運命の着信

 休憩室の窓際の席から眼下を見下ろす。四十二階から見える景色は自然と気分を高ぶらせてくれた。都心の景色が一望できて、それらを俯瞰ふかんで見ることができるからだろう。光輝は新宿御苑の広大な緑を静かに見つめながら、休憩室に設置されている自販機で買ったサンドイッチを口に運んでいく。夕方のこの時間は休憩室は空いている。遅番のシフトのときはこの時間が昼休憩になるのだが、早番のときの昼食時は混雑していて、窓際の特等席は座れないことが多かった。



 新卒で入った会社は、家庭の事情を理由に退職した。その際、とくに強く引き止められることはなかった。会社側からすれば、一人辞めたらまた、補充すればいいだけの話なのだろう。替えはいくらでもいるということだ。今は、派遣社員として、新宿のコールセンターで働いている。クレジットカードに関する問い合わせ窓口で、お金が絡んでいるからクレームも多かったが、長く続けるつもりはなかったから我慢もできた。高時給なのは我慢料も含まれているのだろう。

 勤務は私服でよかったから、スーツから解放された生活は伸び伸びした気持ちにさせてくれた。職場近くに借りていたワンルームマンションはすでに引き払っており、今は実家に舞い戻って家族といっしょに暮らしている。

 仮にもし、前の職場で仕事を楽しめていたなら、いまだ退職することなく働き続けていたことだろう。ところが現実は、職場環境に多大のストレスを感じていたから、母親が起こした自殺未遂という騒動は、結果的に退職を決意させるいい口実になってくれた。予定されていた最終出社日は、世話にもなっていない上司や先輩らに、形式的にとはいえ、「お世話になりました」などと言いたくなかったから、体調不良を理由に欠勤した。その日に行われるはずだった退職の手続きなどは、総務部の人間とメールのやり取りだけで済ませた。



 退職して気づいたことがあった。社内ではそれなりに仲良くしていた連中でさえも、実は同僚だからと、無理して付き合っていたということに——。社内業務が円滑にいくようにと、上辺だけの笑顔を見せ続けていたのだ。きっと、無理して作られた笑顔が、小さなストレスを日々発生させていたに違いなかった。その証拠に、辞めてから肩の荷が軽くなったのを実感した。

 同期入社の橋本美香も、転職を真剣に考えはじめているようだった。

「光輝君も辞めたから、わたしも辞めようかな。残業がないとこが理想だけど、あっても、ちゃんと残業代が支給されるとこがいいな」

 先日二人で会った際に、彼女はそう言った。 前の職場では、残業代は二十時間までしか支給されず、それ以上はサービス残業として扱われた。ゆえに、タイムシートなど、あってないようなものだった。

 残業代についてもそうだったが、会社のマイナス面をあれこれと話しているうちに、早々に辞めて正解だったという思いを強くした。美香とは次の日曜日に、原宿にあるハリネズミカフェに行く約束をしていた。



 両親にはまだ話していなかったが、一年から二年ほどの語学留学を考えていた。英語を覚えて何がしたいとかはなかったが、新たなスキルを獲得することで、今後の可能性を少しでも広げておきたかった。英語の勉強も本格的にはじめていて、高時給のコールセンターを選んだのも、留学費用を工面するためだった。とはいえ、ある程度の金が貯まったら、父親に援助を打診するつもりでいた。甘えられるうちに、できるだけ甘えておこうと思ってのことだ。サラリーマン時代の収入は、ほとんどが生活費で消えたため、貯金はまったくなかった。



 母は少しずつだが快方に向かっていた。そんな姿を見るのは、家族全員にとって喜ばしいことであった。できるだけ毎朝、家族四人で食卓を囲み、朝食をとる。家族の絆を感じられる心地よい時間だった。

 病院で意識を取り戻したあと、母は伯父に会うなとは口にしなかった。母は伯父が、この世に存在していないかのように振舞った。伯父との間に何があったかはいまだ知る由もなかった。とはいえ、母の頼みといえど、伯父に会わずにいられないことはわかっていた。なぜなら、実の父親よりも伯父のことを尊敬し、あこがれていたのだから——。とはいえ、伯父に会うことで下手に母を刺激したくなかったから、当面は伯父との距離を置くつもりでいた。


 光輝は母親が起こした騒動以降、自ら死を選択することの是非について考えることが多くなっていた。基本的に自殺は容認派だった。何事にも喜びを見出だせなくなった人間にとっては、生き続けること自体が苦痛で、死を選ぶことのほうが最善の選択だと思うからだ。

 先が見えず、今よりもよくなるという希望がなくなった時点で、その後の人生は、残酷な罰ゲームと化すのではなかろうか。人生に絶望した者にとっては、死をもってしか解放はありえないのではなかろうか——。

 ただし、その人が死を選んだことによって悲しむ者が存在するのならば、どんなに苦しくても生きていてほしいと思った。今回、母親に最悪の事態が訪れていたらと思うと、生きた心地がしなかった。ゆえに今、母が生きているという事実は、とても素晴らしいことだった。それを思うと目頭は熱くなり、神とも呼べるかもしれない至高の存在に対して、自然と感謝の念がわき起こるのだった。



 休憩室の時計に目を向けると、十六時二十分になっていた。十六時を少し過ぎたころに休憩がはじまったから、まだだいぶゆっくりしていられる。マウントレーニアのカフェラテを飲みながら、何も考えずに時間が過ぎるままに任せる。

 大きなあくびをしたところで、テーブルの上のスマホが震えはじめた。音に反応して、幾人かの視線がこちらに集まる。スマホにさっと手を伸ばす。

「誰からだ……」

 光輝は表示された名前を見て固まった。

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