精神分裂病と診断されてからの私

坊や利

第1話 初めて精神分裂症という言葉を知った保健講義の試験

それは、大学3年目の保健講義の後期試験の問題を目にした時の事だった。私は、その年一回も保健講義の授業に主席していなかったが、問題の「精神分裂病につい述べよ」という文字をを目にした時、その文面、そのセンテンスを見たとき、自分の事を書けば問題の答えになるのかと思った。私は、用紙を書き終えるまでペンが止まる事はなかった。しらふなのに、泥酔状態、記憶もままならない。空気が嵐のように流れて見える。耳鳴り、誰かの声が聞こえる、幻聴、私を周りの人が笑って見える。狙われているなどと書いた覚えがある。結果、評定はBであったが、単位が1単位足りなかったため留年となぅた。通っていたバイト先も女性問題により、辞めなければならなかった。留年し、奨学金もストップ。全く収入が無くなった。

さかのぼること、そういう状態になる経緯は、中学時代の自分にあったと思う。小学生の時はクラスの人気者で、誰からも好かれていた。中学に進学してから、他の学区が混じり、私に対する見方が変わっていった。私は、背が低く痩せていて、それにてんかん持ちなので、格好のいじめの対象になった。靴を盗まれたり、合唱コンクールで一人ワイシャツ姿で歌わせられたり、沢山の暴力的な目にあった。成績も入った当初は、地区で一番の進学校に入れる成績だったが、いじめの苦痛により370人中170番まで成績が落ちたこともあった。いじめにあっても、小学生時代の友は誰も助けてくれなかった。むしろ笑ってさげすんでいた。人間不信に陥った。3年に入り部活も終わり、受験勉強の時期に入ったら少しずついじめが終わり、勉強に集中出来た。しかしいじめにより勉強をあまりしていなかったので、遅れを取り戻すのに難儀した。内申書が悪いため、地区で2番目の高校をめざした。内申書が重視された時代である。夜中3時まで勉強し、目指した高校に合格した。良い高校生活が送れればともの凄く期待した。だがそこからが私にとっての悲劇の始まりだった。入学して坊主だった髪型を少し伸ばした。床屋のカットなのであまりかっこよくはならなかった。出羽三山の羽黒山に遠足に行った時のこと。ある女性から私の後頭部がはげていると、みんなの前で言われた。今から考えると、中学時代の精神的苦痛が、円形脱毛症を引き起こしたのかもしれない。そんな気がした。毎日鏡で後頭部を見て隠そうと何回も髪を洗ってるうちに、ますますやつれていった。そればかりでない。その当時は、顔が黒いのがはやりで、自分の容姿に全然自身が持てなくなっていった。彼女なんてできないと思った。ワオかけて自分をダメにしていったのは、ストレスからタバコに走っていった事である。家で勉強をしてる合間に、タバコを一本吸ってみた。とても気持ち良かったが、今さっき勉強したことが思い出せない、記憶障害の始まりである。というより精神疾患への序章であろう。中学でいじめられた時より精神的にまいった。学校へ行けば、30代ではげるなどと言われ、男女共学なので、とても苦しかった。日に日にタバコの本数が増え、やせ細りとても就職など考える余裕がなかった。3年になって皆就職活動をしてる中、どこでもいいから県外に逃げたい気持ちになった。進学を考えた。将来どう生きたいか、人生設計など考える余裕などまったく無かった。学力が無いので推薦入学を考えた。僕の成績でぎりぎり入れる、獨協大学法学部に入れた。小論文と面接だけで良かったので、担任の先生に相談した。先生は、私が髪で悩んでることをうすうす感づいていた。全国商業高校英語検定1級を合格しているので、快く推薦してくれた。そして私の文書能力を認めてくれていた。本当の恩師である。親父は、大学の入学金と、学費を貯めていてくれた。ただ酒田を逃げたいという不純な動機なのに今から考えれば、親父に懺悔である。大学に向かう前上京するという事で、床屋でパーマをかけた。そのできが余りよくなくて面白くなかった。何回も髪を洗ってセットを続けたが、いっこうに良くならない。埼玉の獨協大学に入学式まじか、アパートの近くの美容室でパーマを取ってもらった。だんだん髪はやせ細り、また床屋でパーマをかけたら、カボチャ頭みたいになった。晴れて入学式に向かうはずが、最悪の身なりになった。その時点で志など何もなかった。入学式当日、席に座ったが、周りの男性が皆かっこよく見えて、てんかん発作が起き、倒れてしまった。目が覚めると、保健室にいた。そこにいた教授は、私に出身はどこかと尋ねてきた。山形ですと答えると、「おしんで有名だね」といい「がんばらなければね」と私に声を掛けてくれた。新入生歓迎コンパなど主席する気持ちにならなかった。しかし単位を取らなければならないので、授業には、なるべく主席した。とてもきつかった。学食も恥ずかしく入れなかった。綺麗な女子大生が多く、とてもカボチャ頭の自分にはきつかった。とにかくこのカボチャ頭を直さなければということばかり考えた。

前期試験を何とか苦しい精神状態ながらも、終えることができ夏休みに帰郷した。

草加市のパチンコ屋で覚えたパチンコを、地元に来ても毎日羽根ものだが、夢中になってやっていた。一か月が過ぎ、髪も少し張りが出てきて、もう一回頑張ろうと再び上京した。草加のアパートは、なんか落ち着いた。英作1で知り合った4年生の山崎さんに電話をしバイトを紹介してもらった。そこは、南越谷店の流通団地にある化粧品の卸をしている大山という会社だった。面接も上手くいき、山崎さんとは別の部署ではあったが、働くことになった。髪はぼさぼさで、ファッションもダサかったので、働いてる人と中々コミュニケーションが上手くとれなかった。最初の給料をもらった時少しオシャレをしようと美容室に行き。タカキュウで服を買った。少し都会の人間になった気がした。山崎さんは、獨協大学の草野球チームベアーズに入っていたため、私が野球経験者ということもあって、入部することにした。そこで部長をしていた、これから何十年も付き合うことになる藤沢さんと出会った。藤沢さんも大山でバイトをしていたので、最初は近づきにくかったが、お母さんが秋田出身であることと、長渕剛が好きなことが気に入られ可愛がられた。

話は、一旦変わるが私の性癖である。雑誌に掲載されていたホテトルに、はまってしまった事である。相変わらず彼女などできない私は、セックスを経験したくてしょうがなかった。上野の近くの鶯谷のホテル街で、立ちんぼの女性と初体験をすませた。とても気持ちよく昇天に達した。オナニーしかしてこなかった為セックスに目覚めた。立ちんぼではなく、ホテトル嬢に何十万も使った。その時点で大学に入った意味など見失っていた。後で書くが勉強をして普通に就職をすれば、こんな貧乏な生活を送らなくてもすんだのにと、今を思えば後悔の念に落ちる。不特定多数の女性とセックスをし、性病など考えなかった。ただ自分の快楽、情けない。バイトの給料と奨学金の使い道は、パチンコ代、ホテトル代、美容室や服、食事代はほんのわずかだった。あとたばこ代、日に3箱は吸っていた。志のない大学生活。上手くいくはずない。世はバブル景気、バイトを辞めてもなんぼでもある時代。食事の大切さを知らなかった時代だ。

バイト先の大山も、段々いろんな人が入ってきて薄毛の髪をいじられ、居づらくなった。南越谷の駅までのバスも9時代で最終の為辞めて別のバイトを探すことにした。帝国警備という警備員のバイトであった。4日間研修を終え働くことになった。1日7千円という大山とより稼げた。そこで務めてる年配の人に「大学なんて行ったって何にもならないよ」と言われ気持ちが揺らんでいた。今考えると負け惜しみなのだろう。夜勤の為昼夜逆転の生活が始まった。寝れない、そんな日々が続いた。ある日千葉の叔父さんが、私のアパートにやってきて、警備員など誰でもできる仕事で、そこにはそこの考えがある仲間たちの負け惜しみな考えがあるといっていた。大学は交友関係を広げたりする為に入っている人もいると言っていた。大学を辞めるのも選択のうちに入れたほうがいいと言っていた。私は悩んだ。大学性格など面白くない。どうしたらいいんだろうと。

後期試験の結果2年に進級できた。それでも晴れない。ベアーズの仲間が集まっている学食の2階に行ってみると、私に対し「自分に自信がない」などと3年の人が皆のいる前で話した。私は全部見透かされているのを知りとてもショックであった。というより孤独感を味わった。もうベアーズには入れないと思った。ひとり草加のアパートでタバコばかり吸っていた。青白い顔をして再び学食に行ったら皆白い目で私を見、ずうっと酒浸りかなどと言われ、気持ちが割れた。死にたい気分であった。髪が普通ならもっと楽しい大学生活を送れたのにと思い、松原団地近くのクリニックに行ってみた。医師は髪は全然剥げてないよを言ってくれた。思い違いって怖い今だから思う。今は誰もがうらやむほふさふさなのに。眠剤を一週間分もらったが、朝起きると、ボーっとしてふらふらするので、クリニックに行くことを辞め、帰郷した。そこで親父と兄貴と母親がいる前で、「大学辞めたい」と言った。にこにこしていた親父は、顔色が黒ずんで下を向いていた。それはそうだろう。大学に入る入学金、学費を親父は汗水たらして働いて貯めたお金を私のために費やしてくれたのだから。母親も私を怒った。兄貴は、飲み屋に連れて行ってくれて、理由を聞き始めた、が私は言えなかった。全部大学に掛かった費用を払うと言ったが、警備員の給料で返せるわけない。答えが出ぬまま又上京した。千葉の叔父さんが経営している鉄工所で働くことになり、大学も辞めないで休学することにした。

卸業、警備員、鉄工所これが三つ目の社会での就労である。叔父さんの鉄工所の従業員は山形出身の人が多く、高校中退のいとこもいた。皆一人前で雑用が多かった。グラインダーで溶接のスパッタ取や、さび止めのペンキを塗ったりする仕事が主な役目であった。いとこの家に居候しやな感じであった。そこでも「大学なんて行ったって」が口癖であった。今から考えれば人に左右された青春時代だったかもしれない。ポリシーなど何もない。ただその日暮らし。馬鹿だの、頭が悪いだのいとこに何回も言われた。今は56歳だがその当時本当に自分は頭が悪いのかと自己嫌悪に陥った。

10月ぐらいになって、叔父さんに草加のアパートに戻り仕事を自分で探してみるといった。叔父さんは反対したがしばらく働いたことにより少し精神的にも、体力的にも自信がついたので、反対を押し切り草加に向かった。早速アルバイトニュースで仕事を探した。秋葉原の佐藤無線の倉庫日本運輸倉庫という会社に内定した。草加からだと結構通うのが大変だが、物づくりと違う品出しの仕事でかなり早い段階で覚えられた。基本給6千円だが残業代と交通費でいい金になった。楽しかった。たまに飲み会もあった。高校中退や、てんかん持ち、浪人生色んな人がいた。繁忙期には30万稼げた。丸井で20万のスーツを買ったりもちろんパチンコもした。ホテトル遊びも相変わらず。自分で稼いだお金全部自分で使えた。嬉しかった。フィリピンパブにも行った。結構はまった。そんなこんなで上京しての2年目は終わり改めて春を迎え大学生活は再び始まった。

履修登録を終え、2年には進級したが、一緒に入った連中は3年に上がり新しい2年生と一緒に勉強することになったわけだ。少し前とは違う精神状態でいられた。一年間仕事をしたわけだから、逆に子供に見えた。奨学金が再開し、バイトを探した。高収入を探し時給千円という仕事があった。パチンコ屋である。そこにいる従業員の一人が私の人生で大きく影響を及ぼすとはその時思わなかった。もとやくざなのである。それも副幹部だった人物。その人物は私を見て直ぐやめると思ってたらしい。ずうっとパチンコ屋の鏡で自分の姿ばかり見ていたからだろう。しかしながらだんだんと仕事を覚えていき、飲みに連れて行ってもらうまでの関係になった。スーパーで買い物をし、私のアパートで料理をし、二人でお酒を飲んだこともあった。一人でアパート暮らしを大したものだと言ってくれた

私は3年目の春、自分で授業に出て自分で単位を取ることを決めた。バイトと大学の勉強の両立をすることに決めた。誰にも頼らないで、ノートも借りないで3年に進級することを決めた。その為には生活の基盤であるお金を稼ぐバイトにも重点をおいた。クラスの隣に可愛い関根美智子さんという女子大生がいた。でも付き合ってくれなどと言えなかった。性の解消はホテトルですました。バイトは月に14万くらいなり、奨学金と合わせると20万ぐらいになった。パチンコ屋のバイトもまた、元やくざの人が辞めたせいもあって、自分も見方がいなくなった事もあり辞めた。それは夏休みに入るころだったので、一日働けるバイトを探した。主にパチンコ屋のバイトを探した。どの店も長く続かず、気が付いてみれば東武伊勢崎線界隈のパチンコ屋を転々としていた。その日暮らし、後先のことなど考える余裕がなかった。田舎に帰ろうとも思わず、千葉に行こうとも思わなかった。

大学も後期に入り、何とか食いつないだ。何で食いつないだのだろう。あまり記憶が定かではない。奨学金やパチンコかな。髪がやつれていき、体重も50キロをきりそうまでになっていた。現在75キロ、あったときに今では考えられない。講義にも出たり出なかったり。なんやかんやで後期試験を向かえた。単位けさんをして大丈夫だと思い冬休みを迎えた。

試験には確信があり休みになってアルバイトを探した。辰巳グループという都内に3店舗ある新しい形態の遊技場である。今の様な礼儀を重んじるパチンコ屋である。大概やくざが経営しているのが当時の現状だが、そこは経営者がかたぎの企業家で新しいタイプのパチンコ屋であった。私は、そこに申し込んでみた。経験者の為採用になった。竹ノ塚が本店であったが、一番ガラの悪い客層の綾瀬店に回された。スロットの台を蹴とばす客や、やくざのコッパ達が来る質の悪い客が多い店であった。でも何故だろう、何かあったときに元ヤクザの関根さんが助けてくれると思い、負けん気を出して一生懸命働いた。マネージャーから佐藤君の来る日は女性客が多いと褒められた。こんな充実感味わったことない、そう思った。そんな中新しい女性の従業員が入ってきて、サービスカウンターをしていたが、私が一旦酒田に返る事になり、その前におしぼりの洗濯をしていた彼女に「帰ってきたら食事しませんか」と思いっきり言ったら、「はい」と返事をくれた。幸せだった。帰郷しまだ付き合ってもいないのに、お袋に彼女ができたと告げた。お袋は何も言わなかった。そんなことより勉強に専念してほしかったのだろう。親父にはゲームセンター働いていると嘘をついた。再び上京し店に行ってみると、なんやら雰囲気がおかしい。彼女には旦那がいたのだ。竹ノ塚の本店で部長と話し合い辞めることになった。又食い扶ちが無くなった。

休みが終わり掲示板を見てみると✖のマークが記されていた。落第である。中央棟の事務所に行き、試験の結果1単位足りなかったみたいだった。語学は全部パスしたのに残念と言っていたが、よく頑張ったと褒めてくれた。奨学金又ストップである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

精神分裂病と診断されてからの私 坊や利 @819028808631

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ