キツネノエフデ

姫甘藍

キツネノエフデ

【キツネノエフデ】スッポンタケ科 キツネ                         ノロウソク属

 初めは白く柔らかい殻に包まれていて卵のようである。その殻を破って出るキノコはつの状で、高さ7~12センチメートル、太さ1センチメートルほど。全体に赤みを帯びるが、上半は濃赤色、下端部は白い。梅雨の時期に多く見られる。


 「赤い、庭、生えてきた」と検索バーに入力すると、いとも簡単に結果が表示されて奈子なこは驚いた。なるほど、庭で育つ花々の間からにょっきりと顔を出したこの赤い不気味な物体は、きのこであったか。名前の通り絵筆のような見た目であった。しかしこれがキツネノエフデという可愛らしい名前であることを知っても、奈子にとっては気味が悪くて仕方ない。冷や汗と、梅雨の湿気とで、奈子の背中はじっとり湿っていた。

 キツネノエフデなるものが生えてきたのを奈子が初めて確認したのはつい一昨日のことだった。朝、庭に水やりに行ったときそれは急に現れた。あまりにすっくと生える様子にぎょっとして、今まさに仕事に出るという夫に思わず興奮気味でまくしたてた。

「へー」

 と気のない返事をした夫はそれを一瞥してさっさと出て行ってしまった。あなたが庭を作ろうって言ったんでしょ、少しは興味を持ってよ、結局あたしが毎日水やりしてるのよ。言い出したら止まらない愚痴を飲み込んで奈子は夫をいってらっしゃい、と見送った。

 たった一晩にして生えてきた正体不明の物体を恐れ、とりあえず一日待ってみたが奈子の胸の嫌なざわめきは収まらなかった。こうしてスマホで調べるに至る、ということである。こんなにすぐ正体が分かるのなら、もっと早く調べれば良かったとも少し思う。

 早速、奈子はスコップを持ってきてこのキノコを除去しようと試みた。毎日手をかけている花を守りたいという使命感からであろうか、別に害はそこまでないのだけれど。スコップでキノコを少し突くと意外にも簡単に倒れた。というのも中が空洞だったからだ。あまりにも呆気なくてやるせなかったので、今度は根っこの部分から抜いてやろうと思い立った。キノコの周りの土を掘り進めると白い卵のようなものに行き着いた。よく見るとその周りにもたくさんの同じ卵のようなものがある。これらが全てこれからキツネノエフデに成長するものだと理解してすぐ、全て除去しなければという衝動に駆られた。意地になってスコップを卵に突き刺したとき、奈子は悲鳴を挙げそうになった。スコップを通しても感じるぐにゃりという触感。じっとりと湿った内容物。ただのキノコのくせに、と頭でわかっていても、生命を殺してしまったという罪悪感を感じた。この気持ちをどこかで…。ずっと心にしまい込んでいた罪悪感は再び現れた。


「妊娠していますね」


 医師にそう言われたとき、奈子は梅雨の湿気で髪広がってんなとか、どうでもいいことを考えていた。医師の言葉が静かに響いて、特段驚くことも無かったのを覚えている。当時高校三年生だった奈子には大学生の彼氏がいて、腹に出来た子は彼との子だった。付き合っていた頃はいつかこの人と結婚するのだという根拠のない考えを持っていたのだけれど、その考えははっきり言って馬鹿としか言いようがなかった。彼は奈子が妊娠したとわかるとすぐに逃げていった。いい加減な男であった。

 医師に産むかどうか聞かれたが奈子は産む気なんてさらさら無かった。自分が子どもと過ごす未来なんて想像も出来なかったのだ。奈子の親もだいぶ適当であったので奈子が妊娠したときも、中絶という決断をしたときも、心配する素振りは見せたもののあまり重大に考えているようには見えなかった。

 そして幸運にも身体に支障もなく中絶は終わった。身体からひとつの命が亡くなった。ただ、それだけ。そう自分に言い聞かせている奈子自身がひどく冷たく思えて、事が終わってしまって初めて後ろめたさを感じた。

 奈子は就職してからいわゆる合コンというもので、今の夫と出会った。彼は一流企業に勤める高給取りで、奈子が彼と結婚した時奈子の母親は、「あんたがこんな人と結婚できるなんてねぇ」と自分の事でもないのに得意げな表情だった。奈子は結婚して本当に幸せだと思った。彼は出会ったときから私のことを大事にしてくれている。彼は私を愛しているし、私も彼を愛している。そう感じていたけれど結婚して5年以上経った今でも奈子には子どもができなかった。最初の頃、子どもができると想定して彼は、はりきって庭のある家を建てた。けれど一向に奈子に子どもができる気配はなく、いつしか夫婦の間で自然と、子どもの話をすることがタブーな空気になっていった。奈子はまだ子どもを堕ろした経験があることを彼には言っていなかった。初めに言わなかったことが喉の奥へ奥へとしまい込まれてもう言えなくなってしまった。もしかしたら、私が赤ちゃんを堕ろしたから、命をだめにしたから、赤ちゃんできないのかな。今さらもう言えない言葉を飲み込んで奈子はいつも泣きそうになる。


 翌朝起きた時、枕が少し濡れ、口が渇いていたので奈子は自分が泣いていたのだと気づいた。考え事をしながら寝たせいだろうか。ふと見るとまだ隣に夫が寝ている。そうか、今日は休日であった。奈子は目に残った水滴をぬぐってぼうっとしながらベッドから降りた。窓を開けて網戸にすると、蒸しっとした空気が入ってきた。窓の外には狭い庭が広がっていて、花壇には昨日奈子が潰したキツネノエフデの残骸が散らばっていた。今度は洗面台に向かって顔をぱしゃぱしゃ洗った。段々視界がくっきりしてきた。よし、と奈子は朝食の準備をする。コンロに火をつけてフライパンに少し油を引いたら卵を割って落とす。奈子と夫のふたつぶん。ジューと音がして白身が広がる。それから食パンをトースターに入れて、サラダの野菜を切る。トントン、と包丁の音が響くと夫が起きてきた。出来上がった料理を並べて椅子に座った。あくびをしながら少し遅れて食卓についた夫に「おはよう」と奈子が言うとぼそっと「おはよう」という返事が返ってきた。いつも通りのことなのに今日はなんだか寂しい気持ちになった。いただきます。手を合わせて二人は食べ始める。食べている間奈子の意識はカーテンの、窓の向こうの庭へと向いていた。毎日世話をする花壇。昨日奈子が潰したキツネノエフデはまた生えてくるのだろうか。


「子どもが生まれたら、この庭で一緒に土いじりでもしてさ。楽しいだろうなあ。」


 奈子はふと、いつか夫が言っていた言葉を思い出した。昨日から思い出したくもないことをよく思い出しては、悲しみとも怒りとも言い難い気持ちが湧いてくる。


 もぐもぐ、しゃくしゃく、ぐちゃりぐちゃり。


 静かな食卓に咀嚼音そしゃくおんだけが響く。目玉焼きを食べる夫の咀嚼音が妙に耳に残って、その音が昨日キツネノエフデの卵を潰したときのあの感覚を呼び覚ました。


 ぐちゃり、ぐちゃり。


 もうやめて、と奈子は心の中で叫んだ。もう思い出したくない。過去に囚われて勝手に落ち込む自分が嫌い。夫に本当のことも言えない、あさましい自分が嫌いだ。こんな些細な音が気になってしまうのもどうかしている、そう思っても奈子は自分を心の中で罵るのをやめられなかった。


「食欲ないの?」


 夫に言われてはっと我に返った。夫は不思議そうに奈子を見ていた。

「う、うん。ええと、今日ちょっと食欲ないから、私の分の目玉焼き食べてくれない?」

 ああ、と夫がぶっきらぼうに奈子の皿を自分の方に寄せた。そして、また食卓は静かになった。けれど奈子の頭には、ぐちゃり、ぐちゃり、という咀嚼音がずっと響き続けていた。



 



 

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