1939年 夏
1939年 ハンガリー郊外
(最初のブタペスト危機で最初に対応し、戦争を生き抜いた一人の兵士が余生を穏やかに過ごすためにここミュンヘンで隠居している。)
私は当時、ハンガリーに駐留していた第2師団の第13歩兵大隊の参謀でした。
どうして駐留していたのでしょうか?
それは駐留部隊が派遣される約1年前に起きたルーマニア内戦に敗北し、共産主義政権が発足したことにたいする警戒ですね。当時ルーマニアとハンガリーでは国境問題があってとても危ない状態でね、そのため派遣されました。
当時の待遇は最低限との感じでしたね。まだ我々が国防軍の人間なので親衛隊等のナチ政権と関わりがあった組織の人間たちよりはましなのでした。
当時のハンガリー国民の対独感情は反露・親独と反独・親露の二つに分かれていましたからね。
しょうがないといえばしょうがないのでしょう。
いつから駐留していましたか?
あれは38年の夏から駐留していましたね。
ちょうどここミュンヘンでバルカン半島についての領域設定が行われたイスタンブール会議、モロトフ=リッペン会談の方がわかりますかね。それが始まってすぐに命令が来て、3日後に派遣されました。
会談中にもう準備を命令されてましたから、会談前に独ソ両国間で公式な会談の前にバルカン半島の分割は秘密条約やなにかですんでいたんじゃないでしょうかね。
まだ両国はなにも言ってないですがね。
このことは私の邪推なので真に受けないでくださいね(少し笑みを浮かべる)
それでは、あの穴が出現した日にはなにをしていましたか?
あの日、ですか…
そうですね、あれは確か駐留を始めてちょうど一年でした。あの日私は非番だったので朝の7時に起きて、その後食堂で朝食を食べ、
友人であるフランツと他愛の無い話をし、フランツはその日は仕事だったのでその後別れ
今日一日なにをするか部屋を掃除しながら考えていたらですね、たしか10時ぐらいでしたかな。地元警察か軍の要請でブタペスト郊外の林に調査に向かってほしいと言われて分隊を一つ派遣しました。その後どうも分隊との通信ができなきなったらしくもう一個分隊を派遣しました。そしてその分隊からの通信であの日、あの都市でなにがあったかを聞きました。
その分隊からは、最初に派遣した分隊は2名を除き全員死亡。そして正体不明の敵がいること。そして地元警察と憲兵隊が交戦しており、駐留していた部隊に対し出動要請をだしていたこと、憲兵たちは劣勢であることを知りました。
その連絡を受けたあとあなた達はどうしましたか?
どうしたかと言うと、どんな風に?
例えば、援軍を派遣したとか…
あぁ、私達はその連絡を受けたあとすぐにルーマニアとの国境から130キロ地点にある師
団司令部兼監視所に連絡をしました。そして私達は基地の防衛体制を整え、師団司令部の司令をまちました。
援軍を派遣しなかったのですか?
はい、私達はあくまでもドイツ国防軍の国防軍人で、ドイツに忠誠を近いドイツ本国の総統閣下指揮下の部隊です。たとえハンガリー軍からの悲痛な助けを聞いても勝手に部隊を動かすわけにはいきません。
それではその後届いた師団司令部からの指令はいった…?
師団司令部からはこちらの部隊が到着するまで基地の防衛とブタペスト市民の救助活動をしろとのことでした。
その司令を聞いたあと私達はすぐに二個小隊を市街地に派遣し、残りを基地の防衛にあてました。
その時の市街地のことはどう聞きましたか?
あくまで私は聞いただけで実際に見ていないのですが、通信では地獄だとのことです。
たくさんの死体があり、中世の時代に使われていたような甲冑を着たやつとかよく見たことない生き物が正規兵、民間人問わず虐殺をしている、ブタペストで交戦している、相手がよくわからない術か何かを使用していて押されている。二個小隊では歯が立たないので応援をよこせとのことでした。そのことを聞いた時私は混乱していて相手の攻撃を見間違えたんだとおもいました。だってそう思うほかないでしょ。非科学的で非現実的なことだったんですから。
しかし、それは見間違えでもなんでもありませんでした。
どういうことでしょうか?
味方の航空部隊が命を賭けて低空飛行で市街地の偵察を行ったんですね。そこで取られた写真をみて驚きましたよ。人の手から火が放出されているじゃないですか。それを見て驚いたのは本国も同じだったようで直接基地に電報で、しかも平文ですよ。ブタペストに送っている部隊を直ちに引き上げること。この基地を放棄しいま向かっている第2師団の本体と合流、その後ブタペスト市街を放棄したらブタペスト郊外に防衛戦を貼れとのことでした。
その司令を派遣している小隊に伝えるため通信しようとしたところ繋がりません。
取り残すには行かないので私は大隊長に分隊を派遣することを進言しました。
あなた、どうしてそこまでするのかって顔をしてますね。
それは派遣された小隊の中にフランツが指揮する小隊があったからです。
彼とはね士官学校時代からの友人でね。色々と世話になっていてね。先日彼は恋人と籍を入れたばっかりで。彼を置いていくわけにはいかないと思ってですね。
いま考えると青二才的な考えでとても恥ずかしいですがね(虚ろな目をして笑っている)
少し話がずれましたね。
それで私の進言を聞いた大隊長は一個分隊と進言した私をその分隊につけて、市街の方へ送りましたね。
途中まではトラックで送ってもらったのですが、車中は地獄でしたね。トラックの中からは本来非番で命を落とす可能性がゼロだったはずの分隊員の冷たい視線を、外には市街地から逃げてくる市民と撤退するハンガリー軍と警官達、そして負傷兵を運ぶ車両や、車両に乗れずに歩いて撤退する負傷兵が多くいました。
そして市街地からは時折爆音が聞こえてきます。
恥ずかしながらここで私は初めてここでここは戦地なんだと気付かされました。
そしてトラックで郊外まで運んでもらったあとトラックにはそこで待機してもらい、私達は市街地へ急行しました。
そして20から30分ぐらいしたら市街の入り口らしきところに到着しまして、そこを見た時はなにも声がでてきませんでした。
市街地は火の海に包まれ、兵士が塀や半壊した家屋を遮蔽物とし敵に対して攻撃していました。
それを見ているとですね、向こうの部隊の隊長らしき人物が近づいてきてドイツ軍に対してどのような指令がでているのかを聞かれました。よく話を聞くと彼らは通信が遮断されていて指令が入ってきていないとのことらしいのです。
私は彼にドイツは撤退すること、そしてそのことを派遣した小隊に伝えにきたこと、申し訳ないがハンガリー軍がどのような判断をしたかは知らないことを伝えました。そして彼にドイツの部隊を知らないかと聞くと彼はこの先の時計台のところに陣地を構えていて今どうなっているかは知らないと教えてくれました。
その後私達はその場をあとにし、時計台に向かいました。
そして10分ぐらい歩いて時計台につきました。そしてそこには確かにドイツ軍の小隊陣地がありました。人数は多くありません。せいぜい12、3名でした。
そこで戦闘をしている者に指揮官の所在を聞くと時計台の中にいるとのことだったので
中に入りました。
するとそこには見覚えのある顔がありました。そうフランツが居たのです。
私達二人はすぐにお互いに気づきました。
そして彼は精一杯の笑顔でこう言いました。
「どうしたんだい?そんな汚い顔をして」と言いましてね。
その時「私はお前もだろ」と言い、私の顔も少しばかりか笑顔になりましたね。
そして私は彼に指令を伝えました。そしたら彼は負傷兵を運ぶための車両はあるかと聞かれましたね。そこで私ははじめて奥に負傷兵がいることにきがつきました。
途中まで乗ってきたトラックになら載せられると思い、彼に提案し彼もそれを承諾しました。
そして生き残っている兵をかき集めました。そこには全員で16名しかいませんでした。
その生き残った者たちで撤退をはじめました。
しばらく歩くと悲鳴と怒号、そして気味の悪い笑い声が聞こえてきました。そして、その正体を確かめるべくその音の発生源に向かい、私はそこで初めて敵を見ました。敵のゴブリンの小隊です。丁度敵の小隊は捕虜として捕まえた一般市民で遊びながら略奪をおこなっていて、こちらはまだ見つかっていませんでした。
私はフリッツに
「捕まっている彼らを助けよう」と、提案しました。
しかしフリッツは
「ここで発砲し、もし助けられたとしても他の敵の部隊に見つかって終わりだ」と反論されました。
そして彼は続けて
「あいつらが強姦や略奪をしていて注意がそれているうちに通過するぞ」と言ってきました。
最初、私は彼に対し嫌悪感をいだきましたね
婦女子が陵辱されている中、我々はそれを囮に逃げる。
これほど屈辱的なことはありません。
この提案を聞いたとき長年の付き合いで彼を理解していたはずなのに、きっとこれを提案した彼はいままで人間の皮をかぶってきた悪魔なんだと思ってしまいました。
でも彼の考えは正しいかったです。
こちらには人員の余裕も弾薬の余裕もなく、向こうには援軍がいる。もし助け出したとしてもトラックには余裕がありませんでした。
その後途中で本隊からはぐれてしまったハンガリーの兵士を数名拾い、無事市街地を抜け出せました。数名の犠牲者は出てしまったことは悲しいですがそれはどうにもなりません。
トラックとの合流地点に着き負傷者をトラックに載せる途中、なにやら銃声が複数聞こえてきます。
どこかで戦闘をしているようでした。
私達の隊はまだ少ないですが交戦能力が残っていました。一回の戦闘分ならなんとかはなるぐらいです。
私たちは急いで銃声の方向へ向かいました。そしてしばらくするとだんだんと戦闘しているのが見えてきました。
そこで戦闘していたのは軽装の騎士と先程小隊の所在を聞いた部隊でした。数は騎士のほうが多く、多数に無勢でハンガリーの部隊側に勝機はありません。
それを見た私達は側面から奇襲を仕掛けました。これは効いたようで相手が若干混乱していることがわかりました。
そして相手は撤退を開始していきます。よし、勝てた。助けることができたと思った矢先数本の矢が飛んできました。幸い私はすぐに気づき木の後ろに隠れたので何事もありませんでした。他の者も同じような感じでした。しかし、一名だけ矢を受けたものがいました。
そう、フランツでした。彼は新兵をかばって矢を心臓に受けていました。
即死です。
彼は最期になにも言わずに消えていったのです。その後私が何をしたのかは覚えていません。ただ疲れていたのは覚えています。
その後基地から完全に撤退する前に彼の部屋にある遺品をできるだけ持っていこうとおもいました。彼の部屋にあったのは士官学校を卒業した時に撮った写真と、奥さんと一緒に撮った写真、そして彼からの手紙だけでした。
すみませんね、こんなに長く喋ったのは久しぶりなものでね
(そういって彼は咳き込みながらコーヒーを飲む)
もし、体調が悪ければ今日はここまでで大丈夫ですので
いえ、まだ喋らせてください
わかりましたが、無理になったら言ってくださいね
ご心配ありがとうございます
でも、この体もそろそろだと思っているので最後に私の友人や部下が生きた証を残させてください
では話に戻るのですが、私が後に『ブタペスト市街戦』と呼ばれる戦いから命からがら帰還したあとしばらくはなにもやる気が起きませんでした。
親友を亡くしたのもあるのですが、なにより自分の無力さに絶望し落ち込んでいました。
でも、そんな状態でも戦況は動きます。
やがて帰還してから約2日後、当時私達が駐留していた基地も危険になり撤退することになりました。撤退時私は中隊長含む幹部が全員戦士した中隊、といっても中隊と呼べる数はいなかったのですが指揮を取っていました。
その時中隊が壊滅状態になった時に撤退を指揮していた下士官に言われたのです。
「いつまで大尉殿はそんなにヘタれているのですか?これでは戦死された友人殿が報われないですね」と。
いま聞くと明らかに煽っていますが、当時の私には違う刺さり方をしまして
なんといいますか、恥ずかしいのですがその言葉を聞いたとき私は
「あいつの敵をとらなければ」と思ったのですよ。
その後の私の働きは自分で言うのもなんですが、戦争が勃発する前よりも良く成っていました。撤退後我々は欧州大戦のときのように塹壕を掘ってひたすら穴に籠もって防衛戦を展開していたのですが、防衛戦開始後二週間後に私は中央に呼び出されました。
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