落ちた女

「いらっしゃいませ」

 店内に足を踏み入れるなり、挨拶の言葉が投げかけられた。平屋建てのスーパーマーケットは、雑多な音であふれていた。田島はレジに視線を走らせる。すぐに目的の人物は見つかった。七つか八つほどあるレジの一つに彼女の姿はあった。

 緑のエプロンをかけた彼女は、長い黒髪を後ろでていねいにまとめ、薄化粧でありながらも肉感的な色気を強く発していた。とくに、目元のほくろが妙につやっぽかった。

 田島はまじまじと彼女を見つめた。生まれもった美貌は、年齢に埋もれてはいなかった。だが、スーパーのレジにその美貌は不釣合いであり、またその顔からは、幸福の二文字は読み取れなかった。

 彼女のレジから客がいなくなるのを待ってから田島は動いた。相手はこちらに気づくと、お客様、どうかなさいましたか、というような顔つきで見てきた。がしかし、直後にはっと息を飲む。

「……もしかして、田島君?」

 田島は小さくうなずいて見せた。

 相手は驚いた顔のまま固まっていた。

 数秒間の気まずい沈黙のあと、田島は努めて静かな口調で言った。

「よかったら、少し話せないかな」

 相手は困惑した表情を見せたが、彼女は小ぶりの腕時計を見てから伏し目がちに答えた。

「仕事中だから、すぐにはちょっと……。五時で終わるんだけど……」

「なら、近くで待ってるから、仕事が終わったらどうかな」

 相手は少し考えるそぶりを見せてから答えた。

「それじゃあ、すぐそこの喫茶店で待っててもらえないかしら。五時を少し、過ぎるかもだけど……」

「わかった。そこで待ってるよ」



       *  *  *



「いったいわたしに、何の用が……」

 田島が去ったあと、辻村小百合さゆりはレジの前で困惑していた。高校時代の恋人が突然現れたのだ、動揺して当然だった。

 彼と最後に交わした会話を思い出そうと試みるが、何一つ思い出せなかった。しかしそれは、仕方のないことだった。なぜなら彼との別れは、予期せぬ形で唐突に訪れたのだから——。

 からだが震えた。あの日の悪夢がよみがえったからだ。数十年前の出来事だというのに、あの日のことは昨日のことのように思い出せた。学生時代の記憶が年とともに失われていく中、あの日の記憶だけは、まったく色あせることはなかった。今、彼との再会が引き金となり、あの部屋に漂っていた不快な匂いまでもが思い出され、吐き気をもよおした。

 小百合は不安がつい口元から漏れ出た。

「あの人、今さら何だっていうの……」



       *  *  *



「いらっしゃい。お好きな席へどうぞ」

 店に足を踏み入れると、カウンターにいた、ネルシャツと口ひげのマスターに笑顔で迎えられた。

 指定された店はすぐに見つかった。スーパーの周囲に喫茶店はそこしかなかったからだ。昔ながらの喫茶店という感じの店で、〝カフェ〟とは呼べなかった。クラシック・ロックが流れる店内は、席数が多い割には閑散としていた。今から混み合うこともないだろうと判断して、田島は店内中央の四人掛けの席に、店の入り口が見渡せる位置に座った。そしてオーダーを取りに来た店主にホットコーヒーを注文した。

 仕事柄、インテリアに造詣が深かったことから、田島は自然と店内を観察してしまう。店主の多少なりのこだわりは見てとれたが、店の調度品はどれも安物の寄せ集めで、田島を満足させるものではなかった。また自信有りげな顔で出されたコーヒーも決しておいしいとは言えず、一口飲んで終わりにした。もし、マスターの愛想が悪かったならば、とっくに潰れているのではないかと思った。

 時刻は四時半。辻村小百合さゆり——旧姓・勝野かつの小百合が五時に仕事を終えるのは承知していたから、スーパーに顔を出した時間は計算してのことだった。彼女が現れるまでの約三十分、心を落ち着かせるにはちょうどいい時間だといえた。

 話すことはとくに考えてはいなかった。近況をたずね、軽く世間話をし、そして気持ちよく別れられたらそれでよかった。当然、自分が現れたことで、彼女が当時のことを思い出して不快な気持ちになるのはわかりきっていたが、どうしても会って話す必要があった。正義が行われる前のみそぎとして——。

 当時の自分が、彼女には物足りなかったことは想像に難くなかった。だからこそあの男の、高校生らしからぬ大人びた魅力にあらがえなかったのだろう。とはいえそれも昔の話だ。彼女は彼女なりに苦しんだはずだ。今さらそのことで責め立てたところで無意味なことだろう。

 田島は少し達観した面持ちのまま、かつての恋人の到来を静かに待った。



       *  *  *



「ごめんなさい、お待たせしちゃって」

 小百合はスマホをテーブルの上に置いてから田島の向かいに座った。隣の空いている椅子に脱いだベージュのサマーコートと手提げのバッグを置いたところで、店主が注文を取りにきた。小百合はコーヒーを注文する。その際、田島のコーヒーが減っていないのを見た口ひげを生やした店主が、一瞬だが不満げな表情を見せた。田島がそれに気づいたかどうかわからないが、彼はていねいな口調で水のおかわりを頼んだ。

 店主がテーブルを離れたところで、小百合は沈黙を嫌って先に口を開いた。

「本当に久しぶりよね。何年ぶり?」

「三十年近くになるね」

「そっか、もうそんなに……」

 三十年という月日に改めて打たれ、小百合は少し呆然としてしまった。

 それから相手の左手薬指の指輪を確認してからたずねる。

「田島君、子どもは?」

「いや……。ぼくも妻も望んでたんだけど、結局……」

「そう……」

勝野かつのさんのほうは、お子さんは?」

 久しぶりに旧姓で呼ばれたことに新鮮さを覚えながら、三人いるわ、と小百合は答えた。

「男の子ばかり三人よ。もう毎日大変なんだから」

 ここで、小百合が注文したコーヒーと田島が頼んだ水がテーブルの上に置かれた。その後、他愛もない会話が続いた。長男が大学で野球をやっていることや、兄弟で性格がだいぶ違うというようなことを話した。おもに子どもの話題が中心となった。その間ずっと、田島の鼻の傷跡が気になっていたのだが、触れてはいけない気がして聞けなかった。それ以上に気になっていたのは彼の目的だった。彼が何を語るつもりでいるのか想像もできなかったが、それはきっと自分にとって愉快な話ではないだろうと思い、本題に入るのを恐れた。かといって、いつまでも世間話を続けるわけにもいかなかった。小百合は意を決して切り出した。

「田島君、今日はどうして、わたしに……」

 相手は水を一口飲むと、少し間を置いてから答えた。

「ぼくらはあのとき、とても曖昧な別れ方をしてしまったからね。だから気持ちを整理するためにも、一度会っておきたいと思ったんだ」

 別れの原因を作ったのが自分にあることを思い出して、小百合は自分の顔がこわばるのがわかった。

 こちらの緊張が相手に伝わったためか、彼は慌てて言葉をつないだ。

「いや、勘違いしないでほしいんだ。今日は過去のことをいちいち詮索しに来たわけじゃない。ただ会って、少しでも話ができたらと思って来ただけなんだから」

 詮索しないという言葉を聞いて、いくらか警戒心が解けたが、田島を裏切ったことへの罪悪感がジワジワとよみがえってきて胸が苦しくなった。そして、愚かで浅はかだった過去の自分に対して怒りを覚えた。気づくと、涙がこぼれ落ちていた。

 流れる涙に気づいたらしく、田島がばつが悪そうに少しうつむく。

 小百合はハンカチで涙を拭うと苦笑して見せた。

「ごめんなさい。いい年してみっともないわよね」

「そんなことないよ」

 小百合は涙でうるんだ瞳を田島に向けると、毅然とした態度を作って言った。

「本当なら、わたしのほうから田島君に会いにいくべきだったんだと思う。それも、もっと早くに。今さら遅いかもしれないけど、わたし、田島君に謝らなければいけないと思うの」

 田島は笑顔を浮かべた。

「もう過ぎたことだよ。さっき、詮索しないって言ったろ。今日はあることをする前に、一度君の顔を見ておきたかっただけなんだから」

「あること?」

 小百合はとっさに反応した。

 相手は失言に気づいたようだ。顔が若干ひきつっている。

「田島君。あなた、何をしようとしているの?」

 真剣なまなざしでもって聞く。相手は視線を外して、いや何も、と口ごもる。ようやく気づいた。彼がただの気まぐれで自分に会いに来たわけではなかったことに。彼は何かをしようとしている。それも何かよからぬことを——。

 バカな真似はしないでと言いたかったが、一度彼を裏切っている自分が言える台詞だとも思えず、その言葉は胸にしまうしかなかった。

 小百合は冷えたコーヒーを口に運ぶ。このとき、スーパーで働きはじめてすぐのころ、仕事帰りにこの店に来たことを思い出した。注文したコーヒーの不味さにそれ以降一度も足を運んでいなかったのだが、田島との待ち合わせにこんな店を選んだ自分に強い憤りを覚えた。他に適当な場所がなかったとはいえ、自分がとても安っぽく思えた。

 ここのコーヒーっておいしくないよね、と軽口でも叩きたかったが、彼とはもう恋人同士だったころの、何でも言い合えるような親しい間柄ではなかった。それを思うとまた、こみ上げてくるものがあり、涙がにじむ。ここでふと、テーブルの上に置かれたスマホに目が留まり、あのころは携帯なんてなかったんだよなと思う。そしていつの間にか、二歳年下の夫と田島を比べていた——。

 突然現れたかつての恋人は、夫とは比較にならないほど素敵な男性になっていた。少し頼りない印象のあった当時の面影はなく、年相応の落ち着いた雰囲気と品のよさを兼ね備えていた。昔から容姿はよかったが、そこに大人の色気が加わっていた。もっとも注目すべきは彼の経済力だったろう。着ているスーツと左手に巻かれた腕時計を見れば、夫の収入をはるかに超えていることは想像に難くなかった。彼のスーツ一着の値段で、夫が持つ安物のスーツが何着買えることやら……。

 田島の妻が妬ましく思えた。高校時代に間違いさえ犯さなければ、自分がそのポジションにつけていた可能性も少なからずあったのだ。それを思うと、無性に悔しさが込み上げてくる。目の前に座るかつての恋人は、ときおり白い歯を覗かせていたが、夫の黄ばんだ前歯を思い出すと、心底げんなりしてしまう。いったい何なんだ、この差は……。なぜわたしは、今の夫を選んでしまったのか。自分の美貌なら、いくらでも高望みできたはずなのに——。

 テーブルの下に視線を向けて、膝の上に置かれた両手をこすり合わせる。少し指が乾燥していた。ハンドクリームを塗りたくなった。


 夫となる男とは、二十五歳のときに友人の紹介という形で知り合った。べつだん強く惹かれたわけではなかったが、ルックスに合格点を出していたことと、相手からの積極的なアプローチもあって、何度かデートを重ねるうちに自然な流れで交際に発展した。共通の趣味はあまりなかったが、交際は割と順調に続いた。それは、からだの相性が良かったことがいちばんの要因だったろう。そして交際からおよそ一年後、妊娠をきっかけに結婚を決めた。孫の顔が早く見たいと言っていた両親も喜んでくれた。だがその選択を、小百合は一生悔やむことになる。

 当初、妊娠は、結婚に踏み切るいいきっかけになったと思っていた。だが、焦りの気持ちが、そう思わせたのだと後になって気づく。友人や会社の同僚たちが次々と結婚していく中、乗り遅れたくないという気持ちが結婚を急がせたのだ。当時は、若くして結婚することが一種のステータスだと信じていたから、社会人になって極端に出会いが少なくなった現実も後押しして、交際当初から懸念していた、相手の向上心のなさや収入面の不安などは見て見ぬふりをした。結婚すれば、すべての問題は解決するだろうと信じて——。

 後悔はすぐに訪れた。結婚後は専業主婦として気楽に暮らせるだろうとたかをくくっていたが、OLを辞めたことで、自由にできる金がまったくないことに気づき愕然とした。夫の収入だけでは少しの贅沢も許されず、必然的に、生まれたばかりの長男を保育所にあずけ、パート勤めを強いられることとなる。

 長男が独りでは可哀相だと思い二人目を作り、どうしても女の子がほしくて三人目を作り——結局、三人目も男だったが——そのため生活はどんどん苦しくなっていった。同時に、収入がまったく上がらない夫に対する憎悪も増していった。

 一部の幸運な友人たちは、生活費の心配をすることなくエステに行ったり、銀座などで高級ランチを楽しんだり、セールの時期など気にせず買い物ができたりと、自由気ままな暮らしを楽しんでいた。それもすべて、。自分よりも遥かに容姿で劣る友人たちのそんな生活を見て憤らずにはいられなかった。彼女らがストレスに無縁の生活を送っているいっぽうで、自分はスーパーのレジで愛想を振りまき続けているのだ、夫を憎んで当然だと思った。またそんな男を選んだ自分も許せなかった。結婚相手を妥協した結果、優雅にお茶も飲めない生活を強いられてしまったのだ。

 なぜ社会人になってからも、週刊少年ジャンプを毎週欠かさず読むような男を選んでしまったのか。なぜわたしは、向上心のかけらもない男を人生の伴侶にしてしまったのか。母性本能が思考を曇らせたことは間違いなかった。なぜなら、当初は相手の未熟さが、愛おしく感じられたほどだからだ。きっと自分と同じように、母性本能が邪魔をして、致命的な判断ミスをした女性は少なくないはずだと思った。

 当時は若さゆえに、二十代が人生の絶頂期だと信じ込み、その後も何十年となく人生が続くということを理解できていなかった。だからこそ、二十代での結婚に固執してしまった。結婚がゴールになっていて、結婚後のことは何一つ考えていなかった。いつまでも手を繋いでいられるような仲のいい夫婦でいられたらいいな程度の、漠然としたイメージしかなかった。今思えば、とんでもなくな人生設計だった。いちばん大事な選択を運任せにしたようなものだ。もう一つ言えば、当時は妊娠イコール結婚と決めつけてしまったが、堕胎という選択肢もあったのだ。もちろん長男を愛してはいたが、今の、この働きづめの生活を思うと代償は大き過ぎた。

 ときに結婚生活への不満から、結婚のきっかけとなった大学生の長男を見ては複雑な気持ちになることもあった。だが、次男や三男よりも、長男をより深く愛していた。はじめての出産の感動が大きかったせいもあるだろう。長男が誕生したときは、それまで籍は入れていたが、どことなく他人のようにも感じられていた夫との間に絆が生まれ、本当の家族になれたような気がしたほどだ。しかし、そんな気持ちも遠い昔の話で、今は家族とはいえ、夫は嫌悪の対象でしかなく、夫婦間での会話はもう久しく前からなくなっていた。髪も薄くなりはじめ、身だしなみにもほとんど気をかけなくなった夫は、休日はテレビを観てるかスマホでゲームをしているかで、一日中ソファに横になっていた。そんな姿を見るたびに殺意を覚えた。もっと若いうちに、さっさと見切りをつけて離婚に踏み切らなかったことが心底悔やまれた。

 すべてを投げ捨てて田島とやり直せたらという淡い願望が、ふと脳裏に浮かんだ。だが、そんな幻想はすぐに吹き飛んだ。そんなことは、とうてい不可能だとわかりきっていたからだ。あの日、甘い誘惑に負けて田島を簡単に裏切り、最悪の事態を招いてしまった。あの日わたしは、人生のボタンを掛け違えてしまったのだ。きっとあの日の罰を、今も受け続けているのだろう。それはこれから先も、生きている限り、ずっと続くのかもしれない——。

 コーヒーの香りで、意識は現実世界に引き戻された。冴えない喫茶店の店内が、急にリアルに迫ってくるように感じられた。半生を呪っている間、どのくらいの時が流れたのか。小百合は重苦しい沈黙を破るため、再び田島に問いかけた。



       *  *  *



「もう一度聞くけど、田島君、何をしようとしているの?」

 失言を悔いているところで、勝野小百合が再び聞いてきた。こんなはずじゃなかった。緊張をともなう会話など望んではいなかった。当然、真実は語れない。しかし、三十年ぶりに再会したというのに、ここで話を打ち切り、別れを告げる気にもなれなかった。そして結局、自分がやろうとしていることを仄めかしたいという誘惑には勝てなかった。

「勝野さんは、神の存在って信じてる?」

 彼女はとまどった顔をした。

「え、カミ……? カミって、神様のこと?」

 勝野小百合は左目を向けて聞いてくる。田島は彼女の、目の下のほくろを見てふと思う。そうやってほくろを強調しながら話す癖は昔のままだな、と。

「田島君は、いると思ってるの?」

「いるんじゃないかって思ってる。だけど……」

「けど、何?」

 田島はテーブルの水を一口飲んでから続けた。

「ぼくはときどき、こう思うんだ。正しく生きてる人間が、必ずしも幸せとは限らないってね。むしろ他人に迷惑をかけようが、好き勝手に生きてる人のほうが楽しんで生きているように見えることがある。非常識な人間は、気を使うってことをしないからね。どこにいたって我が物顔だろ? まわりに気を使っている人だけがいやな思いをするっていう、損な役回りを演じてるんだ。理不尽な話だけど、それが現実なんだと思う。もし神がいるなら、さじ加減一つで、常識人が生きやすい世の中にできると思うんだ。でも実際そうなってはいないから、神が存在しないのか、もしくは神にとってぼくたち人間は、アリに等しい存在なのかもしれない。誰も地面を歩くアリになんか、わざわざ注意を払うことはないだろ? だから、アリに等しいぼくらなんかに、神がいちいち関心を寄せるわけはないんじゃないかって思ってる。この考えは、ぼくが過去に一度、神の助けを切望したときに、何の助けも得られなかったという経験からきてるんだけどね。最悪のときに、神は見て見ぬふりだったよ。だからアリであるぼくらは、自分たちのことは自分たちだけで解決するしかないのかなって。世の中って、必ずしも正義が行われてるわけじゃないよね? だったら神に代わって、誰かが正義を行う必要があるのかなって」

 勝野小百合が緊張気味に聞いてくる。

「そ、それって、もしかして、田島君が、神様に代わって正義を行うってことなの?」

 その質問には答えず、田島は皮肉っぽい笑みを浮かべるだけにとどめた。すっかり冷めたコーヒーを口に運ぶ。ただ無駄に苦いだけの泥水を——。

 あの四人の顔を思い浮かべた。彼らはあれだけのことをしたにもかかわらず、その罪を償うことなく、今ものうのうと暮らしている。被害者が事件後も苦しみ続けているというのに、加害者は何食わぬ顔して日々の生活を送っているのだ。その許しがたい現実を改めて思い起こして、激しい怒りでからだが震えた。

 おそらく憤怒で顔が歪んでいたのだろう、勝野小百合が明らかに怯えた顔をしてこちらを見ていた。目が合うと彼女はすぐに視線を外し、気を紛らわすかのように目の前のコーヒーカップに手を伸ばす。すでに、まともな会話ができるような雰囲気ではなくなっていた。

 怒りで身が震える中、勝野小百合との再会は正解だったと思った。あの悪夢の間接的な当事者と会ったことで、怒りの炎が、これまで以上に燃えさかるのを感じとれたからだ。彼らの運命はすでに決まっている。だが、今ではない。それがもどかしかった。できれば今すぐにでも、全員まとめてなぶり殺しにしてやりたかった。

 怒りのあまり呼吸が乱れた。胸に強い圧迫感を覚えて息苦しくなった。うまく呼吸ができない。どうやら過呼吸になったようだ。生まれてはじめての経験だった。気づくと軽いパニック状態になっていた。目の前が白くかすみ、周囲の景色があいまいになる。平衡感覚が失われ、まわりが揺れ動いているのか、それとも自分が揺れているのかわからなくなる。自分を心配しているらしい女性の声が遠くのほうから聞こえてくるが、どことなくそれは他人事のように感じられた。自分を呼ぶ声がひときわ大きくなったところで、視界が怯えた女性の顔をとらえた。相手が勝野小百合だと認識すると突然我に返った。思わず喉からふり絞るように、すまない、と謝罪の言葉を口にしていた。

 体全体が熱く火照る中、人前で我を失ったことを恥じた。心臓が早鐘を打っている。胸に手を当て、乱れた呼吸をなんとか静める。いくぶん落ち着きを取り戻すと、残っていたグラスの水を一気に飲み干した。目的は果たせた。勝野小百合と再会したことで、復讐は正義だと、そう確信することができたのだから——。

「今日はありがとう。会えてよかったよ」

 田島は立ち上がると、伝票を手にレジへと向かった。

「あ、待って。田島君」

 勝野小百合の声は耳に届いていたが、ふり返りはしなかった。



       *  *  *



 田島はタクシーの後部座席で、過ぎゆく夜の街並みを眺めながら喫茶店での出来事を思い返していた。

 上昇志向が強かった当時の勝野小百合を思うと、今の生活は、彼女が望んでいたものではないことは明らかだった。かつての恋人のそんな現状に、最初こそ同情的になったものの、過去の最悪な出来事の発端が、そもそも彼女の軽率な行為が原因だったことを思うと、同情心は消え、当然の報いだと結論づけた。

 勝野小百合がこちらのランバンのスーツとオーデマ・ピゲの腕時計を盗み見ていたことには気づいていた。彼女は田島を値踏みし、おそらくは自分の夫と比較し、そして落胆の色を見せた。そのときの顔を思い出して心地よい優越感を覚えた。いまごろはきっと、現在の望まぬ境遇を再認識して嘆いているに違いない。もしかすると、いまだあの喫茶店で動けずにいるかもしれない。彼女を苦しませることが今回の目的ではなかったが、結果的にそうなったことに満足した。やはり彼女が、幸せな人生を手に入れることなど許されないのだ——。

 田島は上着の内ポケットに手を入れて、色せた茶封筒を取り出した。封筒の中には、三十年近く、どうしても捨てられずにいたものが入っていた。

「もうこれは必要ない。帰ったら処分しよう……」

 過ぎゆく夜景がなぜだか新鮮に感じられ、とても清々しい気持ちだった。勝野小百合との再会が心に溜まったおりを溶かし、視界をクリアにしたかのようだった。そして彼らに裁きをくだしたあかつきには、きっと生まれ変わった自分に出会えるはずだと思えた。その確信的希望に胸を弾ませた。

 田島は希望の余韻に浸るべく静かに目を閉じた。

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