
まどかの頭の後ろに、怒りの漫符が現れた。
「お待たせ」とりあえず言ってみる。
「お、行橋も来たか」
「吉見君、この人は?」
「あぁ、それは桐原さんが来たら教えるよ」
「キリコも呼んだの?」
何なのだろう、この人選は。祐介のやろうとしていることが読めない。
「待ったぁ?」
まもなく、桐原裕美が現れた。途端に、祐介の傍らの女の子を見て喚声をあげた。
「えーっ! まさかぁ。あっちゃん?」
「キリコ! あたしも会いたかったんだよぉ」
二人が思わず懐かしそうに抱き合ったのを見て、まどかは、祐介の脇をつつく。
「ちょっと、これって何なのよ?」
「桐原さんに教えてもらった方がいいな」
祐介の声が聞こえたのか、裕美がもうひとりの人物を紹介した。
「この人が小口梓さんなのよ」
それはどういうことだ!
短冊に名乗っていた人物は実在していたのか。小口と名乗った女の子が、キリコと行ってしまったあと、まどかはおもむろに話を切り出す。
「吉見君。説明してくれる?」
「うん、これは説明しないとなぁ。まずオレの失敗は、短冊を調べるのに、自分の学校だけで努力を放棄してしまったことだな。他の学校の生徒にまで範囲を広げることは無理だとあきらめた。だけど、ここに見落としがあったんだ。短冊には〈二年A組〉とだけあったんだ」
「うん」
「高校二年とは限らない」
……!
「これが中学二年だとしたらどうなる? B高の生徒全員だって、かつては中学二年だった、とも言えるだろうな」
「でも〈小口梓〉って名前は、B高にはなかった」
「そのかわりに小口梓を知っている生徒がB高にいたわけだ。桐原さんが救急車で運ばれたあとで、桐原と同じ中学だったやつに聞いたら、小口という女子がいたことを覚えていた」
それだけのことだったのか。
「桐原を落としたやつが中学のときに、小口をいじめの被害者にしていたそうだ」
「それじゃ、キリコは……」
驚いたことに、キリコは中学時代はあの二人の仲間で、加害者でもあった。加害と被害の構図が簡単に入れ替わってしまうのを見た彼女は、もし立場が逆転したら、ということに気がつき、もうやめようと誓ったのだった。
「桐原は、こっそり小口を守る側になったんだ。今回、小口の名前を使ったのにも理由があった。第一には、偽名を使わないと桐原自身にも危害の手が伸びるかもしれない。そして二番目は、桜井を脅している仲間に、昔と同じことをするなという警告」
「だけど、この学校にも小口さんを知っている生徒がいるんだし、学校にいない名前ではおかしいと思われない?」
「最初の〈たすけて〉の短冊は、オレたちが落としたから、他の生徒はまず読んでいない。だから次の名前の短冊と結びつける者もいない。そのあとに吊された二番目の短冊が、仮に誰かに見られたとしても、それが警告として機能するのは例の二人だけなんだ。全校的に考えても、二年A組にそんな生徒がいるかいないかは、生徒全員が知っているわけではないから、変に思う人間は少ないだろうね。それに小口の名が書かれた短冊はすぐにオレたちで回収してしまった」
「なるほどそうなんだ」
「でも、もっと早く気がつくべきだったんだよ。桐原が友人の名を使っていたことに」
「えっ、そうなの?」
「放課後に持ってきた笹に、道具を使わないと届かない高さで短冊が下げられた。ということは、そんな道具の用意ができるのは、前の日に笹のことを知っていた人間ではないだろうか」
あっ。
「わかった? 真っ先に考えに入れるべき人物は、行橋自身と桐原なんだよ」
「小口さんって、B高の生徒にはならなかったのね」
「なれなかった。彼女は中三のときにアメリカに行ったから」
「アメリカ!」
「現地で進学をしたそうだよ。こっそり助けてくれた桐原とは、その後も手紙やメールのやりとりをしていたんだ。連絡先を他の生徒から聞いて、今夜のサプライズにした、というわけだ」
「それじゃ、小口さんはもう日本にいられるわけ?」
「そうはいかない。だけど一年に一度は帰国できるそうなんだ。今回のことを連絡したら、日本での日程を合わせてもらうことができた」
それって、まるで。そう、七夕みたいだ。
「それにしても、桐原はどうして、短冊なんてまだるっこい手段を使ったんだろうね。メールで連絡をとれば、もっと簡単にできたはずなのに」
「それは……あたしがケータイを持っていないせいだ!」
だから、しいちゃんだってあたしの家に電話をかけてくる。メールを何とかしようよ、とは言われてはいるのだけど。
だからキリコは、ないしょの連絡をするために、あんな手段を思いついたんだ。それにきっと、春からのあたしたちの探偵活動を知ってあんなSOSを。
「桐原ってそういうのが好きみたいだね。桜井との連絡だって、本にメモをはさんだんだってさ。『シャーロック・ホームズの冒険』を使ってね。……「赤毛連盟」って知ってる?」
「知ってるよ。トリックは……」
そこまで言ったあたしは絶句した。キリコはそれを自分自身を使ってやったんだと気がついたのだ。キリコがそこまで友達を思ってくれた人なんだと気がついて、あたしはとても放っておけなくなった。あたしを信頼してくれたから、七夕という手段に賭けたのだ。
「行橋は知ってる? 今日は七夕だけど、実はコナン・ドイルの命日でもあるんだ。きっと織姫や牽牛といっしょに、空から見てるんじゃないかなぁ」
「吉見君。あたしキリコのところに行く」
「へ?」
「小口さんはアメリカに帰ってしまう。だからあたしがこれからキリコを守る。それにあたし、小口さんとも友達になろうって思うの。じゃぁお先に」
書店の角に、ぽつんと残された祐介は、まどかの行ってしまった方を見つめていた。
「ダブルフォールト!」
いつのまにか、側に松崎静佳が来ていた。
「おもしろい話だったよね。こんなことって本当にあるんだぁ」
「松崎、聞いていたのか?」
「もちろんよ。それじゃまたね。吉見君!」
静佳も三人に合流しようと、急ぎ足で駆けて行ってしまった。
ダブルフォールト? サーブの失敗?
待てよ。一回目ってのが、あったのか?
祐介は手に持った、ハンバーガーショップの紙コップを見て思い出した。
そうか。レタスバーガーのときか……。
コップの氷がほとんど溶けてしまっていた。
「せめて、ジュースに持ち込みたいもんだなぁ!」
祐介はすっかり甘さの薄まった、トロピカルジュースを飲んで空を見た。
コナン・ドイルが空から笑って見ているような気がした。
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