第29話
頭が真っ白になった。
わあああああっ! という大歓声が空気を震わせる。
「急げっ!」
「ホームだ!」
「まわれ、まわれ!」
「行けるぞっ!」
興奮した声。そして。
「バックホーム!」
悲痛な声とが混じり合う。
平井さんはホームを見て、結局、三塁への送球を選択した。
三塁審は両手を水平に広げた。
判定はセーフ。
当然、二人の走者はすでに生還してしまっている。
「っしゃああーっ‼」
雄たけびを上げながら、生還した選手が次の
ぐらぐらと視界が揺らいだ。
何度足を引っ張れば、俺は……。
スコアが、二対三に変わる。
逆転の
「井口ーーっ!」
名前を呼ばれ、拳を突き上げて三塁上で歓声に応える相手選手。顔には、満面の笑みが広がっている。
ふらふらと惰性で歩き出す。無意識に、マウンドを目指している。
まだ交代じゃ……。
一瞬ベンチを見るが、だれもが険しい顔をしているだけで、先生が動く気配はない。
再びマウンドを目指す。
だけど歩いて戻る途中、強い倦怠感に襲われる。やばい。なんだこれ。
……なんで、俺はいまここにいるんだろう。
まずい。気持ちが切れてる。頭のどこかでそう告げている自分がいる。
もう、やめたほうがいいかな。
態度で示せば、先生は交代させるしかなくなる。
でも、野球部の先輩が見てる。仲間が見てる。スタンドの全校生徒が見てる。その中で、ボイコットのようなことが俺にできるのか?
でも、このまま投げ続けるのも地獄だ。
できる、よな。それくらい。
もう、いいんじゃないか。
まだ一点差。俺が降りてこの点差を維持できれば、まだ可能性は残る。
この試合で、俺は邪魔だ。
マウンドにたどり着いた。そこで。
「おい!
左肩を引っ張られた。振り返ると、
顔がこわばる。
「さっきから話しかけてんだろ。なに無視してんだよ」
「す、すみません」
反射的に謝ってから気づく。いや、そうじゃない。
「あの、氷見さん」
俺はもうマウンドを降りるべきだ。
「俺――」
――もう投げたくないです。
そう告げようとした瞬間、かぶせるように氷見さんが言った。
「お前、なにを怖がってんだ?」
前触れのないその質問に、一瞬、思考が止まる。
訊き返す。
「怖がってる、ですか。俺が」
「ああ。ずっと逃げた投球しかしてねえ」
氷見さんはミットを脇に抱え、手にマスクを持ったまま、俺をにらんでくる。
「
不思議と、このとき逆ねじがきいた。俺は氷見さんをにらみ返す。
「……それが怖くないひとなんて、いるんですか?」
だが、俺の視線くらいで怯むひとじゃない。氷見さんはさらに視線を険しくする。
「否定、しないんだな」
「……」
俺は沈黙する。もちろん氷見さんは、それを肯定と受け取る。
そして、こう言った。
「お前は『チームが負ける』のが怖いんじゃない。『自分のせいでチームが負ける』のが怖いんだろ?」
一瞬、なにを言われたのかわからなかった。だけど、徐々に意味が浸透してくる。
自己嫌悪が、心を蝕んでいく。醜い
「いえ、俺は……」
なにかを言い返そうとする。しかし、続く言葉は出てこない。
「わかっただろ? お前がどれだけチームのことを省みずにそこに立ってたのか」
氷見さんは球審を気にしたようにちらと後ろを振り返る。
「自分のことを考えるのは悪いことじゃない。それがチームのためになるんならな。ただ、お前の場合は明らかにそうじゃない」
もう少し、チームのために戦え。
そう言い残して、氷見さんは守備位置に戻っていく。
頭がぐちゃぐちゃだった。
もう、なにが正しくてなにが間違っているのかがわからない。
二死三塁。
左打席に
目を閉じて、すう、と息を深く吸う。
そして、ふううーっと大きく吐く。
もう一回。
目を開ける。
焼けるように強い陽射し。
今日、こんなに晴れてたんだっけ。
チームが勝つためなら俺が投げない方がいい。それは本心だ。でもそれは、俺が投げないのならチームが負けてもいいという気持ちの裏返しだった。
いや、実際にはそこまで思っていたわけではないが、自分のせいでチームが負けるのと自分以外のせいでチームが負けるのとでは、後者がマシだと思っていたのは認めなければならない。
氷見さんが言っていたのはそういうことだ。
だれのせいで負けようと一緒だ、と。最悪なのはチームが負けることであって、その下にはなにもない、と。
打者を見据える。
このグラウンドで、いや、いままで対戦した中で最高の打者。
これ以上の失点は致命的。
初球は外。真っすぐを外すように要求される。
三塁走者を視界に入れながら、投げる。想定より大きくボールが外れた。危うくワイルドピッチになるところだった。
「打たせて来い!」
「行ける行ける!」
氷見さんからの返球を受ける。
落ち着け。
開き直るしかない。
まだ一点ビハインド。十分取り返せる可能性はある。
「大丈夫だ、ハル!」
小南からの声だとわかる。
二球目。外の真っすぐ。今度はストライクゾーンに要求されるが、また高めに外れる。
ふっ、ふっ、と息が荒い。
脈の音が頭に響く。
ダメだ、落ち着け。
一度、まわりを見る。
球場を見渡す。
その瞬間、一点に目を奪われた。
なぜ見つけられたのかは、わからない。本当に偶然だ。
細かい表情までは見えない。でも、きっと俺は彼女から心配されているんだろう。
漠然とそんな考えが脳裏をよぎった。
……。
そうか。
彼女が、見てるんだ。
昨日のことがあって、こうも情けない姿を見せてしまっているのだ。もしかしたら、無責任なことを言ったと自分を責めているかもしれない。
もしこのまま試合を壊したら。
彼女の性格なら、謝ってくることさえあるかもしれない。というか、きっとそうなる。
いやだな、それは。
うん。謝られるのは――ダメだ。
震えていた指先に血が通い、熱が通う。
――絶対に、御免だ。
彼女はなんて言っていたっけ。
確か。
『私は、あなたに楽しそうにしていてほしいんです』
楽しむ。
目の前の打者を見る。
すごい打者との対戦。それだって、野球の、投手の醍醐味の一つだろう。
勝負してみたい。
でも。
先生の言葉を思い出す。
『本心にしたがうべきだ』
いいのかな。
――いいよな。
チームが勝つために、俺がマウンドを降りるかどうかは、先生が決めることだ。俺が気にすることじゃない。
だったら。
外のゾーン内にミットが構えられている。
左足を上げる。しっかりと地面に力が伝わっている。右足に、力がたまる。ためた力を、前に移動する。
氷見さんがミットを構えた場所をめがけて、目いっぱい投げ込む。
パアンッ!
はじけるようなミットの音が鳴った。そして。
「ストライーク!」
球審のコール。
「っしゃ、いいボール!」
「もう一球!」
内野が盛り上げてくれる。
だけど、それすらもほとんど聞こえなくなってくる。
……いや、これは表現がちがう。聞こえてはいる。それなのに、まったく気にならなくなっている。
そう。
スタンドの、歓声すらも。
続いて、外のチェンジアップ。
完全にタイミングを外して、空振りを奪う。
「オッケィ!」
「押してるぞ!」
これで追い込んだ。
平行カウント。
マスクの下の氷見さんの口角が少し上がっている気がした。
ここで氷見さんが決め球に選んだのは、真っすぐ。俺はうなずく。
ここにきてようやく試合に集中してきた、と自覚する。
いい感じだ。
三塁走者を確認して、投げる。
今度は内角。狙い通りの厳しいボールが行った感触があった。
それでも。
実力は相手打者のほうが上だった。
差し込んだはずだったが、短く持ったバットがコンパクトにスイングされる。引っ張った打球は、詰まりながらも
三塁走者が帰ってくる。
スコアは二対四。
自軍スタンドからため息が漏れたのがわかった。落胆されている。こんなところで一年を使って監督はどういうつもりだ、と俺以外にも非難が飛び火しているかもしれない。
でもそのとき俺の中にあった感情は、悔しさだけだった。
畜生。
次はぜったいに――抑えてやる。
後続を打ち取って、福岡南の攻撃に移る。
八回表。打順は二番の
マウンドには
二点差。
打順のいいこのイニング。ここでなんとかしなければ、いよいよ苦しくなる。
「
ベンチからの声。スタンドのブラスバンドからは、『情熱大陸』が流れてくる。
初球の真っすぐを、平井さんはひと振りで捉えた。
逆方向。一、二塁間を強烈なライナーで破った。西国の
「よっしゃあ!」
「こっからだぞ!」
まだまだ終わらない。だれもがそんな気持ちだろう。前の試合も含めて純平が見せているのは、真っすぐとカーブ、そしてチェンジアップだけ。球種の多いタイプじゃない。
どれも精度の高いボールだが、追い込まれるまでは速球か遅球かを捨てるのが得策だろう。真っすぐ一本に張っていた平井さんのように。
俺も声を出す。
「氷見さん、お願いします!」
右打席に氷見さん。
マウンドの純平は、一瞬目を閉じてから息を吐き出す。そんな仕草を見せたあと、氷見さんに相対する。
また少し、雰囲気が変わった気がする。
ギアを上げた。そんな感じに見える。
初球。インコースの真っすぐ。氷見さんは捉えきれず、ボールは後ろに飛んだ。ファウルだ。
「うぉい!」
「惜っしぃ!」
「合ってるぞ!」
氷見さんは左手に持ったバットの先端を純平に向けたあと、構え直す。
確かにボールの下を叩いてしまっていたが、タイミングは合っていた。俺なら、ここで真っすぐで押すことはしない。
しかし、二球目。予想に反して、純平は速球を続けてきた。
真っすぐ。そう思った。
氷見さんが強振する。
今度こそ捉えるかと思われたが、芯を外した打球は
「う、あっ」
「走れっ!」
悲鳴じみた叫び。
氷見さんが全力で駆け出すも、相手守備は堅い。
6―4―3のダブルプレーが成立する。
「……」
だれも、言葉を発することができなかった。
ベンチに戻ってくる氷見さんの表情は、盛大に歪んでいた。
「いまのは、ストレートか?」
氷見さんは返事をする。
「いえ、手元で食い込んできました。たぶん、カットボールだと思います」
くそっ、とだれかが吐き捨てた。
純平を見る。あいつ、まだ手札を残していたのか。
西国のバッテリーは、ここが勝負どころだと踏んで解禁したのだろう。いままで使わなかったのは単純に、使う必要がなかったからだと思われる。
「飛高、頼むぞ!」
沈むベンチの中で、向井さんが声を張り上げる。
最も頼りになる打者。だからこそ、走者を置いた状態で迎えたかった。
前の二人の打者に対しての攻め方と一転、純平は二球連続カーブでカウントを稼ぎ、あっという間に追い込まれる。
しかし飛高さんはそこから必死に食らいつく。
カウントは二ボール二ストライク。
そして、七球目。
純平渾身の真っすぐが、外いっぱいに決まる。ストライク、ボール、どちらとも取れるように見えたが、球審の手が挙がった。
「ストライーク!」
見逃し三振。
結局、攻略の糸口を見出すことができないまま、二番から始まる打順を三人で終えてしまう。
守備に向かう全員、どこか足取りが重い。
「おい、お前ら! 湿気た面すんな!」
向井さんの叱咤。
「まだ終わってないぞ!」
それを受けて、「ここ集中な!」と飛高さんや平井さんが率先して、声を上げる。
だけど、頭の中で全員が厳しい状況になっていることを理解している。敗北が濃厚なことを。逆転するイメージが持てない。はっきりとは見えないけれど、気持ちが折れかかっている。沈んでいる。
士気を上げなければならない。
勝つために。
俺が言えたことじゃないのはわかっている。
ここまで劣勢に追い込まれているのは、俺のせいだから。
でも、言おう。
すうーっと息を吸う。
本心にしたがえ。
「まだまだまだぁっ‼」
スタンドの全校生徒は、お前がそれを言うのか、と呆れていることだろう。
それでも言う。
恥かもしれない。馬鹿にされているかもしれない。
でもそんなの知るか、馬鹿馬鹿しい。
マウンド上で、俺は力の限り思いっきり叫ぶ。
「こっからだぞっ‼」
馬鹿にする人間より馬鹿にされる人間のほうがずっとマシなことくらい、だれにだってわかる常識だ。
一瞬、試合に出ているメンバーすらも呆気に取られていた。でも。
「そうだぜ! まだいけるぞ!」
小南が続いてくれたことで、連鎖する。
「よっし、しのぐぞ!」
「おおっ!」
打順は五番打者から。
試合に集中する。水底にいるように、音が遠くなる。でも決して、聞こえていないわけじゃない。気にならないだけ。意識の端に上らないだけ。
外角低めいっぱいの真っすぐを二球続けて追い込むと、最後は低めのカーブを振らせて空振りを奪う。
まず一人。
そして六番打者。
ゾーンの外からゾーン内に入ってくる軌道のカーブで、カウントをとる。インコースへの真っすぐを見せつけながら、ここも最後はチェンジアップ。完璧にタイミングを外して空振り三振。
これで二人。
そして最後。初球のカーブをひっかけて、
三者凡退で、八回裏の西国の攻撃を切り抜ける。
「っしゃあ!」
「ナイピッチ、大森!」
走ってベンチに戻ってくると、先輩たちにそんな声をかけられる。最後に平井さんから、「お前、できるんなら、最初からやれよ!」と苦笑しながら言われた。
ベンチ前。俺は体を休めるためにベンチに座っていたが、ほかのメンバーは円陣を組む。
「ぜったい追いつくぞ!」
「おおっ‼」
打順は五番の
まだ終わっていない。
まだだ。
集中を切らさないようにしながらグラウンドに視線を送っていると、向井さんが話しかけてきた。
「ああいう似合わない真似もするんだな」
俺が突如マウンドで絶叫したことを言っているのだろう。恥ずかしさで集中が途切れるので言わないでほしい。
「……先生のアドバイスに従っただけです」
「へえ?」
向井さんは興味を持ったように眉を持ち上げる。
「まあ、なんだっていいけどな」
そう言ってから、向井さんはこう続けた。
「一年が三年に迷惑をかけるのは当たり前のことだ」
唐突になにを言われているのかと思ったが、気休めだと理解する。
「慰めてもらわなくてもいいです」
そんなの要らない。
「まあそう言うな。いまのは、俺が一年のときの三年に言われた言葉だ。そのひともまた先輩から言われたらしい。よくわからないけど、チームを引っ張っていくであろう存在にかける言葉らしい」
じゃあ、小南にでも言うべきじゃなかろうか。
そう思ったけど、口には出さない。
向井さんは言った。
「これからは、お前がチームを引っ張れ」
なんだよ、それ。
「まだ、終わってないですよ」
キン、という金属音。
叩きつけた打球が、三塁線を破る。
田中さんは、二塁へと到達する。
無死二塁。
「ああ。まだ終わりたくないな」
でも、自分にはもうなにもできない。
それを悔いているようにも見えた。
俺は拳を握りしめる。
まだ終わりたくない。もう一度、このひとにマウンドに上がる権利を。
続く六番の池田さんが四球をもぎ取り、無死一、二塁と福岡南は同点の走者を得る。
この場面で打席には七番の
ここで、俺が打席に向かった。
意識するのは右方向。併殺でゲームセットということはもちろん頭に入っている。
しかし打席に向かう前、先生から呼ばれた。なんだろう、と身構えたが、純粋な助言だった。
「こういう場面での西国バッテリーの傾向として、インコースを攻めてくる確率が高い」
言われてみれば、そうかもしれない。それに、最低限進塁打が欲しい場面、一二塁間に転がすために外寄りのボールを狙うのが基本で、そこでインコースを攻めてくるのは理にかなわないわけじゃない。
「……でも」
一二塁間以外に打球が転がれば、併殺をとられる可能性が飛躍的に高まる。
「追い込まれているのはこちらだ。多少のリスクは負うべきだろう。思いっきり三遊間を狙って引っ張れ」
思わず先生の顔を見る。ニヤリと悪だくみでもしていそうな顔だ。
うなずいて、打席に入った。
打席から見ると、純平はにやにやとしていた。顔を引き締めようとしているのはわかるが、笑みをこらえきれていない。……楽しそうだな、こいつ。
インコース。
来るなら、初球から来るよな。
山内先生の読みは当たっていた。
走者を気にしながら、純平はクイックで投げてくる。
思った以上にぎりぎりまでボールを持っている。そして、予想のはるか上を行く真っすぐが胸元をえぐる。
まったく手が出なかった。
しかし、判定はボール。
……ラッキーだったというしかない。
相手が知っているのかどうかはわからないが、俺の打撃はてんでダメだ。安易に外を攻めて進塁打を許すくらいなら、変わらずインコースを突いてくるだろう。
二球目。真っすぐ。今度はゾーン内。上からたたこうとすると、手元で内側に食い込んできた。
「……っ」
喉の奥から詰まったような声が出る。
――カットボール!
反射的に、左腕に力を籠め、バットを引っ張る。すると、元のスイングの軌道からほんのわずかだけバットがずれた。
キン、と音が鳴った。
真芯ではない。が、なんとかその周辺に当てられた。そうでなければ、とても振り抜けなかった。やや詰まった打球は、三遊間へ転がる。
「走れっ!」
俺はなりふり構わず全力で駆け出す。目の端で、逆シングルで捕球する荒木の姿が見えた。
くそ、抜けなかったか。
必死で足を動かし、俺は頭から一塁へと飛び込んだ。
が、まったく送球が来る気配がない。
「?」
立ち上がってまわりを見回すと、三塁審が両手を水平に広げていた。セーフのジェスチャー。
なんだ、どうなってる?
「おっしゃああ!」
「でかした、大森!」
沸くスタンドとベンチの光景を目に捉える。
ということは。
俺は理解する。荒木は三塁へ送球したらしい。しかし、そこは二塁走者だった田中さんの足が勝り、オールセーフ。
つまり、一死満塁。
チャンスが拡大した。
打席には九番の
純平はまた、目を閉じてゆっくりと息を吐き出す。開けた目は、どこか虚ろにも見える。だけど、もうわかる。あの目はギアが上がったときの目だと。
初球はチェンジアップ。低めに丁寧にコントロールされたボールでストライクを取る。二球目。インコースをえぐる。そして、三球目。これも外いっぱいのカーブ。
緩急も、内外も使い分けた見事な
四球目。外。しかし、真っすぐではなくカットボール。バットは空を切り、空振り三振。
「っしゃああっ‼」
拳を握りしめ、純平が吼えた。
「っしゃあっ、松原!」
「ナイスピッチ!」
わああああっと大歓声が球場を震わす。
一塁から見ながら、「とんでもないな、あいつ」とだれにも聞こえないようにこぼす。
だけど、同学年で「とんでもない」と俺が思ったのは、純平だけじゃない。あいつも決して負けちゃいない。
二点を追う九回表。
二死満塁。
最大の山場で打席に入った一年生。
ここで、『サマーウォーズ』のあの勇壮な音楽がスタンドから演奏される。敵味方問わず声援が入り混じる。一球一球にスタンドが沸き、この対戦を盛り上げる。
どちらが勝つかはわからない。
勝負を優位に進めていたのは純平だ。上手くタイミングを外しながら、変化球でカウントを稼ぎ、一ボール二ストライクの状況をつくり出す。しかし、小南も粘る。
三球で追い込まれながら、その後五球連続でファウル。低めに外れるチェンジアップを見逃して、現在平行カウント。フルカウントになれば純平の優位はなくなる。これ以上、カウントを悪くしたくないはず。しかし、くさいところに必死にバットを出しながら、小南も食らいつく。
またファウル。
「小南くーん!」
「小南ー!」
スタンドからの声援はたぶん小南には届いてはいないだろう。それほど、いまのあいつは集中している。
この試合でいちばんの勝負を演じる二人。
その決着がついたのは、十一球目。
低めのナックルカーブ。
おそらくボール気味だった。だけど小南は、腰が砕けながらもバットにボールを乗せる。そして、左手が離れながらも振り抜く。
高校一年生とは思えないような技術が集約された打撃。
越えろ。
落ちるな。
だれもが打球の行方を凝視する。
打球は、必死に背走する荒木の頭を超え――中堅手の前に落ちた。
「っしゃああっ‼」
割れんばかりの大歓声。
当然三塁走者は帰ってくる。続いて二塁走者の池田さんも三塁を蹴った。
「池田ーっ!」
「いけ、いけ!」
「急げ!」
「ホームだ!」
敵味方の怒号が入り混じる。
俺の頭も興奮する。一塁走者だった俺の目には、打球の行方がよくわかった。俺が二塁に到達したところで、中堅手がバックホーム。その瞬間、スタートする。ホームの判定が微妙だと思ったからだ。送球をカットしてくれるなら、俺が挟まれている間に得点できる。
果たして送球は、カットされなかった。
そのままホームへ。
池田さんが突っ込む。
相手捕手がタッチする。
クロスプレー。
その瞬間、だれもが判定を固唾をのんで見つめた。
一瞬の空白。
それは長くは続かない。
やがて球審は、その手を水平に広げた。
「セーフッ! セーーーフッ!」
大絶叫。
「っしゃあああああっ‼」
俺は三塁へ滑り込む。すかさず捕手が送球してくるが、間に合わない。小南も二塁に行っている。
ベンチのだれもが身を乗り出して、拳を突き出している。二塁上で同じように拳を掲げて歓声に応える小南。
あとアウト一つ。そんな土壇場で、小南のひと振りが試合を振り出しに戻した。
満面の笑みを浮かべる小南の横顔を見てつくづく思う。
やっぱりあいつは、イケメンだ。
なおも二死二、三塁のチャンスだったが、純平は後続を抑えて切り抜ける。俺も負けじと、九回裏を三人で締めた。
そして、試合は延長戦に突入する。
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