九生のお願い

ウゾガムゾル

九世に一度

その男は無口かつ暗い性格であり、オフィスでも浮いた存在だった。さらに彼はそのことを自覚しており、それが彼の暗さに拍車をかけていた。彼は自分ではだれにも話しかけないし、話かけないでほしいというオーラを周囲に放出していた。これで仕事ができるかというと、まったくそうではなかった。電話が苦手なのが致命的だったのだ。


そんな彼にも恋愛という感情はあった。彼と違い、いい意味での存在感を放っていた女性がいた。きさくで明るく、誰に対しても分け隔てなく接する彼女。そんな彼女に、彼は片思いをしていたのだ。きっかけは、彼が落とした大量の書類を、彼女が拾ったことだった。そのうえ、気にしなくていいよ、などと優しい言葉をかけた。誰からも避けられる彼にとって、好きになるにはそれで充分だった。


彼は能力もやる気もなかったが、思い切りだけはよかった。ほとんど話したこともないのに、彼女に告白したのだ。大して暇でもない昼休みという時間に彼女を呼びつけ、給湯室で思いを告げた。もちろん振られた。しかも、「同僚として尊敬している」といった気を遣った言葉をかけられた。彼は落胆した。だが、会社に行けば彼女には会えるのだと、それだけで構わないと自分を納得させていた。


だがそんな日々も長くは続かなかった。会社をクビになってしまったのだ。彼の仕事ぶりからすれば必然と言ってもよかった。彼はこれに非常にショックを受けた。しばらくは食べ物も喉を通らなかった。自分が社会から必要とされていないという感覚に襲われた。そしてそれ以上に、あの女性にもう二度と会えないのだという事実を何よりも苦痛に感じた。しばらく悶々とした日々が続いた。


彼はついに悪魔に魂を売った。どんな手を使ってでも彼女に会うのだと。実はまだ働いているときに彼女の住所を調べてあった。と言っても、おおざっぱではあったが。調べた方法も、彼女が書類を書いているのを覗き見ただけだった。怪しまれるのを恐れ、最後までは見ることができなかったが、それで十分だった。彼女が言っていたわずかな情報を頼りに調べていくことで、最寄り駅まで特定することができた。


しかし、その先がどうしても絞れなかった。そこで彼は、実際に現地に赴いて調べることにした。やり方は簡単。最寄り駅で彼女を待ち、尾行するのである。彼女がいつもいつ帰るのかはわかっている。彼女は割と早い時間に帰るのだ。あとは電車の時間を調べれば彼女がいつ駅から出てくるか大体検討がつく。そして男はその駅に向かった。誰かと待ち合わせをする振りをして彼女を待った。だが、彼女は現れなかった。


彼は失意の元に自宅への電車に乗ろうとした。だが通勤ラッシュでホームが非常に混雑しており、考え事をしていた彼はホームに転落してしまった。不幸なことに電車が到着する直前であり、彼はそのまま電車に轢かれ、粉々になってしまった。



その女性は気さくかつ有能で会社でも一目置かれていたが、心の中では常に暗い気持ちが支配していた。いつも明るいのも、嫌われたくないだけに過ぎなかった。


そんな彼女が仕事を終え、電車に乗り、家に帰ると、家の前に見覚えのない小さな段ボール箱が置いてあった。しかも何やら物音がする。開けてみると、そこにはボロボロの子猫が一匹入っていた。子猫は怯えたような表情で辺りを見ていた。彼女は思わず子猫に触れる。子猫は何もかも弱っていたが、目だけは輝いていた。


彼女は急いで子猫を動物病院に連れて行った。若干の栄養失調ではあったものの、特に大きな病気の兆候はないという。彼女は、いったん自宅で保護しつつ、里親を探すことにした。だが、なかなか見つからなかった。


彼女は実家暮らしだった。家族に聞くと、飼ってもいいと言う。そして彼女はついに、自分で飼うことを決意した。それまで魚くらいしか動物を飼ったことがなかったので不慣れだったが、彼女はどんどん猫の魅力に取り憑かれていった。子猫はこの世のものとは思えないほど可愛く感じた。子猫はどんどん成長し、立派になっていったが、愛らしさはちっとも変わることはない。作業を邪魔してくるのすらも愛おしい。


そんなある日、彼女はその猫が気になる行動をしているのを見た。腰を丸めて、自分の股の辺りをしきりになめていたのである。おしりを舐めるのは聞いたことがあったが、どう見てもおしりからはズレていた。最初はそういうこともあるのかなと考えていたが、繰り返し見かけるにつれ、違和感が大きくなっていった。どうも隠れてコソコソやろうとしているように見えたのだ。


ある日彼女はその行為をしている猫を見て、言った。


「やっぱり、オナニーだよね」


その途端、猫の動きが止まった。まるで何か悪いことがバレたかのように、その動きをやめて、逃げ出した。


自慰行為をしているようにしか見えなかった。去勢は済んでいるので不思議ではあったが。どちらにせよ、動物のそれとはいえ、異性の自慰行為を目前で見るのはあまりいい気がしなかった。


その後しばらくはその行為は止んでいた。だがあるときから、代わりに彼女への甘え方が激しくなっていった。特に、胸や股などに積極的に飛び込んでくることが増えた。まるで、開き直ったかのように。


この頃、彼女は仕事がうまくいかない日々が続き、酒に溺れがちになっていた。ある日彼女は酔っ払い、薄着のままソファの上で寝てしまった。翌日起きたときには、服が寝相ではありえないくらい乱れていて、全身がベタベタと濡れていた。彼女は冷や汗をかいた。だがここは母しか住んでいない一軒家だ。誰かが襲ってくるなんてありえない。ということは。


それは何回か繰り返され、猫に対する恐怖と、同時に怒りのようなものが湧いてきた。その怒りは、やがて実際に手を上げるまでになった。殴ったり、カッターで切りつけたりと様々だった。家族にバレないように、傷が目立たないようにし、鳴き声でバレないように、家族がいない時間を狙った。こんなことはしてはいけないという罪悪感の中から、胸がスッとするような快感が顔を出し、何回もやってしまう。職場のの同僚は自分がこんなことをしているなんて知らないんだろうな。私のことは気さくで明るい女性だと思っているんだろうな。でも本当の私はこれなの。猫は苦しがっている様子を見せていたが、一方で、何故か最初から全く逃げる様子を見せず、むしろ近づいてくるように見え、それがさらに怒りを誘発した。殴っても叩いても、鳴き声は上げるものの、その鳴き声は甘えているようにも感じられた。


ついには母に傷跡がバレた。母には怪我をしたと説明し、動物病院に連れて行くふりをした。実際は近くの路地裏に向かった。バレてしまってはもうどうしようもない。ここで心ゆくまで虐待して、もう一度捨てる。彼女はカッターを取り出して猫に近づけた。ここまで来ても猫は逃げなかった。


私は口元にカッターをすべらせた。下顎が切れて、下がだらんと垂れ下がった。カッターを首筋へと向かわせると、血が吹き出し、猫は倒れた。彼女は冷や汗をかいた。そして、地面に血溜まりを作り、そのまま動かなくなった。猫が死んでしまったことに気づくと、彼女は涙を流した。猫の命がなくなってしまった悲しみに対して、絶対にやってはいけないことをしてしまった罪悪感に対して、それにも関わらず一丁前に悲しんでしまっている自分の厚顔無恥さに対して。


彼女は猫の死体に背を向けて、これからどうすべきか考えた。すべてを正直に話そう。どのみちバレるのだし、まともな人間に戻るに必要があった。覚悟はできていた。


振り返ると、そこには雑草だけがあった。



今日ここに引っ越してきた、全身黒い服に身を包んだ男は、ある女の家に向かった。そして家の目の前で待った。彼女がいつ出てくるか、すべてを把握しているようだった。ところがいつまで経っても出てこなかった。男は帰ろうとしたが、その途端返ってくる女性と鉢合わせした。彼は正面から彼女に飛びかかり、口を塞ぎ、手足を縛った。


だがたまたま近所の人が通りかかった。通報され、逃げようとするも、自宅が近くにあったためすぐに捕まった。調べると、自宅には誘拐や監禁用の道具が置いてあり、計画的な犯行だとして、この事件は地域の新聞に載った。


男は逮捕されてから、一言も発さなかった。それは有罪判決が出て、刑務所に入ってからも同じだった。それに、怪しい動きがあった。看守たちの間では、脱獄を図っているのではないかと半ば冗談で言われていた。


ところが、予想外の事態が起きた。男が刑務所内で首をつって自殺したのだ。このことは広く報道され、安心しただとか、同情はしないだとか、無責任だとか、何があっても自殺はいけないだとか、いろいろな意見が飛び交った。これはその後、件の女性の知るところとなった。女性は安心すると同時に、彼だけが心の歪んだ人間ではないことを思い出した。


一匹の猫が、彼女の家へと駆け寄って来ていた。

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九生のお願い ウゾガムゾル @icchy1128Novelman

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