救いは壊された。

譜錯-fusaku-

消失。いや、破壊。

 私は彼が嫌いだった。理由なく、ただ、嫌いだった。

「それじゃあ、始めてください」

 はっきりとした嫌な号令の声が響く。それを聞いて生徒たちは席を立ち上がり、己が持ち場に歩き始める。先生は腕を組み、満足そうに首を数回振った。暑苦しい蝉の声が聞こえる。窓から差し込む光が眩しい。

 いそいそと文化祭準備が始まる中、私だけが机に座って黒板を見つめていた。心の中で「嫌い嫌い」と呟きながら。

 クラスの中央委員を担う彼は、人をまとめ上げるのが上手かった。そして、もちろん成績はいつも学年一位だった。先生からもいろんなことを任され、信頼されていた。はっきり物事を話したし、彼のいうことはとてもわかりやすかった。

何かの発表があるとなれば、短時間でハイクオリティのスライドを作り、ものの数分ですらすら話せるように練習だってしていた。そんなことしなくても、軽く私を超える質は出せるくせに。不必要なことを一生懸命して、全てで完璧をかっさらう。そんな彼が嫌いだ。

 嫉妬? そう思う?

 確かにそうかもね。そう言われればそんな気もする。

 何か嫌なことでもされたの? そんなこともあったのかも。いや、なかったわ。

 「嫌い」という感情につけられる理由は全て、私を正当化するためだけにしかない。そんな気がする。

 決定的なのは私は彼が嫌いだったということだけ。


 彼が横に立てばすぐさま離れたくなった。

 声を発すれば耳を塞ぎたくてたまらなかった。実際に何度目を伏せたことか。

 彼の作る文章はとてもうまかったのだけれど、それを見習いたいという気持ちと読みたくないという気持ちがいつも私の中でせめぎ合っていた。

 ただ、面倒だったのは彼が必要かと問われれば私は間違いなく即座に必要であると断定してしまうことにある。

 私はそれを嫌がっていない。本当に彼は不可欠だと思う。

 要る、けど嫌い。

 自分で必要だと願うくせに、側に立つと反吐が出る。席を立ち、すぐにでもどこかに逃げ去りたくなる。そんな自分は好きではない。でもそれよりも彼への嫌悪感が凄まじかった。

 特に学園祭は地獄のようだった。クラス演劇を行うにあたって、彼の演技を見ていなければならなかった。その裏の努力。想像するだけでとてつもない量とわかる。いや、彼は天才だからあまり練習していないのかもね。まあ、そんなことはどうでもいい。全てが嫌いだったのだから。頑張っていようといなかろうと。何をしていようが。

夏の暑さ。鬱陶しい蝉の声。そんなもの、どうでもいい。

 やっぱり単なる嫉妬ね。もうそれでいい。

 幾度自分の目の前から消えてしまえと思ったことか。初めからいなければと頭に浮かんだことか。それよりも彼の存在が要ることはもちろん知っていたのだけれど。

 私の中に、尊敬と嫌悪は同時に存在した。


   +++


 地獄の学園祭が終わった帰り道。私が歩く道路の並木はいつも通りそこまで活気的ではなかった。燦々と降り注ぐ日差しはチリチリと私を焦がす。髪はきっと熱くなっているだろう。眩しさに目が眩む。

 前を歩く彼を追い抜かす。そんなことは造作もない。慣れてなどおらず、早足にもなるのだが。

 柄にもなく街路樹や店の看板に視線をおくりながら目に映るものに集中する。今ならどんなくだらない広告だって見つめていられる気がした。さっさと電車に乗りたい。今日も最悪の一日だった。


「あの」


 声が聞こえてどきっとする。聞こえなかったふりをしよう。そう思ったものの止まった足を不自然に動かすわけにもいかず、私はなにも言わずに振り返った。

 うざいうざいうざいうざい。嫌いだ。嫌いだ。

 そんな言葉が頭を駆け巡る。


「僕のこと、避けてる?」

「は?」


 向かいの街路樹を観察する。葉にあたる太陽光の煌めき。木漏れ日と影の作る暖かい日陰。

 なぜそんな当たり前のことを聞く。純粋そうに聞こえる質問に腹が立つとともに、彼に伝わっていたことが怖くもあった。

 彼への嫌悪を自分の頭の中で完結させていたい。それとともに、周りに知ってほしい。矛盾だ。


「い、や。なんとなく。あ、違ったら——」

「——何の用?」


 まじまじと彼を見つめる。視界に入れるのさえ吐き気がする。

 制服はやはり指摘どころがない。髪も乱れひとつなく、完璧としか言いようがない。嫌いだ。


「え、あ」


 なんだ、こんな時だけ白々しく。私がお前が嫌いなんだ。いやなんだ!

 目を合わせることはせず、ネクタイの結び目を見つめる。青に黄色の線。こんなテカテカした素材だったのか。外された第一ボタンによって、シャツは第二ボタンでシワを作る。嫌いだ。背負われたリュックは左右均等で、片手がそれにかかっている。


「ぼく、その、君が——好きなんだ」


 はあ?

 バカにするなよ。いい加減にしろ。私はお前が嫌いなんだ。お前の全てが。優等生ぶって、周りに気に入られて、そんなお前がいるだけで、私は吐き気がするんだ。お前がいるだけで、学校生活が嫌になるんだ。勝手になに言ってるの?

 溢れる言葉は脳を満たす。そこから外へは一言も出ない。

 むだな皺ひとつないシャツが見える。白。


「五月蝿いっ」


 突然の大声に彼は少し怯んだようだった。

 勝手なこと言いやがって。私は、私は、私は。


「私は、お前が大嫌いだっ」


 言い終えた途端、踵を返して走り出した。自分勝手。その究極。妄想で全てを完結させたい。妄想が作り出したこの現実であれ。本当に今日は最悪な日だ。これ以上にない日だ。

 こうして私は心の居場所を失った。

 彼を嫌って、理由を隠して。「嫌い」の文字を盾にして。

 私は学校の中での安定を保っていたのに。

 最悪だ最悪だ。最低だ。

 さっきまでのままでいたかったのに。それだけが良かったのに。お前が私をどう感じていようと関係ない。私はお前が無条件に「嫌い」で。そのままで。

 角を曲がって。道の暗い石タイルしか目につかなくなって。飲食店の看板も街路樹も素通りしてしまって。

 私はやっと立ち止まった。

 息をつけないまま動悸に惑わされながら歩を進める。もう何もわからない。知らない。知らない。私は、何も。

 ただ、嫌いだ。

 顔を上げる。駅の入り口。救いの扉。

 背後には明るい街路樹に守られた歩道がある気がした。

 もう、知らない。私には、関係ない。

 そして、一歩を踏み出した。



 その日、涙は出たのかって?

 そんなの、聞くんじゃない。




 その翌日受けた模試で、彼は満点を取った。

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救いは壊された。 譜錯-fusaku- @minus-saku825

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