不穏な対応

「もしもし、おばさん? 光輝です。ご無沙汰してます」

 光輝は伯父の自宅に電話をした。初めてのことだった。何度か送ったLINEのメッセージがなかなか既読にならず、さらに携帯もつながらなかったため、何かあったのではないかと心配してかけたのだ。

 多数の飲食店が入っている雑居ビルの狭い通路で、光輝は何度か会ったことのある伯母の顔を思い浮かべる。母親と同じく小柄でおっとりとした人物で、いつも笑顔を絶やさない印象があった。ところが、今夜の伯母の声には暗く沈んだ響きがあり、こっちまでつられて気分が沈んでいくような気がした。話を聞いてみると、伯父は体調を崩して寝込んでいるとのことだった。体調管理に人一倍気を使っている伯父が何日も寝込むのはよっぽどのことだったから、伯母に元気がないのも当然だと思った。しかし次の反応で、様子がおかしいことに気づいた。

「おばさん、お見舞いに行こうかと思うんだけど」

 光輝がそう告げると、伯母は一瞬口ごもり、そのあと狼狽した様子で、電話があったことは伝えておくから、お見舞いに来るのはしばらく控えてもらえないかしら、と言って、謝罪の言葉を口にしてから、こちらに何も言わせないうちに、切り急ぐような感じで電話を切られてしまった。

「何で……」

 光輝は少し呆然としてしまった。伯母の対応はどうにもに落ちなかった。見舞いを拒むのはどういうわけか? 甥が病気の伯父を見舞っても、何も問題はないはずだ。むしろ普通なら、歓迎されるべき行動だ。それを理由も説明せずに遠慮させるとは、普通じゃないように思えた。インフルエンザなどの伝染うつる可能性のある病気だったら、そう説明すればいいだけのことだ——。

 光輝は怪訝に思いながら、同僚たちが待つ飲みの席に戻っていった。



       *  *  *



「ねえ、光輝君。ちょっとスタバでも寄ってかない?」

 同僚の美香が、前方のコーヒーショップを指差して言った。

 飲み会は十時半に終了して、遠方の社員は早々に帰宅していったが、光輝と美香は終電まで互いにまだ余裕があった。

「それより、なんか腹減らない? さっきあんま食べなかったから、ラーメンでも食べいきたいな」

「いいよ、ラーメンでも。なんかそう言われたら、あたしもお腹空いてきちゃった」

 同意が得られたので二人して、何度か足を運んだことのある近場のラーメン店に足を向けた。

 光輝と同期入社の橋本美香は、大きな瞳と黒髪のショートボブが似合う、小柄で健康的な女性だった。女優の有村架純にも少し似ていて、社内での人気も高かった。本人は二重あご気味のあご先を気にしていたが、むしろそこがチャームポイントだと光輝は思っていた。一見おっとりした感じに見えるが、学生時代は友人と二人でヒッチハイクだけで東京・長野間を往復したことがあるなど、意外にアグレッシブな一面もあった。光輝は入社当初から美香とは気が合い、酔った勢いで幾度かからだを重ねたこともあった。しかし、からだを交えたからといって、彼女が恋人風を吹かせてくるようなことはなかった。それはきっと、光輝がフランクな関係を望んでいるのを察してのことに違いなかった。

 ラーメン店に着いて食券を購入したあと、二人してカウンター席に座った。ここは雑誌などでも紹介されるような人気店であったため、さほど広くない店内はほぼ満席だった。待つこと数秒、二つのグラスとともに冷えた瓶ビールがカウンターに置かれた。アサヒのスーパードライだったが、銘柄による味の違いなど光輝にはわからなかった。

「ビールなんて珍しいね」

 美香がビール瓶を見ながら言った。そう、光輝がこの店でアルコールを注文したのは初めてのことだった。

「まあね。ちょっと実家でいろいろあってさ」

「ふーん、そうなんだぁ。じゃ、飲まなきゃだね」

 美香は深くは聞いてこなかった。母親が最近、うつっぽくってさ、などとは気軽に話せる話題ではなかった。ゆえに詮索されないのはありがたかった。これが学生時代の交際相手だったならそうはいかなかったろう。何度もしつこく聞いてきて、光輝のことをすこぶる苛立たせたに違いなかった。本人だって、他言できない秘密の一つや二つはあるだろうに、人に秘密を作られるのは我慢ならないのだ。

「飲む?」

 光輝はビール瓶を持って美香に聞く。

「じゃあ、一杯だけ」

 美香のグラスにビールを注いでから、光輝は自分の分も注ぐ。二人して、「乾杯」とグラスを合わせた。

 注文した品が運ばれてきた。美香は慣れた手つきで髪を耳にかけて、麺をふぅふぅしながら食べはじめる。艶のある黒髪に注目する。やっぱ、いいシャンプー使ってるのかな、などと光輝は思う。

 店内の片隅に置かれたテレビからはスポーツニュースが流れていた。こってりとした豚骨ラーメンを食べながら光輝はテレビに目を向けた。大リーガーの大谷翔平が、2番DHで出場した試合で二打席連続でホームランを放ったらしい。続いて、テニスの全仏オープンの試合結果などが伝えられると、テレビ画面はCMに切り替わった。キャノンの一眼レフカメラを持った名前の知らない俳優がヨーロッパの街並みを探索している。

 テレビから視線を外し、大谷ってすごいよね、と言おうとしたタイミングで美香が先に口を開く。

「光輝君から借りた本だけど、半分読み終えたよ。すごい面白いね」

「でしょ? 後半もっと面白くなるから」

「ほんと? なら楽しみだな」

 数日前に光輝は美香に、伊坂幸太郎の小説を貸したのだった。光輝は友人の薦めで伊坂幸太郎が好きになり、学生時代に伊坂作品はすべて読破した。跳ねるような文体、軽妙なストーリー、洒落たセリフ回しなどが好きで、お気に入りの作品は読み返すこともあった。それだけに作品の中傷には敏感だった。

「でも聞いてよ、あんな面白いのに、レビューで星一つ付けてるやつがいるんだよ」

「え、マジ?」

「うん。だってあれ、直木賞の候補にまでなってんだよ。なのに、自分で小説を書いたこともないような連中が、えらそうに評論家気取りだからね。とくにひどいのは、ろくに読んでもないのに星一つ付けてるやつ。冒頭の数行で駄作決定、みたいなこと書いてるやつがいてさ、そいつの他のレビューも見てみたけど、全部に星一つ付けてたよ」

「やだ、気持ち悪っ」

 美香が露骨に顔をしかめて見せる。予想以上の共感が得られて、光輝は気をよくする。

「それって、作品を批判してストレス発散してるのかな?」

「どうだろ? ストレス発散の意味合いもあるだろうけど、きっとそういうやつらって、否定することが癖になっちゃってるんだろうね。否定する前提で読みはじめて、いいとこ見ないで悪いとこばっかに目を向けちゃうんだろうね。酷評する気満々で、あげあし取ってやろうって必死なんだよ。だって、どんな名作だって、悪いとこの一つや二つ、指摘しようと思えばできるわけじゃん? けどそんな読み方してたら、どんな作品読んでも楽しめないよね。あとさ、エンタメ小説を不朽の名作と比べて批判してるやつも多くてさ。そりゃドストエフスキーとかゲーテとかと比較したら、どんな作品だって低評価になっちゃうに決まってんじゃん。不朽の名作とエンタメ小説を比較すんなって話なんだよね。そもそもエンタメ小説って、純文学と比較されるべきものじゃないと思うんだ。まったく別物として普通に楽しめばいいのに、そこをいっしょくたにして大衆小説を批判する人はけっこういるよね」

 光輝が息を継いでグラスの中身を一気に飲み干すと、美香が空いたグラスにビールを注いでくれた。その行為がいかにも自然であったため、光輝は美香に対して改めて好感をもった。こういう気遣いができる女性は少ない。今は女性の社会進出が一般的になってきたから、何でもかんでも男性と張り合おうとする好戦的な女性が少なくない。飲み会を例に挙げれば、積極的に料理を取り分けてくれる女性は珍しくなっている。気を遣って料理を取り分ける女性は、〝あざとい〟などと言われる始末だ。

 三十過ぎの独身女性は、気遣いのできない人が多いと聞く。自分のことばかりで他人をまったく気遣えないのだ。だから取り残されていく——。しかし美香ならきっと、性格がいい上に見た目もよかったから、本人が望めばすぐにでも結婚できるだろう。光輝はこれまで結婚など意識したことはなかったが、自然と他人を気遣える美香となら、結婚してもうまくいくんじゃないかなと思った。

 れんげを使ってラーメンのスープを飲みながらそんなことを考えていると、ふと美香を手放したくないという衝動が湧き起こった。気づくと右手を彼女の肩に乗せていた。

「あのさ、よかったら今日、ぼくんち来ない?」

 美香が笑顔でうなずいた。そして彼女の瞳の奥からは、さらなる親密な関係を期待するかのような、輝きの色が見てとれた。

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