避暑地へ

「はい、田島です……」

 緊張でやや声が上ずった。着信があったのは、もろもろの雑務を処理している午前中だった。非通知の表示を見て、間違いない、きっとこれだ、ついにやってきたのだ、と田島は確信をもって電話に出た。

 受話口からは、いやに落ち着いた感じのする男の声が聞こえてきた。

「ある方のご紹介を受けて連絡しました。本日の十二時に、銀座四丁目の交差点まで来れますか?」

 唐突にそう言われ、田島は少しばかりとまどいを覚えたが、唾をごくりと飲み込むと、ええ、だいじょうぶです、と答えた。

「それでは、対象者の情報と現金のご用意をお忘れなく。またこちらから連絡を入れます。あと本日は、昼食は控えたほうがよろしいかと思いますよ。ではまたのちほど」

 通話が切れたあと、田島はしばらく何も考えられなかった。視線を宙に向けたまま、背もたれに深く寄りかかる。わずか十数秒ほどの通話だったにもかかわらず、強い疲労感を覚えた。本格的に事が動きはじめたことに不安を感じずにはいられなかった。とはいえ、ここで引き返すわけにはいかない。過去を清算するためには、前に進むしかなかった。

 時間を確認した。約束の時間まで、まだ少し余裕があった。田島は内線で秘書にスケジュールの調整を指示すると、処理中だった雑務に取りかかった。



       *  *  *



 指定された時刻の十分前に、田島は人通りの多い交差点に到着した。百貨店が立ち並ぶ一画いっかくだった。足元には黒のキャリーケースを従えていたが、通行人や買い物客の邪魔にならぬようにと、田島は松屋銀座のエントランスにある大きな柱に身を寄せた。

 まだ残暑が厳しく、じっとしているだけでも額には汗がにじんできた。しかし緊張のためか、さほど暑さは感じなかった。手のひらが汗ばんでいたのは何も暑さのせいばかりではなかったろう。多額の現金を所持しているせいで妙に落ち着かず、自然とキャリーケースを握る手に力が入ってしまう。日中のこんな人気ひとけの多いところで警戒の必要などなかったろうが、自然と周囲に注意を払ってしまう。現金はしばらく前から用意してあった。当然、彼らの資料も——。

 本日のおおよその流れは事前に徳間から聞いてあった。また次のように念も押されていた。

「怖じ気づいたからといって、〝やっぱりやめます〟は通用しない相手だからね。だから、田島君、よくよく考えてから決断してほしい——」


 周囲は交通量が多かったため雑多な騒音にあふれているはずだったが、緊張下にあるせいか、今は無音に感じられた。音のない世界に一人でいるような感覚だった。手に持つスマホに意識を集中させる。待ち時間が異様に長く感じられ、息苦しくなってくる。向かいのアップルストアに目を向けると、店のガラス越しに青いTシャツを着た店員たちの姿が見えた。iPhoneの新作が出るたびに行列ができるのは確かここだったなと思った矢先に手元から音が鳴った。びっくりしてスマホを落としそうになる。田島は慌て気味に応答する。いつもの冷静さはなかった。特殊な状況下なだけに、今だけはどうしようもなかった。

 受話口から落ち着いた声が聞こえてきた。午前中に電話をかけてきた者と同一人物だろうと思った。次の指示は、裏通りへと誘導するものだった。通話を切ってさっそく向かう。このあたりはある程度土地勘があったため、迷うことなく目的地に向かえた。右手に王子ホールのある交差点を左折して、小さな雑居ビルが立ち並ぶ裏通りに入っていく。大通りと違って、人通りはだいぶ少なかった。二十メートルほど先の、歩道の脇に、黒塗りのセダンが後ろ向きで停まっているのが見えた。車種はメルセデス。ウィンドウガラスにはスモークフィルムが貼られている。何台か駐車されている中で、そのセダンだけが異様に目を引いた。メルセデスとの距離が十メートルほどになったところで、後部座席のドアが突然開く。中からブラックスーツを着た男が顔を覗かせた。男は手招きで合図を送ってきた。

 悪事に加担しているという後ろめたい感情があったせいだろう。田島は周囲を警戒しつつ、少しでも目立たぬようにと上体をかがめて先を急いだ。引きずるキャリーケースがガラガラと音を立てる。たどり着くと、まずはキャリーケースを男に渡してから、慌て気味に後部座席に乗り込んだ。このとき田島の鼻先の傷を、男がちらりと盗み見たことに気づいた。右ハンドルの運転席には、少し太った若い男が座っていた。彼もブラックスーツを着ていた。

 隣に座る男は、とても端正な顔立ちをしていた。薄いヒゲが顎先に生えていて、よく見ると肌が妙にきれいだった。肌質がいいからか、左耳のピアスが実によく映えている。年齢は三十前後といったところか。ブラックスーツを見事に着こなしていて、一寸の隙もない、切れる男といった空気をかもし出していた。

 男は人当たりのいい笑顔を向けてきていたが、すぐに田島の脳が危険な信号をキャッチした。この男を、〝決して敵に回すな〟というシグナルだった。男は自然界でいうならば、サメやライオンといった獰猛どうもうな捕食者の匂いを発していた。やけに落ち着きはらったその態度は、常人とは住む世界が違うことを痛烈に物語っていた。正直そんな男を前にして田島は、今回の依頼を後悔する気持ちが芽生えはじめていた。だがその感情を必死に抑え込む。しかし身体は正直だった。気づくと足が少し震えていた。

 そんな中、田島は隣の男からある香りを嗅ぎ取った。香水のような甘い香りではない。車の芳香剤とも違う。だが知っている香り。思い出せそうで思い出せない。何の匂いだ? いつの間にか、男の膝の上には小ぶりのアタッシュケースが置かれていた。ゼロハリバートンのものだろう。

「では田島さん、まずは携帯をお預かりします」

 田島がiPhoneを渡すと、男は電源を切ってから、ケースの中のクッション素材の上に置いた。

「あと、腕時計と財布もよろしいですか」

 ブルガリの腕時計とエルメスの長財布がiPhoneの横に並べられ、アタッシュケースは閉じられた。

「キャリーケースの中身を確認しても?」

 田島はうなずくと、ダイヤル錠の番号を男に伝えた。男はこちらが伝えた番号にダイヤルを合わせてロックを外す。中には新札の束がびっしりと詰め込んであった。手前には、オレンジ色の大判封筒があり、封筒の中には、〝彼ら〟の資料が入っていた。男は封筒の中身をさっと確認してから、新札の束を手に取り、真否を確認するかのようにパラパラとめくる。キャリーケースを閉じると、男は黒くて長細い物体を取り出した。30センチほどの電子機器で、それをキャリーケースにくまなく這わせていく。黒い電子機器は、ヴィィヴィィと低い電子音を響かせている。盗聴器や発信機の有無を調べているのだろう。確認が終わると、キャリーケースは空いている前の助手席に置かれた。

「失礼します」

 男はそう言って、今度はこちらの身体に電子機器を這わせてきた。間近で鳴る電子音が、不安な気持ちを助長させる。

「すみません、背中を空けてもらえますか」

 男にそう言われ、田島は上体を前に少し倒した。電子機器が空いた背中をなぞっていく。

「ありがとうございます。問題なさそうですね」

 男は電子機器をしまうと、円筒形のピルケースを差し出してきた。

「これを飲んでもらう必要があります。安心してください、体に害のない睡眠薬みたいなものですから。現地に着くまで、眠っておいていただく必要があるので——。とくに持病とかはお持ちではないですよね?」

 これも事前に徳間から聞かされていたが、それでもいくらか抵抗を覚えた。本当にただの睡眠薬だろうか? 眠っている間に、現金が奪われるか、もしくは殺されはしまいか? 不安は正当なものだったが、ここで拒めば、もう二度と目的を達するための手段はなくなるに違いなかった。これまで同様、悔恨の日々が待っているだけだ。求めるものの大きさを考えたら、ある程度のリスクはやむを得ないのだろう。田島は覚悟を決めて、右手を差し出した。

 手のひらに、小さな白い錠剤が二錠のせられた。まん中に切れ目が入っている。それを口に放り込み、渡されたペットボトルの水で一気に流し込む。

「目を閉じて楽にしていてください。そのうち眠くなってきますから」

 言われた通りに目を閉じた。すぐにエンジンが掛かって車体が静かに唸り、メルセデスが走り出したことがわかった。

 緊張のせいで、身体はだいぶ硬くなっていた。こわばりをほぐすために肩を軽く回してから背もたれに深く身を沈める。そしてそのまま走行音に耳を澄ませる。音の変化から、どうやら裏道を抜け、交通量の多い大通りに入ったことがわかった。いつ眠くなるんだ、と思ったところで意識が朦朧もうろうとしはじめて、いつしか田島は深い闇に落ちていった。



       *  *  *



「田島さん、着きましたよ」

 肩を軽く揺すられ、田島はメルセデスの後部座席で目を覚ました。

 降り立った場所は、人里離れた山奥だった。高い木々に囲まれていて、都心と比べるとだいぶ涼しかった。夏は避暑地として用いられる地域なのかもしれない。太陽の傾き方から、午後の三時ごろだろうと思われた。であれば、三時間は車に乗っていたことになる。とすれば、ここは都心からだいぶ離れた場所ということになる。とはいえ、車が走りっぱなしだったという保証はない。また当然、向かった方角すらわからない。結局のところ、ここがいったいどこなのか皆目見当がつかなかった。

 視線の先には、三階建ての居住用の建物があった。デザイン性に富んだモダンな建物で、一階部分が車庫になっていて、外付けの階段を上がった二階部分が玄関のようだ。二階と三階は側面がガラス張りで、ここからだと、天井にぶら下がる照明器具がはっきりと見てとれた。

 キャリーケースはすでに建物内に運び込まれたとの説明を受け、田島は車中をともにした肌が妙にきれいな男のあとに続いて三階建ての建物に向かった。途中、少し太った男とすれ違う。メルセデスを運転していた若い男だ。男は軽く頭を下げて通り過ぎていく。しばらくしてふり返ってみると、若い男はメルセデスのナンバープレートを手際よく取り替えていた。

 先導する男は二階部分の玄関には向かわず、車庫になっている一階部分を目指していく。車庫は、二つあるうちの一つのシャッターが開け放たれていた。車庫内は薄暗かったが、暗がりの中でも清掃が行き届いているのがわかった。中には、ナンバープレートが外された紺色っぽいバンが二台駐車されていた。

 男は車庫の奥まで進んでいき、突き当たりのドアを開ける。男に続いて中に入ると、そこは広さ十畳ほどの、物置きのようなところだった。裸電球が天井から光を放っていて、並んだスチール製の棚の上には、カーシャンプー、ウォッシャー液、箱に入ったバッテリーなど、主に車関係のものが整頓されて置かれていた。空気清浄機も壁際で稼働していて、全体的に小奇麗な印象だ。

 男は奥の棚の前で立ち止まる。目の前の棚には、溶剤の入った英語表記のボトルが隙間なく並べられていた。男がスマホを取り出す。ちらりと男の肩越しから画面を覗くと、あるアプリを立ち上げたことがわかった。画面中央に南京錠のマークが配置されたアプリだ。しばらくすると、六桁の暗証コードのようなものを入力する黒い画面に切り替わる。男は下部に表示されたテンキーを使い、六桁の数字をすばやく入力する。直後に、地面が軽く振動するように唸ったかと思うと、突き当たりの棚と奥のコンクリートの壁が同時に右側に動いていった。

 棚と壁が動きを止めると、横幅一・五メートルほどの空間が現れた。奥には、鉄製の下り階段が顔をのぞかせている。まるでスパイ映画の世界に飛び込んでしまったかのような錯覚を覚えた。睡眠薬の影響で、頭はまだ若干重たかったから、なおさらそう感じられたのかもしれない。

 前に立つ男が足を踏み出すのと同時に、奥の空間に明かりが灯った。上部に人感センサー付きの照明がついているようだ。田島は男のあとに続いて、鉄製の螺旋らせん階段を降りていく。一歩一歩降りていくごとに金属音が響き渡る。四方はコンクリートの壁に囲まれていて威圧感があった。いくらかくだったところで、上方から扉が閉じる音が聞こえてきた。階下に降り立つと、狭い通路が続いていた。やはりそこもコンクリートの壁だった。照明は点いていたが、無機質で、とても冷たい感じがした。冷房が効いているのか、少しひんやりしていた。

 通路を歩きはじめてすぐに、強い香りが鼻腔を刺激した。今になって気づく。車中で男から感じ取った香りの正体を。おこうの香りだったのだ。お香の香りは、この空間と不釣り合いな印象を受けた。匂いに気づいたことを察したからだろう、前を歩く男がこちらに顔を向けてきた。

「少しお香の匂いがきついですよね? ですがお香には、空間を浄化する作用があるらしいんですよ。ここは悪い霊には、事欠きませんから」

 男はそう説明すると、皮肉っぽく笑って見せた。

 地下の通路を五、六十メートルほど進んだところで、田島は白を基調とした広いオフィスに通された。余計なものはあまり置かれておらず、シンプルでメタリックな空間だった。近未来が舞台のSF映画に登場しそうなオフィスだった。

 シルバーのアルミデスクに一人の女が座っていた。女は田島の姿を確認するなり、黒のオフィスチェアからすっと離れて、微笑をたたえながら歩み寄ってきた。男なら誰もが息を飲むほどの美貌の持ち主だった。洗練されたデザインの、まっ赤なスーツに身を包んでいる。

 女はスタイルのよさも際立っていた。まるでパリコレのファッションモデルがこちらに向かってくるように感じられた。重力に反発するように上を向いたバスト、腰の位置は高く、くびれは見事な曲線を描き、足首はキュッと引き締まっていた。女が目の前に立つと、赤いヒールのパンプスを履いた女の視線の高さは、田島とさほど変わらなかった。まっ赤に塗られた形のいい唇が開き、美しい白い歯が顔を覗かせた。

「アサミと申します。田島様、お目にかかれて光栄です」

 赤いマニキュアが塗られた白い手が差し出され、田島も右手を前に出す。手を握られた瞬間、思わず息を呑む。なんて柔らかい手をしているんだ——。ゾワゾワっと右手に鳥肌が立つ。さらに女から漂うすこぶる高級な甘い香りが、鼻腔を刺激してエロティックな気分にさせる。まさに、〝魔性の女〟という言葉がぴったりの女だった。

 アサミ——彼女はそう名乗った。浅見だろうか? もしくは麻美か? 名字なのか下の名前なのか判断しかねた。そもそも、本名かどうかも怪しかった。年齢は、二十代の後半くらいだろうか。女の全身からは、何事にも動じなさそうな、超然とした空気が強く発せられていた。例えるなら、不動明王が女の皮を被ったかのようだ。

 田島は彼女の存在感に圧倒された。こちらが気後れしてしまうような、ある種の威厳が彼女にはあった。

「では、いろいろとご説明させていただきますので、どうぞこちらに」

 アサミにうながされて、田島は革張りのデザイナーズチェアに座った。彼女も反対側の椅子に座ったことで、アルミのデスクを挟んで向かい合うかたちとなった。デスク上にはiMacが置かれていて、キーボードの上にこちらが用意したオレンジ色の封筒があった。デスクの下に目を向けると、現金を入れたキャリーケースが置かれていた。

 アサミの黒い瞳がこちらを見据えてくる。その際立った美貌に、どうしても気持ちは浮ついてしまう。室内では重厚な交響曲が静かに流れていたが、目の前の女はブラームスが実によく似合うと思った。

 車中を共にした男から感じ取った危険な匂いは、彼女からもひしひしと伝わってきた。対峙していると不安が募り、今回の訪問が間違いだったのではないかという疑念が湧いてくる。しかしもう、後戻りはできなかった。徳間が言っていたように、〝やっぱり止めます〟は通用しない相手なのだ。ここは腹をくくるしかなかった。

 それでも彼女の目を見ていると落ち着かなくなってしまう。黒い瞳の奥には、どんよりと曇った底しれぬ闇が広がっていて、魅力的ではあるが底無しに無慈悲で、病的でもあり、この世のものとは思えぬ異質な輝きを放っている。その目は、車中を共にした男の目とも似通っていた。その事実に薄気味悪さを感じたが、同じ世界に生きていると、目つきまで似てくるのかもしれないと思うにとどめた。

 そんな中、女の背後に目がいく。一枚の油絵が、白い壁に飾られていた。絵画の舞台は岩だらけの荒野。そこに裸の男女が一人ずつ描かれていた。女が五寸釘ごすんくぎのようなものを手に、裸の男に襲いかかっているという構図だ。這いつくばる男は、怯えた様子で片手を女に向けている。涙は描かれていなかったが、明らかに泣き顔だ。作品は全体的に暗いトーンで描かれ、背景が荒いタッチなのに対して、人物は写実的に描写されていた。とくに男が受けた無数の刺し傷は、こちらにまで痛みが伝わってくるほど生々しかった。

 弱い男に、強い女——。古い作品のようだが、もしそうであれば、女性の社会的地位の向上を予見したかのような作品だと捉えることもできる。いんうつで不気味な作品ではあったが、このオフィスには妙にマッチしていた。

 田島が壁の絵に見入っていると、アサミがうれしそうに説明する。

「十九世紀ごろに活動していた、あるイタリア人画家の作品です。あまり知られた画家ではありませんが、苦痛をテーマにした作品を数多く残しています。わたしはこの作品がとても気に入ってまして、見てると不思議と心が休まるんです」

 アサミはここでクスクスと笑って見せる。とても無邪気な笑い方だった。

「こんな絵、普通の会社で飾ったら怒られちゃいますよね。でもここは、何でも許される特別な場所ですから」

 アサミはそう言ったあと後ろを向いた。彼女の背後には、ドリンク専用の小さな冷蔵庫が置かれていた。ミネラルウォーターがきれいに並んでいるのがガラスのドア越しに見える。

 冷えたペットボトルをアサミから受け取ってはじめて、田島は喉がカラカラに渇いていたことに気づかされた。



       *  *  *



 差し出した水をクライアントが喉に流し込んでいく。どうやら、よほど喉が渇いていたらしい。緊張している姿が可愛らしかった。

 アサミは目の前の男を値踏みする。見た目は悪くないが、自分を欲情させることはないだろうと判断した。一言でいえば、典型的な、〝いいひと〟だった。ただし、高い鼻に走る傷跡だけはセクシーだと思った。

 目の前の男には、〝アサミ〟と名乗ったが、それは本名の山川麻美マミを訓読みにしたもので、今では本名よりも、ビジネスネームのほうが気に入っていた。


 出身は大分県だった。大学への進学を機に上京した。東京への憧れがとくにあったわけではなかったが、地元よりも刺激があればと期待した。ところが、東京という街は、やたらと人が多いだけで、望んでいたような刺激的な生活が訪れることはなかった。大学では、緊張感のない周囲の学生たちになじむことができず、しだいに孤立するようになり、いつしか客の少ないレイトショーを独りで観るのが習慣になっていった。

 自らの嗜虐しぎゃく性には、アサミは幼少のころから気づいていた。だから好んで観る映画は、過激な暴力シーンのあるものが多かった。中でも、クエンティン・タランティーノがプロデュースし、イーライ・ロスが監督したスリラー映画、『ホステル』は大のお気に入りで、鑑賞時にはとりわけ興奮を覚え、危険な東欧世界に強く魅了された。

『ホステル』は、劇場公開時に失神者が出たとも言われるいわくつきの作品で、誘拐した観光客を、金持ちたちが快楽のために拷問するというストーリーだ。続編となる『ホステル2』では、前作では語られることのなかった犯罪組織の裏側が描かれており、こちらも興味深い内容となっている。

 作り物の残虐描写では飽き足りなくなると、アサミは本物のスナッフフィルムを求めて、アンダーグラウンドの世界を目指すようになる。違法ドラッグが当たり前のように取引され、拉致、監禁、強姦、暴行、殺人といった、ぶっそうな言葉が日常的に耳に飛び込んでくる環境に自ら足を踏み入れていったのだ。日常からかけ離れたディープな世界は、精神的な猛禽もうきん類がたむろする、まったく異質な世界だった。このころから待ち望んでいた刺激的な生活がはじまっていく。

 大学卒業後はとくに就職することなく、在学中から行っていた、恋愛詐欺などで生計を立てた。詐欺に遭いやすい人種は一定数存在するから仕事に困ることはなかった。例えば、映画館に一人で来ている——見るからに恋愛経験がなく、かつ、そこそこ経済力がありそうな——男性客に狙いを定めると、「いい映画でしたね。もしお時間あるようでしたら、お茶でも飲みながら作品について語りませんか?」と誘い、その後、何回かデートを重ねたのちに、高額な商品をローンで購入させたり、悪質なマルチ商法に契約させたりした。

 恋愛詐欺が成立する背景には、人は誰しも、自分だけは騙されないという思い込み——これを真実バイアスと呼ぶ——と、外見に自信のない男たちでさえも、自分の魅力を心の底では信じているところにある。要はそこを、美貌とスキルでうまく突くわけだ。親族以外の異性から優しくされたことのない男たちは、いとも簡単にアサミの罠に落ちていった。

 キラキラした瞳で相手を見つめ、質問を繰り返しては相手の話にいちいちうなずき、すべての発言を肯定していく。多くを語る必要はない。人は他人のことなど興味ないのだ。興味があるのは自分のことだけ。それに、そもそも異性に縁のない男たちに、〝質問〟というコミュニケーションスキルは持ち合わせていない。だから、ひたすら話を聞くだけでいい。その実、虚栄心の塊のような男たちは、自分のことばかりひたすらしゃべり続け、どんどん気分をよくしていき、警戒心を薄れさせていく。

「わたし、俗に言う、イケメンと呼ばれるような人たちって苦手なんですよね。何だかああいう人たちって、軽薄そうなイメージがあって」

 この発言に、見た目に自信のない男たちは歓喜する。アサミを運命の人だと信じ込み、ある者は濃厚な夜の営みを夢想して心拍数を上昇させ、ある者は思考を大きく飛躍させ、結婚まで意識したに違いない。プライドのやたら高い彼らは軽んじられると激高するが、逆に重んじてやれば、とたんに機嫌を良くし、しかも多分に洩れず尊大な態度をとるようになる。そのような態度をとらせたらアサミの勝ちだ。頃合いを見て、困っているから助けてほしいと懇願すれば、運命の人を失いたくない彼らは、恋人気取りでいくらでもアサミに協力した。思考力の鈍った男たちから騙し取るのは滑稽なほど簡単なことだった。当然、アサミが罪悪感を感じることなどない。むしろ彼らの不運を、毎度笑い飛ばしていたくらいだ。容赦なくむしり取ったあとはすみやかに立ち去るわけだが、高額なローンだけが残った男たちは、手すらも握らせぬ女に浮かれていた自分に茫然自失となったことだろう。

 詐欺などは騙されるほうが悪いとよく言われるが、アサミの人目を引く美貌とスキルを前にしては、騙された男たちに同情すべきだったろう。恋愛経験の少ない男たちに、魔性の魅力から逃れる術はなかったのだから——。悪女の魅力には逆らえない。それが世の鉄則なのだ。

 アサミは非モテ男だけでなく、ときには高齢者もカモにした。うまい投資話を持ちかけては大金を騙し取るのだ。思考力の鈍った老人たちは、甘い儲け話にいとも簡単に喰いついてきた。実年齢は六十代、七十代であっても、知能は小学生の低学年並みに落ち込んでいるのだ。騙すのはわけない。何も考えずに生きてきた結果だろう。脳は使わなければ面白いほどに退化する。そんな老人が腐るほどいるのだから、いまだに高齢者相手の詐欺があとを絶たないのは当然だ。今後、どんなに強く注意喚起されようとも、無能な老人は増え続けるいっぽうだから、詐欺グループたちの金脈はまだまだ膨大だ。今スマホで単純なゲームや漫画で余暇の大半を潰しているような連中が、数十年後にはカモられるのだろう。世間を舐めて雑に生きてきたツケは、必ず支払うことになるのだ。

 老人相手の詐欺は、楽に大金が入ってきたが、あまり積極的には行わなかった。年寄りを相手にしていると若さが奪われていくようで、あまり気分がよくなかったからだ。詐欺以外にも、刺激と金を求めて際どい仕事をいくつもこなしてきた。その間、警察の手が伸びかけたこともいくどかあったが、どれも持ち前の強運で見事に切り抜けてきた。そうこうしているうちに、アサミの存在は裏社会の実力者の耳に届くようになり、運命に導かれるままにたどり着いた先が、この場所だったというわけだ。



       *  *  *



「——以上がだいたいの流れになります」

 田島はアサミの説明にうなずいて見せた。

 いくつか質問したい点があったが、それは彼女から促されたときに聞くことにした。

「まあ、ここで事細かく説明するよりも、直接ご覧いただいたほうがわかりやすいでしょう。今から施設をご案内いたしますね。ではその前に……」

 アサミはそう言って、デスクの引き出しから円筒形のピルケースを取り出した。

 それを見て、またか、と田島はうんざりしてしまった。普段は風邪薬も飲まないだけに、一日にいくつもの薬を服用するのは抵抗があった。

 どうやら今の気持ちが伝わったようだ。アサミがことさら優しい口調で説明してきた。

「これは強力な酔い止め薬になりますが、もちろん、服用は決して強制ではありません。ですが、これから見ていただくものは、はじめての方には少々刺激が強すぎるかと思うので、飲んでおいたほうがよろしいかと」

 だがなお、服用には抵抗があった。しかし、郷に入っては郷に従えで、ここは意地を張るところではないと思い直して、田島は了承の意を込めて小さくうなずいて見せた。

 田島は受け取った錠剤をペットボトルの水で胃に流し込む。一息ついたところで、アサミがすっと立ち上がる。

「では、参りましょうか」



       *  *  *



 前を歩くアサミのあとに続いて、田島はコンクリートで囲まれた狭い廊下を進んでいく。しばらくして、両開きのドアに突き当たる。丸い小窓が付いた、観音開きのドアだった。

 ドアが開かれて抜けた先は、研究所をほうふつとさせる広々とした空間だった。広さは一般的な体育館ほどだろうか。四方の壁はコンクリートの打ちっぱなしで、床は白いリノリウムだ。天井はさほど高くなく、パイプダクトが剥き出しになっている。総ガラス張りの部屋がいくつも連なっていて、そこでは白衣を着た医者風の男たちが目についた。

 驚く他なかった。こんな僻地へきちに、このような施設があることを——。

 呆然としていたところでアサミが説明してきた。

「ここはかつて、旧日本陸軍が所有していた研究施設だったそうです。戦時中、ここでは生物兵器の開発が秘密裏に行われていたらしく、多くの外国人捕虜が実験の犠牲になったとも言われています。まあ真偽のほどは定かではありませんが、戦後の動乱の影響でこの場所の存在は軍や政府からも忘れ去られ、今では誰にも知られることのない秘密の施設となっているわけなんです」

 アサミの説明を聞きながら、入り口からいちばん近い部屋に何気なく顔を向けたときだ。常軌を逸した物体が視界に飛び込んできて、田島は半ばパニック状態になった。周囲の景色が曖昧になり、足元がおぼつかなくなる。胃が強くうごめいたかと思うと、次の瞬間、未消化物が食道をせり上がってきた。慌てて口元を押さえ、嘔吐を食い止める。

 視界が捉えたのは、ステンレス製の椅子にからだを固定された男の姿だった。それもただ固定されているだけではなかった。顔を含む上半身の皮膚が、すべて剥がされていたのだ。

 田島は口元を手で押さえたまま、胃の奥から込み上げてくる酸っぱいものを必死に抑え込んだ。もし、先ほど意地を張って、アサミが勧めた薬を飲まなかったならば、リノリウムの床を汚していたかもしれない。今は羞恥心から、彼女に顔を向けられなかった。

「田島様、だいじょうぶですか?」

 アサミにちらりと顔を向けるが、彼女は何食わぬ顔をしていた。

 胃の状態が落ち着いてきたところで、田島は姿勢を正してハンカチで口元を拭った。しかし、視線は前述の男から逸らしたままだった。この間、あちらこちらから悲鳴が聞こえてきたが、皮膚を剥がされた男に心を囚われていて、数々の悲鳴は意識の外側にあるように感じられた。

 あんな姿になっても死ぬことを許されないなんて、いったい彼は何をしたというのだ……。

 男について詳しい事情を知りたいと思った。だが、それをアサミにたずねたところで、守秘義務だとか言われて拒絶されるのがオチではないかと思い、湧き上がった好奇心は胸に仕舞い込むことにした。

 アサミが目元に笑みを浮かべて言ってきた。

「いかがです? もしご自分が、あのような姿になられたらどう思われます? ええ、当然、今すぐ殺してくれと願いたくなることでしょう。そんな思いを心底憎む者に味合わせることができるんですよ。こんな素敵なことって、他にあると思いますか?」

 うれしそうに語るアサミを見て、背筋に冷たいものが走った。

「田島様、どうされます? 見学を続けられますか? もう充分ということでしたら、この辺で切り上げられては。見ず知らずの人間のあのような姿は、見慣れない方には、さぞご不快でしょうから」

 アサミにそう促されたが、このまま情けなく退散する気にはなれなかった。田島は折れそうな心を無理に奮い立たせた。

 あいつらの成れの果てだと思えばいいんだ! あの男だって、誰かの怒りを買ったに違いないのだから!

 田島は両目をぐわっと見開くと、生きながらに生皮を剥がされた男を真正面から見据えた。

 男はクリーンルームのような部屋の中で、立方体の透明なビニールで囲われていた。目の前には丸い鏡が置かれており、まぶたのない目は、否応なしに自分の醜い姿を見続けることになる。顔の皮膚を剥がされているため表情は読み取れなかったが、想像を絶する苦痛を味わっていることは間違いないだろう。アサミが言ったように、今すぐ殺してくれと毎日願っているに違いなかった。

 そのときだ。男の眼球が突然動き、視線がかち合った。田島は思わず悲鳴にも近い情けない声を上げてしまった。そのあとは、強烈な悪寒にしばらく耐える必要があった。アサミの前で醜態をさらしたことを恥じ入らないでもなかったが、今の衝撃がその思いを曖昧にさせた。

 こちらの醜態など目にしなかったような調子でアサミが口を開く。

「田島様。よろしければ先ほどの部屋に戻って、プランをごいっしょに検討させていただければと」

 視線は合わせずに、田島はもう充分だとばかりにうなずいて見せた。立ち去る際、無数の悲鳴が耳に届いてきたが、幻聴だと強く自分に言い聞かせた。



       *  *  *



「最長の十年プランですと、一名につきこちらの金額になります」

 iMacのディスプレイに表示された金額を見て、田島は目がくらみそうになった。

 おおよその金額は徳間から事前に聞いてあったとはいえ、いざ支払いとなると、どうしても怖じ気づいてしまう。内心の動揺を悟られぬよう平静を装うも、緊張が相手に伝わっていないか不安になる。

 四人を最長プランにすれば、その総額は途方もなかった。個人資産だけで四人を十年プランにするのは不可能だった。会社の金を当てにすれば、あとあと面倒なことになりかねない。とはいえ、先ほどの光景を思えば、たとえそれが一週間であったとしても、想像を絶する地獄であることは間違いなかった。

「この他に、保証金として二千万円が必要になります」

 これも徳間から聞いていた。復讐はやたら金がかかる。

「年に四回までの訪問は個別の料金に含まれておりますが、それを超える訪問やご要望に関しましては別途料金が発生いたします。ですが、そのつどお支払いいただくのはご面倒でしょうから、別途発生した料金につきましては保証金の中から差し引かせていただきます。たびたび大きなお金を動かすのは何かと不都合でしょうから」

 確かにその通りだと思った。

「こちらの保証金につきましては、契約満了後に残金を返金させていただきますのでご安心を。では続きまして、肝心の拷問方法ですが——」


 料金と拷問方法の一通りの説明を聞いたあと、しばし熟考した結果、年数に関しては、藤原を十年、他の三人を三年にすることにした。拷問方法は、「おまかせコース」にした。

 アサミはキーボードをカタカタ言わせ、ぱっとディスプレイをこちらに向けて言った。

「こちらが費用の総額になります」

 三人を三年にしてもなお、その金額は途方もなかった。しかし田島は、表情を変えることなく冷静にその金額を受け入れた。自分はこの日のためにがんばってきたのだ。金は使ってこそ価値がある。蓄えはだいぶ減ってしまうが、またがんばって稼げばいいだけの話だ。全員を最長プランにできなかったことは悔やまれたが、彼らの苦しむ様を想像して、感激で胸が押しつぶされそうになった。とくに藤原の苦悶に歪んだ顔を思い浮かべて、十年間、地獄を味わってから死んでいけ、と心の中で叫んでいた。

 アサミが補足の説明をはじめた。

「もしも対象者が、ご希望の年数に達する前に何らかの原因で死亡した場合ですが、その場合の料金は、死亡した日までの金額になりますので、納めていただいた金額の差額を後日返金させていただきます。また今後、を希望された場合ですが、延長される場合は差額分のみのお支払いで、短縮に関しましては、差額から十パーセントの手数料を差し引いた金額がご返金額となりますので、あらかじめご了承ください」

 田島は今の説明に黙ってうなずいて見せたが、心の中では反論していた。

 年数の短縮? そんなことするわけないじゃないか。むしろ彼らには、永遠の苦しみを与えてやりたいくらいなのだから——。

 アサミの説明はさらに続いた。

「中学時代の同級生四人が、同じ時期に失踪しては目を引きます。つきましては、一人ひとりの身柄の回収には、適度な間隔を空けたいかと」

「適度、とは?」

「そうですね。安全を期すためにも、半年から一年くらいは」

「そんなに……」

 落胆するこちらをなぐさめるかのように、アサミは優しい口調で言葉を継いだ。

「おわかりいただきたいのですが、わたくしどもが提供しているサービスは極めて特異なものですから、できる限りリスクを抑えていく必要があります。これは、われわれのみならず、田島様をはじめとしたクライアント様全員をお守りするためでもあるのです。確かに、これ以上待たされる田島様のお気持ちは充分お察しします。ですが、四人の命運はすでに尽きていることをご理解くださいませ。これまでは彼らへの怒りを発散できず、溜め込むだけの毎日だったでしょうが、今日からは、近い将来必ず訪れる確定事項として、彼らが苦痛を味わう日を心待ちにすることができるのです。それは、日曜日の次には必ず月曜日が訪れるくらい確実なことなのです。ですから、準備が整うまで少しお時間をいただくことにはなりますが、必ずご満足いただける結果となりますことをここでお約束いたしますので、その日が来るまで今しばらくの間、田島様にはご辛抱いただければと思います——」



       *  *  *



 アサミはオフィスの前で長身のクライアントを見送った。

 クライアントが去った瞬間、自分の顔からすっと笑みが消えたことをアサミは感じ取る。今は極度に冷淡な顔が、浮かび上がっているに違いなかった。アサミはくるりと向き直ると、歩を進めて自分のデスクに戻った。

 デザイナーズチェアに背を預けて、デスク上の写真を手に取る。先ほどのクライアントが用意したものだ。写真の男たちが待ち受ける悲劇を思うと、自然と口元がほころぶのがわかった。


 アサミの仕事は、サディスティックな性質を十二分に兼ね備えている必要があった。当然アサミはその資質を充分に持ち合わせていた。

 今の仕事に活かされている嗜虐しぎゃく性は母親ゆずりのものだった。幼少のころから、いじめられるくらいなら、いじめる側に回りなさいと諭され続け、その言いつけを忠実に守ってきた。常にいじめグループの中心的存在となり、生来的な弱者を見つけては徹底的にいじめ抜く。標的はクラスメートだけでなく、気の弱い教師も対象となった。弱っているクラスメートや教師らをさらに衰弱させていく行為は、性的な興奮を伴うものだった。今のライフスタイルも学生時代とさほど変わりなかったが、唯一の違いは、人を痛めつけて報酬がもらえることだった。


 組織のクライアントには、警察や大手マスコミ各社の上層部、高名な政治家も名を連ねていた。そのため、業務上で起こるある程度の過失は簡単にもみ消すことができた。とはいえ、今のネット社会では、ほんの些細なことが破滅につながりかねない。ゆえに、クライアントの新規獲得はきわめて慎重に行われた。

 基本的に組織は、億万長者のクライアントを抱えていたから、新規の顧客を必要としなかった。しかし、懇意にしている優良顧客からの紹介となれば、当然、無下には断れないのが実情だ。

 金はあるが口の軽い人間はクライアントとして相応しくない。TPOをわきまえずに不用意な発言をされてはかなわない。ふざけ半分で書き込みをされ、下手に注目されようものなら、瞬く間にネット上に拡散されてしまう。仮にそうなったとしても、多くの者が陰謀論だと決めつけて事態はすぐに収束するだろうから屋台骨が揺らぐことはないだろう。とはいえ、クライアントからの信用度は落ちてしまいかねない。ゆえにそういうリスクを未然に防ぐためにも、事前調査で危険な兆候が見られた場合には、紹介者がよほどの人物でない限り依頼は断っていた。


 この施設に送り込まれてくる者の中には、まっとうな生活を送っていた者も少なくなかった。運悪く金持ちの怒りを買ってしまったばかりに、地獄の苦しみを味わっているのだ。そんな者たちは、自分の不運を嘆くしかなかったろう。また、子どもや孫をいじめたという理由で、小学生や中学生といった若年者が送り込まれてくることもあった。相手が子どもとあっては、さすがのアサミとて同情を禁じ得なくもなかったが、子どもへの拷問は、成人を相手にするとき以上の興奮をもたらすのも事実だった。

 アサミ自身も今の立場を利用して、個人的な恨みを果たしていた。大学時代に陰でアサミのことを罵っていたビッチは、およそ三年前からこの施設に収監され、生き地獄を味わっている。

 最近では、著名人からの依頼も増えていた。主に、彼らのSNSに誹謗中傷めいた書き込みをした者たちが、次々とここへ送り込まれてくるのだ。顔を含む、上半身の皮膚を剥ぎ取られた男もそうだ。高名な作家の依頼によるものだったが、「冒頭の数行で駄作とわかる。読む価値なし。時間の無駄」と書き込み、当の男は作家の逆鱗に触れたのだ。ちなみにその作品は受賞こそ逃したが、直木賞にノミネートされている。

 皮膚を剥がされた男が少しでも相手を思いやれる人間であったならば、地獄を経験することもなかったであろう。たった数行の書き込みが人生を狂わせた。いや、おそらくあの男は、それまでさんざん悪意をまき散らしてきたに違いない。小心者が匿名性をいいことに好き勝手やってきた結果があれだ。因果応報の法則が正確に作用したのだ。

 アイヒマン——悪名高きナチスの高官——は、強制収容所へいかに効率よくユダヤ人を移送するかに尽力したらしいが、アサミはいかに大きな苦痛を与えるかに尽力してきた。顔と上半身の皮膚を剥ぎ取って、その姿を鏡で見せつける方法などは好例だ。死ぬに死ねない状態がまだあと何年も続くのだ、当人が味わう苦痛は計り知れない。『マーターズ』という映画の一場面からアイデアを得たのだが、あの方法には問題もあった。皮膚を剥ぎ取ったことによる感染症防止のため、二十四時間、無菌状態を保つ必要が生じたからだ。それは他の方法に比べてコストと手間がかかるため理想的とはいえなかった。しかし、アサミが何気なく口にした提案をクライアントがえらく気に入ったため、感染症による早期死亡のリスクも了承の上で実行に移された。

 長期に渡る拷問は、苦痛の強度にも気を配る必要があった。早く死なれてはクライアントの不興を買うため、苦しめつつ生かし続けなければならない。しかし、衰弱した者にあまり無茶はできない。免疫力の低下にともない、死亡のリスクが総じて高まっているからだ。とはいえアサミは、それを考慮に入れながら常にギリギリのところを攻めていった。それがこの仕事の醍醐味ともいえた。

 拷問を受ける者たちの苦痛にあえぐ姿は、アサミに強度の性的興奮をもたらした。そんなとき下腹部は、あふれんばかりの分泌液でうるおい、立つのもやっとの状態になる。そこで耳に息でも吹きかけられようものなら、声を上げて腰から崩れ落ちてしまうことだろう。だからこそ、アサミの挑戦はこれからも続いていく。自分の欲望をさらに充たしていくためにも、究極の苦痛を貪欲に目指していくつもりだった。

 アサミはデスク上の写真を見ながら目を細めた。

「さて、この四人には、どんな苦しみを与えてあげましょうか」

 口元に冷笑が浮かんでいるのを意識しながら、アサミは静かにキーボードを叩きはじめた。



       *  *  *



「田島さん、ここで降りていただけますか?」

 メルセデスの後部座席で目を覚ますと、窓の外はすっかり暗くなっていた。寝起きのせいで身体はだるく、頭も少しぼんやりしていた。

 隣に座る肌が妙にきれいな男から、預けていたスマホと腕時計、長財布を受け取る。

「あと、こちらが、緊急連絡用の携帯になります」

 男が差し出してきた小さなビニール袋には、小型の黒い携帯電話と充電器が入っていた。

「電話帳に番号を登録しておいたので、何かあったら電話してください。こちらは携帯の番号で発信者を認識できますから、お名前を名乗っていただく必要はありません。ただ一つだけ、頭に入れておいてもらいたいことがあります。万が一にもそんなことはないかと思いますが、仮に第三者から強要されて電話をかける必要に迫られた場合は、話しはじめる前に、軽く咳払いをしてもらえますか。あとはこちらで対処しますので、そのまま第三者の指示に従ってもらってかまいません」

 頭はまだ少しぼんやりしていたが、話の内容は理解できたので、田島は小さくうなずいて見せた。


 降ろされた場所は、交通量の少ない幹線道路だった。周囲の建物はまばらで、遠方に目を向けると、都庁をはじめとした新宿の超高層ビル群が見えた。タクシーならここから自宅まで、十五分もかからないだろう。軽くなったキャリーケースを手に、すぐにはタクシーを拾わず、夜の冷気で眠気が完全に覚めるまで待つことにした。時間を確認する。腕時計の針は、十時二十分を指していた。

「今日のことは、現実だったのだろうか……」

 不思議な感覚だった。午前中に最初の電話をもらってからずっと、夢の中をさまよっていたような気がした。あのアサミという女も、幻だったのではないかと訝ってしまう。現実世界にあれほど完璧な女が存在していることがいまだ信じられなかった。彼女は、驚くほど美しい顔に恐ろしいほど冷たい目を宿していたが、今思えば、その目には、何だか郷愁を感じさせるものがあった。だがなぜそう感じたかは、説明がつかなかったが——。

 基本、準備が整うまで向こうから連絡はない。さいは投げられたのだ。あとは待つだけだった。当然、非合法なビジネスだから契約書などあるわけがなく、仮にもし彼らが仕事を放棄したとしても、法に訴え出ることはできない。とはいえ、彼らが無責任に仕事を放棄するとは思えなかった。特別な事情でもない限り、報酬に見合っただけのことは必ず成し遂げてくれるだろう。今日の訪問がそれを証明していた。

「これでやっと正義が行われる……」

 田島は夜空を見上げながらつぶやく。再び時間を確認する。十時二十六分になっていた。五分ほどの間に、眠気は完全に消えていた。このときふと、次のような考えが頭をよぎった。

「復讐が行われる前に一度、彼女に会うべきかもしれない——」

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