消えない悪夢

「おじさん、ぼく、ずいぶん心配したんだから」

 田島は甥と二人で懐石料理店にいた。二人して個室の座敷で酒を飲みながら、食事が運ばれてくるのを待っているところだ。

 近況はLINEで何度かやり取りしていたが、甥とこうして会うのは半年ぶりだった。仕事帰りでスーツ姿だった甥は、どことなく緊張しているようにも見えた。それもそのはずだと田島は思った。あの日を境に、自分は大きく変わってしまっていたからだ——。

 以前は、人と会っているときは微笑を絶やすことはなかったが、今はそれができなくなっていた。人は負の感情に充たされると笑顔が埋没する。満員電車の通勤客の多くが醜い顔をしているのはそのためだ。ゆえに、今の田島は、皮肉めいたシニカルな笑いだけしか浮かべることができなかった。それが原因で周囲の反応も変わった。それは妻も例外ではなかった。みながみな、どことなくよそよそしい態度を取るようになった。今夜の光輝にしてもそうだ。若さ特有のいつものくだけた態度はやや影を潜め、口調もいくらかぎこちなかった。

 弊害は笑顔が消えただけではなかった。自分が行った蛮行をすべての人が知っているのではないかという疑念が常につきまとい、街を歩いていても落ち着かず、対人恐怖症気味にもなっていた。警察の影にも怯えるようになっていて、いつ警察がやって来てもおかしくないと常にビクビクしていた。悪影響は他にも見られた。あの日以降、悪夢にうなされる夜が続いていたのだ。悲鳴を上げながら目を覚ますこともあり、そのたびに妻を怯えさせた。また、以前と比べて眠りも浅くなっていて、わけもなく深夜の二時や三時ごろに目を覚まし、そのまま眠れずに朝を向かえることもあった。このうっ屈した気分を晴らすためにボクシングジムを頼ったが、なぜか以前と違って居心地が悪くなっていた。一度悪事に手を染めたからだろうか、ジム内に漂うが肌に合わなくなっていたのだ。サンドバッグを数分叩いただけで気力が枯渇こかつし、事態の深刻さを実感した。

 空虚——。それが今の自分を一言で表す言葉だった。望んでいたものを得られず、かえって状況を悪化させてしまった。その事実に、ただただ虚しく笑うしかなかった。大金をかけてのこの結果に、ふとした瞬間、気が狂いそうにもなった。まさに、〝本末転倒〟という言葉がぴったりの、見事な失態だった。

 とはいえ、結果はどうあれ、時間はもとに戻すことはできない。ゆえに前に進むしかなかった。いつまでも、自暴自棄でいられる安易な立場ではなかったからだ。自分には、妻や会社の従業員、その家族、取引先、顧客といった人たちへの果たすべき責務があった。どんな状況であれ、これから先も、けんめいに生きるしか道はなかった——。


 注文した料理が運ばれてきた。海の幸を中心とした、いくつもの品がテーブルに並べられた。

 甥は一人暮らしをはじめてから食事が質素になっているからだろうか、テーブルの上の料理を、見ていて気持ちのいいくらいの食べっぷりで胃の中に収めていった。彼のそんな姿は、田島の重い心をいくぶん軽くしてくれた。甥には自分のようにはなってほしくないと田島は強く願った。ゆえに、甥のこれからの人生に暗い影が落ちることがないよう全力でサポートしてやりたいと思った。

 会食は甥の就職先での話題を中心になごやかに進んだ。そして会話が途絶えたタイミングで田島は何気ない調子でたずねた。

「ところでお母さんは、元気にしてるか?」

 甥の顔がとたんに曇った。その瞬間、田島は戦慄を覚えた。


 ああ! おれは自分のことばかりで、由香のことを忘れていた!


 田島はこの場から逃げ出したい衝動に駆られながら、生きた心地のしないまま甥の言葉に耳を傾けた。

「お母さんなんだけど、実は数か月くらい前から、何だか精神的に不安定な状態になってて寝たきりなんだ……。先週の休みに様子見に実家に戻ったんだけど、あんまり食べてないせいか、ずいぶんと痩せちゃっててさ。今はお父さんが仕事を減らしたり、妹が学校を休んだりしてお母さんのこと看てるんだけど、どうやら薬を飲まないとパニックになるらしくて、それに薬の量も増えてるっていうし、それにお母さんがそんなだから、妹までうつっぽくなっちゃってて、お父さんも苛立ってるみたいで、ぼくまで実家にいたら気が滅入ってきちゃって……。これまでお母さんがそんな風になったことなんて一度もなかったから、正直、家族みんなが途方に暮れてるっていうか……」

 途中から話の内容は頭に入ってこなかった。何も考えられず、頭の中はまっ白になっていた。

 途方に暮れた顔に気づいたらしく、光輝が心配そうに聞いてきた。

「おじさん、だいじょうぶ?」

 我に返るが、目覚めた直後のように頭はぼんやりしていた。

「あ、ああ、だいじょうぶだ……。だが、どうやらまだ、本調子じゃないようだ……。お前さえよければ、そろそろ店を出ないか」

「ぼくはだいじょうぶだよ。もう充分食べたからさ」

「なら悪いが、そうさせてもらおうか……」



       *  *  *



 母の状態を告げたあとの伯父のうろたえように、光輝は得体の知れない恐怖を覚えていた。黒光りする廊下を進みながら光輝は、会計へと向かう伯父の背中を複雑な思いで見つめる。今の反応で確信した。母親の精神的な不調の原因が伯父にあるということに。母親の言葉が脳裏をよぎる。

「おじさんとは、もう絶対に会っちゃダメよ。あなたのおじさんは危険な人になっちゃったの。あんなことがあって、あの人は変わっちゃったの——」

 伯父に会ってはいけない理由を母親に問いただしたが回答は得られなかった。それは伯父に聞いたところで同じだろうと思った。たが、目の前にいる伯父が、母親の言うような危険人物だとはとうてい思えなかった。

 母と伯父の間で何があったのか——。兄妹きょうだいの不仲の原因は、祖父母でさえ知る由がなかった。祖父母の話では、高校生くらいまではとても仲の良い兄妹だったらしいが、大学進学を機に伯父が一人暮らしをはじめたころから、二人の距離は広がっていったとのことだ。ところが、そのころのことについては、祖父母ともにあまり詳しい話をしたがらなかった。とくに祖父に至っては、それが顕著に表れた。温厚な祖父の顔を険しくさせるようなことが、そのころあったということなのか——。

 会計を終えたあとも伯父は無言だった。気まずい空気の中、二人してエレベーターに乗り込む。階下に降り立つと、すぐにとした外気が身体にまとわりつき、憂うつな気分をさらに憂うつにさせた。冷房が適度に効いていた室内と違い、外は蒸し暑く、すぐに全身が汗ばんできた。数人のサラリーマンとすれ違うようにしてビルを抜けて歩道に出た。

 出てきたビルは、二十代から三十代をターゲットにしていると思われるセレクトショップが一階に入り、二階より上の階は、飲食店がメインの十二階建ての建物だった。このビルに入っている飲食店の多くは、自分のような若者が簡単に来れるような店ではなかったため、いつもなら退店時は周囲を気にして少しばかり得意げになれる時間でもあったが、今日ばかりはそんな気分に浸ることはできなかった。

 伯父から小遣いとして一万円を受け取った。いつもなら、儀礼的に一度は断りをいれていたが、今夜はそれを素直に受け取った。その際、先ほどから続く動揺のせいで、お礼の言葉すら発せなかった。そして、母親の容態を伝えてからタクシーに乗り込むまでずっと、伯父が目を合わせてくることは一度もなかった。

 光輝は伯父を乗せたタクシーが走り去っていくのを見送りながら、受け取った一万円で一杯飲んでから帰ることにした。ざわついた感情を静めるためには、アルコールの力が必要だと思ったからだ。

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