エピローグ

必然なる偶然

 アサミはゆっくりと歩きながら茶菓子が陳列されたショーケースを見て回る。百貨店の地下の食品売り場——いわゆるデパ地下は、平日ということもあって、さほど混雑していなかった。ここへは茶菓子やチーズ、ワインなどを買い求めるためにやって来ていたが、普段は軽井沢の仕事場にこもりがちになるため、たまの休みは都心を訪れ、ショッピングなどを楽しむのが常だった。

 進行方向にいる客たちはみな、逃げるようにしてアサミを避けて通り過ぎていく。意識して道をゆずる必要はなかった。そして通り過ぎざまにこちらを見ては、女優かモデルだろうかと勘ぐるような視線を向けてくる。いつものことだ。自分の端正な顔立ちとスタイルの良さが、人目を引くことは自覚していた。また、自分の内側からにじみ出ているであろう強烈なオーラが、他者との違いを生み出していることもわかっていた。職業柄、目立たぬほうがいいのだろうが、これは生まれ持ったものだからしょうがないとあきらめていた。一応外出時はモノトーンを基調にした地味なコーディネートを心がけていたが、あまり効果は感じられなかった。

 前方にお目当てのワイショップが見えてきた。アサミはワインショップに向かいながら意識を背後に向けて尾行の有無を確認する。とくに尾行の気配は感じられなかった。尾行をされていれば、うなじのあたりに軽い電流が流れるような感覚を覚えるのだ。

 仕事柄、どんなときでも尾行の有無を確認する癖がついていた。尾行があった場合の回避手段も心得ていた。尾行など滅多にされることはなかったが、仕事の性質を考えれば用心にこしたことはなかった。アサミはワインショップの前に立つと、濃紺のワンピースの腰あたりの違和感を少し直してから店内に足を踏み入れた。

 店内に入ると、さほど迷うことなく商品をチョイスする。ワインは赤と決めていた。色がいいではないか。会計を担当した女性店員は、こちらの存在に圧倒されたようで、あからさまに緊張の色を見せていた。むろん、ここだけに限らず、自分はどこであろうと決して軽んじられることはなかった。


 買い物を終えたあとに向かった場所は、低層階に商業施設が併設されているホテルのカフェラウンジだった。二十八階にあり、過去に何度か利用していた。黒を基調とした洗練された空間で、広くて見晴らしがよく、周囲を一望できた。今日は天気が良かったから、遠方にはうっすらと富士山も見えている。希望していた窓際の席はすでに埋まっていたため中央の席に案内されたが、どこの席だろうと開放感があるため問題にならなかった。対面の椅子にグッチの小ぶりのバッグと手提げの紙袋を置き、クッション性のある黒革の椅子に浅く腰掛ける。黒いテーブルの中央には、手のひらサイズの多肉植物が置かれていた。可愛らしい緑の生きたオブジェは心を和ませてくれた。広いラウンジ内はショパンのノクターンが流れていたが、巨匠の名曲は耳に心地よかった。

 ガトーショコラの濃厚な味と食感と、ブラックコーヒーの苦みと香りを楽しみながら、午後のひとときを気持ちよく過ごす。ラウンジ内は七割方埋まっていたが、幸い、必要以上に高い声で話す客もいず、静かな空気が流れていた。マナーの悪い人間は一定数存在するが、コーヒー一杯が千五百円ともなれば、ある程度フィルターがかけられる。

 このあとにも、いくつか予定を入れていた。口内のクリーニングとホワイトニングを受けて美容室で髪のトリートメントをしてから、恵比寿にある隠れ家的な雰囲気をもつステーキ店でディナーを楽しむつもりでいた。そこは予約が取りにくい店でも有名だった。カウンター越しに店主が自ら肉をカットして焼いてくれるのだが、アサミは口の中に広がる甘みのある肉汁を想像して予約の時間が待ち遠しくなった。


 今の生活に、アサミは充分満足していた。欲しい物はたいてい買うことができたし、仕事にも大いにやりがいを感じていた。法を無視したかなりレアな仕事で、誰にでもできるものではないから自尊心も充してくれていた。今の仕事に関しては、まさに天職という言葉がしっくりと当てはまると常々思っていた。

 前任者から引き継いで約七年。その間、多くの人間をあやめてきたわけだが、罪悪感を覚えたことは一度もなかった。無能な人間はゴミにも等しいと思っていたから、虫でも潰すような感覚で仕事に励んでいた。

 しかし今のこの生活が、いつまでも続かないことはわかっていた。いつか必ず終わりがやってくる——。それがいつ訪れるのかはわからないが、人の道に外れた行いが永遠に続けられるわけがなく、寛大な心をもつ神とて、いつまでも大目に見てはくれまい。歴史を見ればそれは明らかだ。暴飲暴食を繰り返せば確実に健康を害するのと同じように、悪事を重ねれば必ず報いを受ける。因果応報。これは永遠不変の法則だ。だが、わかってはいても、他者の運命をもてあそぶ行為を手放す気にはなれなかった。先を見越していくつも保険をかけてはいたが、これまで葬ってきた者たちの怨念が、いずれ自分を地獄へ引きずり込む日が必ずやって来るはずで、裏社会にどっぷり浸かった者に平和な死など望めるわけがなく、自分だけ例外のはずはなかった。

 だが、どんな最期が待っていようとも、手を抜くつもりはなかった。終わりの日までひたすら突き進み、一人でも多くの者を地獄に送り届けるつもりでいた。なぜなら自分のような異質な存在が違和感なく躍動やくどうできる場所は他にはないと信じていたからだ。そして最期の日が訪れたら、それを甘んじて受け入れるつもりでいた。潔く散ることを良しとし、絶対に命乞いなどするものかと——。


 穏やかな時間を過ごしている中、アサミはある人物を確認して思わず小さな声を上げてしまった。

 田島だった——。

 こちらに対して半ば背を向けるようにして彼は座っていた。グレーのスーツを着てコーヒーを飲むその姿には、どことなく影があった。遠目からでも、疲れた顔をしてるのがわかる。以前よりも少し痩せたかもしれない。声をかけたい衝動に駆られたが、そんな無用なリスクを犯すほどアサミは愚かではなかった。湧き上がった衝動を抑えつつ、それとなくクライアントを観察した。

 二十代半ばほどの、容姿の整った黒髪のウェイトレスが、田島に近づいていく。遠目からでもウェイトレスの黒髪は、キューティクルの輝きが見てとれた。オタクから好かれそうなアイドル顔で、制服である白いブラウスと黒いタイトなスカートがとてもよく似合っている。黒髪のウェイトレスは、田島のカップにコーヒーを注ぐと席を離れるが、すぐに振り返ると心配そうに彼の背中を見つめている。以前から田島を知っていて、彼の変化を気にしているようなそぶりだ。

 アサミは慎重に気配を消しつつ様子をうかがっていたが、だんだんと自分の気持ちを伝えたいという衝動が抑え切れなくなってきた。


 おせっかい? いや、これは提案だ。彼はれっきとしたわたしたちの顧客なのだ。この機会を利用して悪いわけがない——。


 アサミは少し勘案してから、これからやろうとすることにリスクはほぼないと判断し、取り出した手帳から1ページ分をていねいに切り離すと、手持ちのボールペンを使って筆を走らせていった。書きながら思った。こんなちょっとしたことから綻びが生じ、余計な災いを招くのかもしれないなと。だがそれでも、この小さな企みを断念する気にはなれなかった。少し冷静さを欠いてることは自覚していたが、他人とは思えぬ自分と似た目を持つ男を、どうしてもほっとけなかったのだ——。

 書き終えると、残っていたコーヒーを飲み干す。ちょうどいいタイミングでカフェラウンジのスタッフが近くを通りかかる。田島を心配そうに見つめていたウェイトレスだ。アサミは軽く手を上げて彼女を呼び止めると会計を頼む。数分後、黒革の伝票ホルダーを持ってウェイトレスが戻ってきた。



       *  *  *



「あの方、よくここに来るのかしら?」

「はい?」

 美しい女性客の言葉に一瞬キョトンとしてしまったが、ウェイトレスは指し示された人物を見て納得した。

「ああ、ええ、そうですね、常連の方でございますね」

「あのね、ちょっとお願いしたいことがあるんだけど、よろしいかしら?」

「はい、何でしょう」

 聞くと美しい女性客はさらに声を潜めて言ってきた。

「実はわたし、あの方の知り合いなの。それで、お声掛けしようかとも思ったんだけど、どうやら、お加減がすぐれないご様子だから、かえってご迷惑かなと思って。それで代わりに、これを渡してもらえないかしら」

 女性客はそう言うと、二つ折りにされた紙を差し出してきた。

「十分後くらいに渡してもらえると助かるわ」

 ウェイトレスは、美しい女性客がエレベーターに乗り込んだのを確認すると、罪悪感を覚えながらも受け取った紙の中身を確認した。


〝田島様 どうやら心配事がおありのご様子ですね。もしよろしければ、また例のサービスをご利用くださいませ。かえって心が晴れやかになるかもしれませんよ。A〟


 文面だけでは詳細がわからず、ウェイトレスは訝しんでしまう。例のサービス? 心が晴れやか? 性的なサービスだろうか? アルファベットで名乗っているのも淫靡いんびな印象を受ける。ウェイトレスは、女性客のなまめかしい姿を思い出して気持ちが曇っていく。もし、あれだけの女性が相手をするのであれば、きっと金のある人間が利用する超高級店だろう。もしかすると、芸能人などが利用するような店かも知れない。何度か見かけて好意を抱いていた客が、そのような店を利用していると思うと複雑な気持ちになったが、あの人も男なのだからしょうがないと割り切ることにした。

 だがそれ以上に気になるのは、白い紙を渡してきた美しい女性客と、お気に入りの常連客の雰囲気がとてもよく似ていることだった。顔立ちも似通っていた。とくに目が……。



       *  *  *



「お知り合いの方からです」

 二つ折りの白い紙が目の前に差し出され、田島は少し驚きつつそれを受け取った。手渡してきたウェイトレスはうつむき加減に、そそくさと席を離れていく。田島は怪訝に思いながら彼女の背中を見つめる。いったい誰が渡してきたのだろうかと思いながら周囲を見渡すが、それらしき人物は見当たらなかった。

 奇妙な不安に駆られながら折りたたまれた紙を開く。内容を確認したとたん、顔から血の気が引くのがわかった。思わず立ち上がると、視線をすばやく周囲に走らせた。〝A〟が何者かは文面より明らかだ。見当たらないとみるや、ラウンジを抜けてエレベーターフロアに向かった。しかし彼女の姿はどこにもなかった。少し途方にくれながら、なんなら下まで降りてビルの周辺を探してみようかと思ったところで、ふと冷静になる。


「会ってどうなる?」


 田島は紙片を握り締めながら席に戻った。冷めたコーヒーが残っていたので、それを飲み干す。コーヒーのおかわりを勧めるためか、先ほど紙を渡してきたウェイトレスが近づいてくる。しかし目が合ったとたん、弾かれたように一歩後退する。目には怯えの色が含まれていた。彼女は目を伏せると、逃げるように離れていった。

 当然の反応だったろう。内面の変化は、どうやら外見にも反映されたようだ。今の自分は、数分前とは明らかに変わっていた。ウェイトレスが示したように、見る者を落ち着かなくさせるような、狂気を含んだ異様な空気を発しているに違いなかった。受け取ったメッセージは、それだけ大きな変化をもたらしたのだ。


 美しい筆跡で書かれていた文面はシンプルではあったが、不思議と愛情のようなものが感じられた。読み終えた瞬間、「一人で抱え込まなくていいんですよ」という優しい言葉を投げかけられたような気がした。同時に、自らの救済方法が頭に浮かんだ。

 思いついた再生計画は、荒唐無稽こうとうむけいの感もあり、荒療治になるかもしれなかった。とはいえ、今のうっ屈した負の感情を消し去るには、それ相当の衝撃インパクトが必要だと思った。一線を越えたことで受けた苦しみは、再び一線を越えることでしか相殺できないのではないか——。

「悩みは何も、一人で抱え込む必要なんてないんだ。辛いときは、人に頼ればいい。誰かに頼れば、それだけ重荷も軽減されるはず——」

 少しだけ希望が見えたことで、気持ちが明るくなっていくのがわかった。

 田島は手を上げて先ほどのウェイトレスを呼び寄せると、努めて明るい笑顔を浮かべて言った。

「すまないが、あと一杯だけ、おかわりをもらえるかな」

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