殺意

 そろそろ寝ようかと思っていたところで、階上からドタドタと歩き回る音が聞こえてきた。ぼくは一瞬で不快な気分になった。遅い時間なのだから、もっと静かに歩いてほしかった。

 ぼくだけでなく、一人暮らしをしている大学の同級生には、隣人問題で悩んでいる者は多かった。だがみな口を揃えて、トラブルに発展させたくないから迂闊には注意できないと言っていた。自分も同意見だった。

 ある女子学生は、管理会社を通じて注意してもらったところ数日は静かになったらしいが、今度は以前にも増して騒々しくなったとのことだ。逆ギレというやつだろう。非常識な人間に、常識は通じないということだ。不条理な世の中だ。その女子生徒は引っ越しも検討していると言っていた。

 いまだ階上からドタドタと歩き回る音が聞こえてきていたので眠る気も失せ、そのままテレビを観続けることにした。隣人に配慮して音量はだいぶ絞っている。暑さが厳しい時期だったので、Tシャツにトランクスという格好だ。扇風機の設定は、〝強〟がここ最近のデフォルトだった。


 引っ越しまでの数週間は、実家で妹と顔を合わせぬようビクビクしながら過ごした。しかし妹は、ほとんど部屋から出なかったため、結局、顔を合わすことは一度もなかった。

 妹はあの日以来、部屋に引きこもり、学校にも行かなくなった。不登校の原因がわからず、両親はともに途方に暮れていた。学校側は、いじめ等の事実はなかったと報告してきたが、家庭に問題はなかったはずだと両親は信じていたから、学校側の報告に不審を抱いていた。両親はともに、子どもたちには甘かったから、理由を妹に強く追求することもできず、ただただ心配するほか何もできずにいた。

 妹のことは心配ではあったが、ぼく自身の精神状態も危うい状態だった。とても人の心配をしている余裕はなかった。妹とあんなことになって以降、生きていることが苦痛だった。いつも眠りにつく前は、このままもう目を覚まさずに、この世から存在が消えていることを願った。自死も考えたが、リアルにビルの屋上から飛び降りるところを想像すると足はすくみ、自ら命を絶つことはむずかしいと思った。死にたいけど死ねないといったジレンマに日々苛まれている中、仕方なくぼくは、大学生活に没頭することで、忌まわしい記憶の忘却を目指した。

 入学後すぐに、適当な相手を見つけてプラトニックな交際をはじめた。当初は効果があった。交際相手と二人きりでいるときは気もまぎれ、いやな記憶もさほど思い出さずにすんだ。ところが相手が、肉体関係を望んでいることを察すると事態は一変した。妹との生々しい記憶が頭をもたげ、それ以降関係を続けられなくなってしまった。

 あの日の出来事が強烈なトラウマとして残っていたから、女性と肉体関係を結ぶことなど今は考えられなかった。初めての相手が妹でなかったことが唯一の救いだったろうか。

 自慰行為もやめていた。そういう欲求が襲ってきても、必ずそのたびに妹とのことが思い出され、罪悪感から行為にのぞめなかった。そのため溜まったものは、夢精という形で放出された。

 彼らに対する怒りはひんぱんに訪れていた。だが、怒りのあとには必ず妹との記憶が呼び起こされるため、不本意ではあったが彼らのことも忘れるよう努めた。そうこうしているうちに、大学生活にも慣れ、今すぐには無理だとしても、いつかはあの日のこととも折り合いをつけられる日が訪れるだろうと思えるまでになっていた。


 テレビをダラダラと観ていたら、気づくと十二時を回っていた。そろそろ寝ようかと思ったところで家の固定電話が鳴った。近所迷惑にならないようにと、ぼくはワンコールで受話器を取った。遅い時間の電話に、いやな胸騒ぎを覚える。電話は母からだった。母はまず、この時間に電話したことを詫びてから、ひそひそとささやくような声で話しはじめた。

「ねえ純君、明日なんだけど、うちに帰って来れないかしら。とっても大切な話があるの」

 声のトーンから、ただならぬ様子が伝わってきた。とはいえ、実家に帰るわけにはいかなかった。妹と顔を合わせる危険は絶対に避けたかった。

「大学の勉強が忙しくて無理だよ。何だよ、話って」

 部屋の壁が薄かったから、母に負けぬくらい声量を落として話す。

「電話じゃ話せないことなの。長電話して、お父さんが起きちゃったら困るのよ」

「お父さんに話せない話って何?」

「あのね、由香ちゃんのことなの……」

 妹の名前に、心臓が一瞬止まる。

「由香が、どうかしたの……」

 聞かずに済ませたかったが、そうもいかなかった。

「だから、電話じゃ話せないのよ」

「だけど本当に無理なんだよ。今すごく忙しくてさ、今だって明日の準備をしてたくらいなんだから」

 実家に戻らないためなら平気で嘘もつけた。母は、しかたないわね、とため息混じりに言ってから、さらに声をひそめて続けた。

「あの子、妊娠しちゃったのよ」

「え……!?」

 思わず悲鳴を上げそうになった。突然頭をハンマーで殴られたかのような衝撃だった。目の前がまっ暗になり、意識は宙をさまよう。

「——もしもし、もしもし、純君、聞こえてる?」

「だ、だいじょうぶ、聞こえてるよ……」

 母の声が、しばらく耳に届いていなかったようだ。気づくと鼻の傷跡に手を置いていた。

「あの子、相手の男の人が誰だか話さないのよ。きっとその人のせいで、学校にも行かなくなっちゃったのよ。きっとそうに決まってるわ。純君、あなた何か、心当たりはない?」

 ぼくは唇を震わせながら答える。

「心当たりは、ないな……」

 もし、母がこの場にいたなら、ぼくが何か知ってるのではないかと勘ぐったことだろう。自分の顔から血の気が引いてるのは間違いなく、そんな顔を見られては、嘘をつき通すのはむずかしいだろうと思った。

「お父さんには、言わないつもり?」

「言えるわけないでしょ!」

 母は声を荒げた。だがすぐに、慌てた様子で声を落として続けた。

「あれだけ可愛がっている娘が妊娠させられたなんて知ったら、お父さん気でもふれちゃうか、相手の人に何するかわからないでしょ」

「そ、そうだね。それじゃ、子どもは……」

「決まってるでしょ。堕ろさせるつもりよ。それに由香ちゃんも、絶対に堕ろすって言ってるし」

「そ、そう……」

 母の口調には、不貞を働いた娘に対する非難の調子は少しもなかった。ただただ娘を心配している、そういった口調だった。これまで築き上げてきた、母娘ははこの信頼という貯金が、そうさせているのかもしれない。

「それにあの子、こんなことも言ってたの。わたしにはわかってるの、わかってるから絶対に産んじゃいけないの、って。わかってるって、どういうことかしら?」

「さ、さあ……」

 母は、それはいいとして、と言って、息子のぼくへの非難を口にしはじめた。

「あなたも、うちからでも通えるっていうのに、わざわざ大学の近くに部屋を借りる必要なんてなかったんじゃない? どうせ、コンビニのお弁当ばかり食べてるんでしょ? 家にいれば、ちゃんとした食事もとれるっていうのに。それに今は由香ちゃんがこんなことになって大変な時期なんだから、あなたがうちに帰ってきてくれたら、お母さん、本当に助かるんだけど」

「でもそしたら、敷金とか礼金とかもったいないだろ」

「そんなこと、あなたが心配することじゃないのよ!」

 母が電話越しに憤ったあと、しばらく沈黙が続く。妹の妊娠という事実が、ぼくの正気を少しずつ奪っていく。気を抜けば発狂しかねないほど、自分が危うい状態になっていることがわかる。

 電話越しながらもぼくの狼狽ぶりが伝わったのか、母は心配そうな口調で言ってきた。

「そうよね、妊娠なんて信じられないわよね。お母さんだって信じられないんですもの。でも、あの子ならだいじょうぶ。きっと立ち直ると思うの。だからね、純君、たまには顔を出して、あの子を元気づけてやってほしいの。ね、お願いよ。あなた、お兄ちゃんなんだから」

「そ、そうだね……」

 母はまだ、今回の件について話したそうな空気を出していたが、ぼくがこれ以上の会話を望んでいないことを察したのか、気遣いの言葉を残して電話を切った。

 ぼくは畳の上に座り込んだまま、しばらく動けずにいた。

「くくっ、ひくくくっ……」

 自分でも、ぞっとするような、卑屈な冷笑が口から漏れた。

「元気づけてやってほしい、か……。そもそも由香がああなったのも、ぼくのせいだっていうのに……」

 もしも自分の子どもだったらと思うと頭がおかしくなりそうになった。可能性は五分の一、決して低くはない。妹も同じことを考えたろうと思うと羞恥心で胸が張り裂けそうになった。レイプにより妊娠し、それが兄の子かも知れず、そして授かった命を見殺しにするしか選択肢がないという状況に、彼女はいったいどんな思いでいるのだろうか。


「わたしにはわかってるの。わかってるから絶対に産んじゃいけないの——」


 ぼくは思わず顔を上げた。今になってはじめて、妹が母に告げていた言葉の意味を悟ったからだ。妹は、妊娠した子どもの父親が兄のものだと確信したのだ。命を宿した者だからこそわかる霊感めいたものを感じたのかもしれない。だがこの際、事実はどうでもよかった。要は妹が、そう信じているということが重要なのだから——。

 悔やんでも悔やみきれなかった。あの日、あの場所に足を運んでしまったことを。脅しに使われた写真のネガなど放っておけばよかったのだ。あの家に足を踏み入れさえしなければ、あんなことにはならなかったのだ。変に強がることなく、あの場を立ち去っていたなら、そうすれば妹とあんなことには——。それにあのとき、殺されてもいいから最後まで抵抗すべきだったのだ。こんな思いをするくらいなら、あの時あの場で殺されていたほうがまだましだった——。

 深い悔恨の気持ちは、やがて激しい怒りへと変貌を遂げた。それから湧き上がった殺意の炎に油が注がれた。ぼくは畳を蹴るようにして立ち上がると、台所へ向かい包丁を手に取った。今からあの四人を、めった刺しにするつもりだった。本命である藤原は最後にするつもりでいた。それも簡単には殺さずに、充分にいたぶってから殺してやろうと思った。

 包丁を持ちながら、このまま外に飛び出すわけにはいかないなと思っているうちに、少しだけ理性が舞い戻ってきた。

「そういえばぼくは、藤原の家を知らない。他の三人の家もだ。藤原の自宅を調べるためには実家に帰る必要がある。実家に帰れば妹と顔を合わす可能性がある。それは絶対に避けたい。だとすれば、今日実行に移すのは不可能ということになる……」

 しばし途方に暮れる。

 だがぼくは、すぐに妙案を思いつく。

「そうだ! あのマリコとかいう女の家に行けば、藤原たちの住所を聞き出せるかもしれない!」

 だがここで、道路脇で嘔吐したことを思い出して気持ちが悪くなった。

 ぼくは頭を抱えた。

「いや、あの場所に戻ることなんて、とてもできそうにない……」

 理性が戻ったことで、四人を殺したあとの事態を想像することができた。自分は刑務所に行くことになり、一生を棒に振ることになる。報道が加熱すれば、家族、果ては親戚にまで被害は及ぶかもしれない。感情的な行為は、今の怒りを一時的に解消してくれるかもしれないが、その後のリスクを考えれば割に合わないと思った。

 強大な憎悪を晴らす方法がわからず途方に暮れた。そして沸騰した怒りは行き場を失い、軽いめまいに襲われた。気づくと胸が苦しくなり、うまく呼吸ができなくなっていた。ほんの数分前までは、怒りで何でもできそうなくらい全身が荒ぶっていたというのに、今では足がすくんで普通に歩くことさえ覚束ないように思えた。再びめまいに襲われ、台所にうずくまった。全身の血管が収縮して血のめぐりが悪くなったのか、急に身体が冷え込んだ。

 ぼくは身体を震わせながら、包丁の切っ先をリノリウムの床に突き刺す。それを何度も繰り返す。包丁を上下するたびに細かい傷が床にできるが、止めることはできなかった。目からこぼれ落ちる涙が床を濡らしていく。いつの間にか頭にもやがかかり、夢の中にいるような感覚になっていた。包丁の切っ先が床に当たる乾いた音が、どこか遠くのほうから聞こえてくるようだった。そしてその単調で無機質な音は、永遠に続くかに思われた——。

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