第三十六話

 そのとき、慌ただしい人々の騒めきがあり、戸ががらりと開けられた。高子たかこ王女ひめだ。

「お父さまはどこなの!」

 顔が青ざめていた。


「そちらに……」と真榛まはりが言うと、高子たかこ王女ひめは今上帝と清白王きよあきおうが寝かせられている部屋に入って行った。

「お父さま……!」

 高子王女ひめ祈言きごんを書いて詠唱する。

 その真剣なさまを見ていたら、少なくとも今上帝に呪をかけたのは高子王女ひめではないことが分かった。


「どうしてよ。どうして解除げじょできないの⁉ 璋子しょうこ璋子しょうこも呼んで来るわ!」

 取り乱す高子王女ひめ真榛まはりが「落ち着いてください、高子王女ひめ」と声をかけた。璋子しょうことは璋子王女しょうこひめのことで、高子王女ひめの妹、つまり清白王きよあきおうのもうひとりの異母きょうだいだった。


「落ち着けるわけ、ないじゃない! 真榛まはり、なんとかしなさい! 東宮学士とうぐうがくしでしょう!」

 高子王女ひめは涙を流していた。

「お父さま……!」

 高子王女ひめはそこで、あたしをきっと睨みつけて言い放った。


「こうなったのも、嘉子かこの穢れた血のせいです! 嘉子かこ妃さえいなければ、お父さまは初めからお母さまと婚姻を結んでいたわ。そうして、こんなふうに倒れることもなかった……‼ あの方がきさきとなって、清白王きよあきおうを生み、そして死んでからは皇后にまでなった。許さないわ!」

「高子王女ひめ……」


 それは哀しい叫びだった。

 高子王女ひめの、というよりも、むしろ聖子せいこ皇后の。

 高子王女ひめはずっと、聖子皇后の呪詛のような恨みを一身に受けて育ってしまったのだろう。

 高子王女ひめはでも、自分の父のことを恨んではいない。むしろ大切に思って慕っている。それが分かって、胸の奥がひりひりと傷んだ。それは、聖子皇后の苦しみでもあると感じたのだ。


嘉子かこ妃が文字の能力もないのに妃になって。だから、天皇家は弱体化したのよ、さらに。みんな、嘉子かこ妃がいけないのよ……!」

 高子王女ひめ嘉子かこ皇后を直接知らない。だけど、この恨みの深さは何だろう? ――こわい。呪をかけるつもりはなくとも、文字の能力を使わなくとも、呪詛することは可能なのかもしれない。



 そのとき、今上帝が「高子……」と小さく呟いた。

「お父さま!」

 高子王女ひめはすぐに今上帝のもとに行き、手を握る。


 ……どうして。

 どうして、憎み合ったりしないといけないのだろう。

 どうして、相手を大切に思う気持ちを、そのまままっすぐに届けられないのだろう。

 今上帝はまた瞳を閉じた。

 高子王女ひめは今上帝にとてもよく似た姿をしていた。

 聖子皇后の思いを想像すると、それもまた胸を重く圧し潰すのだった。


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