第3話 楽しくて悲しい時間

 諒は元々楽しい場所が好きだった。このBarを気に入るのは自然な流れだ。気に入ったというならこれからも頻繁に通うだろう。

 それなら自分がいなくなる方が良い。


(ここは諦めて新しい場所を探そう)


 それからも諒は色々話しかけてくれた。昔の話が多く、懐かしい。

 俺は諒の話に耳を傾けていたが、自分からは諒の近況について一切何も聞かなかった。

 今日別れたら、もう二度と会わないつもりでいたからだ。

 それでも諒と話すのは楽しくて、もっと話したいと気持ちが揺れる。けど、それはいけない。きっと辛い結果にしかならない。

 俺は葛藤を打ち消すように、諒の声に集中してしまう意識を生演奏にそらしながら、いつもより早いペースで二杯目のカクテルを飲んだ。もう、一刻も早く店を出てしまいたかった。会話は楽しくても、諒が笑うたびに喉が締まるように苦しくなる。

 今、こんなに楽しそうにしていても、諒には大切にしている相手が家で待っている。その相手に、俺が見たことのない笑顔を見せるだろう。

 そんな様子を勝手に想像して悲しくなって、俺は子供みたいだ。いい加減、全て過去に出来たらいいのに。


「それじゃ、俺そろそろ帰るわ」

「え? もう帰るの?」

「あぁ、いつもこんなもんだから。それじゃあ元気で」

「あ、ちょっと……」


 二杯目を飲み終えた俺は、荷物を手にしてそそくさと立ち上がった。止めようとする諒に構わず、自分の分の代金を置くと出口へ向かった。

 あまりに急すぎて不自然だったかもしれない。昔から嘘をつくのは苦手だ。酒だって、いつもはもっとだらだらと飲んで帰る。正直飲み足りない。

 それでも、早くあの場所から、諒の隣から逃げたかった。

 これでいい。そう自分に言い聞かせても後ろ髪を引かれる。

 あの柔らかな声が耳に残る。もっと聞いていたかった。

 気持ちをごまかすために別で飲みなおすことも考えたが、思いつく場所がなかった。


(もう家に帰ろう)


 歩いていれば落ち着くはずだ。

 しかし店を出た後、すぐに違和感を覚える。階段を下りている途中から視界がぐらぐら揺れている。最初は地震が来たのかと思ったが、階段の下を歩いている人達は誰一人そんな話をしていない。さらに頭が波打つように痛みだして、胃がひどく気持ち悪い。


(まさか悪酔いしているのか? 嘘だろ)


 酒は強くもないが弱くもない。しかし今日はいつもに比べて全然飲んでいない――諒に会って緊張したのか?

 どうにか最後まで階段を降りた後、建物の影でしゃがみこんだ。ここは住宅街ではなく夜の繁華街だ。一人くらい酔っ払いが座りこんでいようとよくある光景で、気に留める人はいない。

 しばらく座っていたが吐き気が収まる気配はなく、だるい頭を抱える。こんな時はすべて吐き出してしまえば楽だとわかっているのに、昔から俺はそれが上手く出来なかった。路地裏の夜風は生ぬるくて、とてもじゃないが酔いを冷ます助けにはならなかった。


「ゲン担ぎにきたのにな……」


 終電までにはどうにかしたい。

 時々、頭上からカンカンカンと音がする。階段を行き来する客の足音だろう。このビルには他にもいくつか店がある。何回かその足音が通り過ぎるのを聞いているうちに、ふと諒の顔を思い出した。


(あいつ、もう帰ったかな)


 階段を下りている人の姿など見る余裕がなかった。なかなか治まらない頭痛にうんざりしながら、諒が自分に気づかずに帰ることを願った。

 しかし数十分後、その願いはむなしく散ることになる。


「あれ、セノ?」


 頭痛が収まるより先に、諒が再び俺の名前を呼んだ。

 

『大丈夫だから、先帰れって』

『どこがだよ。大人しくうちに来なって』


 しばらくそんな押し問答を繰り返した後、結局俺は諒の部屋にいた。


『こうやって家まで送っていくのとどっちがいい?』


 そういいながら軽々と俺を担いだ諒に根負けしたのだ。繁華街を荷物のように運ばれるなんて冗談じゃない。

 諒の住む家は繁華街のある駅から数駅だというが、まだ酔いがまだ収まっていない俺はとても駅まで歩けそうになかった。諒の肩を借りて立ち上がると、近くに待機しているタクシーを捕まえて二人でそれに乗った。

 


 諒の部屋へ着いても一向に悪酔いは治まらない。まだ頭が痛くて支えが無くなるとふらついて床に座りこんだ。保冷剤をタオルに包んでくれたものを受け取り、諒が促すままにソファへ移動して横になると、そのまま背中を丸めた。


「ほら、単身赴任中だから家族の心配もいらないって言っただろ」


 諒は水をグラスに注ぎながら呆れているが、悪酔いで部屋の様子をうかがうどころじゃない。それでも部屋には自分達以外の気配を感じない。思わず納得しそうになるが、問題はそこじゃない。


「そんな事言ったって気ぃ使うだろ……」

「男の人連れ込んだところで文句言う奥さんはいないよ」


 諒の言い分は否定出来ないが、俺はその男友達に恋愛感情を持っている身だ。ただ気まずい。

 しかしその思いだけで動けていたら、今頃この部屋には来ていない。

 こつんと音がして視線だけ移すと、テーブルに水の入ったグラスが置かれている。諒がいれてくれたそれを飲もうと顔をあげた瞬間、パシャパシャとシャッターを切る音がして思わず体を起こした。


「おい。今、写真撮っただろ」

「セノが奥さん心配するって言ったんだろ。潔白の証拠ってやつ?」

「夫婦喧嘩の最中に、俺は酔って死んでる姿を見られんの? 最悪……」

「昔、俺が負けて八つ当たりしている姿を写真撮ったのは誰だっけ?」


 諒がしれっと話した出来事には心当たりがあった。

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