第9話
部活動の本入部期間が終了した。
「野球部に入る」という旨のメッセージを送ってからすぐに、
今年の五月は祭日の巡り合わせが悪く、三連休、月曜平日、三連休、金曜平日、土日、という絶妙な組み合わせによって大型連休とならない暦だった。朝のニュースでは「最大十連休!」などと言っていたが、学生には有給休暇など存在しない。
五月二日。月曜日。
明日からの三連休、野球部では毎年恒例らしい長崎と熊本での遠征が計画されている。例年で言えば一年生だけはまだ入部したてというのもあって学校で居残り練習になるそうなのだが、今年はあまりにも少なすぎたせいで一年生も遠征に帯同することになった。
そして、通常なら月曜日は野球部の週休日と決まっている。でも明日から遠征ということで、ミーティングというかまあ、いろいろと確認のために、野球部員は視聴覚室に集合することになっていた。
そのついでに行われたのが、「新入部員紹介」だ。唯一の一年生マネージャーである
順番は五十音順。当然ながら、
「ええー、相木稜人です。平野台中の出身です」
稜人の次が俺なので、稜人の自己紹介の流れをそのまま使わせてもらうために真剣に耳を傾ける。
ふむふむ。まずは名前と出身中学から切り出すんだな。オッケー、文句はない。
「右投げ右打ち。希望ポジションは
ほうほう。
「ええと、そうだなあ」と首をひねりながら、稜人は並んでいるほかの一年に目を向ける。「人数は少ないんすけど、ここにいる面子なら、なんか甲子園に行ける気がします。よろしくお願いしますっ!」
おおー、とざわめきが起こる。……かましやがった、こいつ。
「いいぞー、相木!」と
おいこら。パワハラだぞ、それ。
とはいえ、なんでもかんでも被害者意識を持つつもりは俺にはない。俺は空気が読める男だ。「押すな押すな」と言われてちゃんと「押す」ことだってできるのである。
稜人が一歩下がり、俺が一歩前に出る。
「えー、
俺は向井さんをにらむ。
「向井さんがいるうちにエースの座をもらおうと思います。よろしくお願いします」
おおっ、と稜人のときよりも大きなざわめきが起こる。
うっ、やばい。かましすぎたかな。実際は心にも思っていないのだが、向井さんがあまりにもむかつくのでつい言ってしまった。
まあ、まだ体力がまわりに追いついていない程度の俺なのだ。皆冗談だってわかってくれるよな。
一歩下がりながらちらと横を見ると、柚樹は「おおー」と感心したように俺に視線を向け、小南はぐっと親指を立て、河野はうんうんとうなずいていた。なにこの「よく言った!」感? 違うんですけど? 俺、全然本気で言ってないんですけど? やめろ、柚樹。そんな目で俺を見るんじゃない。
続いて柚樹。「
へえ、と物珍しそうな声が聞こえてくる。俺も「へえ」と思う。初心者にしてはやけに上手いと思っていたけれど、そうだったのか。
……でも、そういえば。
いまさらながらに俺は気づく。そういえば、最初に会ったときに小南は柚樹のことを「初心者」と言っていた。あれは、「ソフトボールはやっていたけれど野球はやっていなかったから初心者というのは嘘ではない」という意味が含まれていたのか。
小南のやつ……。と本当にいまさらながらに小南をにらむも、もちろん小南が俺のいまさらながらの視線の意味に気づくはずもない。
「右投げ左打ち。希望ポジションは
柚樹の紹介が終わり、二人も続く。
「
「
いつの間にやら目標を釣り上げていくルールになっていたらしい。先輩たちも大言壮語ととるべきか分相応な目標ととるか判断に困っているようだった。
そして大トリ、女子マネージャーの清水さんがおずおずと前に出た。たぶん身長は平均くらい。けれど緊張しているせいか小さく見える。茶っぽい髪を後ろで簡単にまとめている。
「えと、あのっ、
思わず、「へえ」と声が出た。プロ野球のキャンプなんて俺は見たことがない。その声のせいか、清水さんがちらりとこちらを見た。
しまった。ごめん、どうぞ続けてという意味を込めて、気持ち半歩下がる。
清水さんがばっと頭を下げる。「みんなみたいに立派な目標があって入部したわけじゃないですけど、精一杯頑張りますっ、よろしくお願いします!」
ぱちぱち、と向井さんが拍手をした。つられて俺もした。
よく頑張った。俺が清水さんの立場ならなにを言えばいいのかわからなくなっていたところだ。主に俺以外が調子に乗って要らないことを言ったせいだろう。
清水さんは恥ずかしそうにぺこぺこと頭を下げてから後ろに下がる。
全員があいさつを終えると、顧問の
「えー、そうだな。よく野球部に入部してくれた。歓迎する」
全然歓迎していない声音だ。
「よく覚えておいてほしいことだが、この野球部はあくまで土壌でしかない。どんな花を育てたいかは自分自身が決めることで、どんな花が育つかは自分次第だ。肥料についての知識や水のやり方については、惜しみなく提供しよう。だが、実際に肥料や水を与えるのは俺がやることじゃない。お前たちがやることだ」
すべて自己責任だと言われた気がして、少し背筋が伸びてしまう。山内先生は続ける。
「もう一度言うが、ここはただの土壌だ。まず俺が求めたいのは、必要なことは自分で勉強するしかないと知ること。勉強と聞いて拒否反応があるやつがいるかもしれないが、早いうちにあきらめろ。ひとは一生勉強しなきゃいけない、人生ってのはそういうものだ。だからまず、勉強が当たり前であることを知ること。それを知ることができれば、勉強することが当たり前になって苦じゃなくなる。その当たり前を身につけるために、是非この土壌を活用してくれ。俺からは以上だ」
以上だ、と言ったのに、先生がまた口を開いた。「どうした、小南」
見ると、小南が手を挙げていた。「ひとつ訊いてもいいですか」
「ああ」と山内先生はうなずく。
「俺はここで野球を学びたいんですが、学ぶべきことはすべて自分で学ばなければいけないということですか」
「その通りだ」
「では、先生からはなにも教えてもらえない?」
「ある程度練習メニューは組むが、それ以上に俺から生徒にああしろこうしろと言うことはしない。仮になにかが上手く行かないからと言って、俺から助言をすることは基本的にはしない。助言をもらえないと嘆くのは、小南の自由だ」
やや棘のある言い方にも聞こえる。隣で小南がムッとしたのがわかった。
山内先生は次の言葉を妙に決然とした口調で言った。
「努力とは、すべからく思考を伴うものであるべきだ」
そして、「ただ」と続ける。「求められれば助言をしよう。訊かれれば答えるし、訊かれた内容が俺にもわからないことであれば、俺は勉強をして答えを出すだろう。それが俺にとって、教える、ということだ」
「つまり、姿勢を見せろということですか?」
先生はひとつため息をついて、「俺の言い方が悪かったな」とつぶやいた。そして続けた。
「それ以前に、勉強というのが自分でやることなんだ。そして俺が言ってるのは、『わからないことがあればひとに訊く』というのが勉強方法のひとつであるということだ」
小南はすぐに先程の言葉を訂正した。「では、こうですか。求めてもいないのに助言を与えられるのは勉強ではない。少なくとも、先生にとって勉強と呼ぶものじゃない」
「その通りだ」
「わかりました。ありがとうございます」
俺はポカンとして、そのやりとりを聞いていた。
そのあとは、全員が座席についてミーティングとなった。三年生十三人、二年生十三人、一年生六人。視聴覚室の座席は半分も埋まらない。一年と入れ替わりに、「じゃあ
二年生マネージャーの篠原さんだ。
篠原さんは手に持っているノートPCを壇上に置いて、てきぱきとHDMI端子やマウスのUSB端子をつなぎ始める。俺が意図をくんで、ディスプレイを隠している引き戸を開くと、にっこりとして「ありがとう」と微笑んでくれる。一瞬見とれてしまう笑顔。ごまかすように俺は、「いえ」と返してから訊いた。
「明かりはどうします?」
「んー。そこまではたぶん大丈夫かな。スクリーンじゃなくてディスプレイだし」
む。それはそうか。暗いほうが見えやすいのは間違いないだろうが、明るくても十分見えるだろう。
「ありがとね」
「いえ」
いかんな。気を利かせようとして失敗した。おとなしくしていよう。
ディスプレイに映像が映る。スライド資料だ。合宿のスケジュールが表にして載せられている。ちなみに電子ファイルで部員全員にもスケジュールは共有されているので、「忘れないようにしておくべきところだけ、ここで確認しますね」と言って、篠原さんが話し始める。
それにしても、ディスプレイか。後ろの席からも克明に見えるような大型のディスプレイ。視聴覚室なんてたまにしか使わないだろうに、もったいないとは思わないのだろうか。俺ならもっと有意義に使えるのに。例えばゲームとか。などと思考が横道にそれていると、「以上です」と篠原さんの説明が終わってしまった。
「質問はないかー?」と山内先生が生徒を睥睨する。
話を一切聞いていなかった俺は、もちろん目をあわせないように気を付けた。……
なのに。
「大森、なんかないか?」
俺はにこやかに即答した。「ありません」
いかに質問をしたほうが好印象を与える場面でも、無い袖は振れない。というか、そもそも好印象を与えたいと思っていない。
「そうか。ま、いまは投手が足りないからな。篠原が言ったようにちゃんと準備しておくようにな」
ふっ。
「はい。わかりました」
余裕ぶって平然とうなずくふりをしながら、俺は内心で焦っていた。
準備しておくように?
ちょっと待って、そんな話になってたの?
明日からの練習試合で?
……マジかよ。
だから俺に質問を振ったのか。俺、見学だけの温泉旅行気分だったんだけど。
「じゃあこれで終わるが、視聴覚室はまだ使っていいから。あとで鍵だけ返しといてくれ。解散」
ああ、山内先生が去ってしまう。
河野によると、
実際、春先の福岡県大会では準優勝で九州大会出場、先日開催されたその九州大会では四強という成績だった。もう少し言うと、県大会でも九州大会でも、優勝したチームを相手に一点差の敗戦だ。実績だけで判別するのならば、福岡南は十分甲子園を目指せる実力を持っている。
ただ問題は、どんなに優れた投手であろうとたったひとりでは夏を越えられないということ。
だから必要なのだ。向井さんのほかに計算できる投手が。
プロの中六日とは違って、それどころかメジャーの中四日とも違って、高校野球の投手は連日の登板さえ求められる。いまの福岡南には、もう一人、向井さんと近いクォリティーを示せる投手が必要とされている。
視聴覚室を退室してそのまま帰りがけに、河野からそんな説明を受けた俺は、盛大に顔をしかめた。
「チーム事情はわかったけど……だからって急だろ」
校門を出て、階段を下りる。
「そうか? 一年を抜擢する場面なんて大概が急なもんだろう」
確かにそうかもしれないけど。
「でもさ、俺、なんも準備してなかったし」
稜人が余計な口をはさんでくる。「ハルってこういうとき、全然話聞いてないもんなあ。そりゃ急にも聞こえるか」
「うるさいな。聞いてなかった部分を聞いてたとしても急なんだよ」
だいたい俺は、練習にさえまともについていけない。中学で野球部をやめたあとも稜人は自主練を続けていたみたいだし、体力面では一年の中で断トツで最下位だと自負している。そんな俺が、試合に出られない部員を差し置いて試合に出られる? ありえないだろう。
柚樹が皮肉めかして言った。「なにを怒ってんのさ。むしろ喜ぶべき場面でしょ。あーあ、うらやましい。剛広とハルと、ついでに大ちゃんだけ」
「む」
「ついでとはなんだ」と河野が突っ込む一方、俺は柚樹に言い返せない。
……言われてみれば。
確かに、柚樹の言う通りではある。俺はどうして、これほど練習試合に出ることが億劫なのだろう。反論しようとして喉の奥で言葉がつっかえる。
それに、柚樹の言葉が皮肉であり本音であることくらいは俺にだってわかる。正確には、稜人と柚樹については出番が確約されていないだけで機会があれば試合に出場できる可能性はあるということだったのだが、それでも小南や河野、俺のほうが優先されているのは事実だ。たとえ言いたい言葉が出てきたとしても、それらを飲み込むしかない。
「ま、それもそうなんだけどさ」俺は頭の後ろをかいて、ため息をつきつつ言う。「せっかく試合ができるわけだし」
「そうそう」と小南がうなずく。「俺、こんなに早く試合に出してもらえるとは思ってなかったよ」
「あ、それは俺もそう思ってた。三年生が引退するまでボールにも触らせてもらえない、みたいなイメージあるよな。高校野球って」
河野が呆れながら言った。「偏見がひどいな。お前ら」
「だって知らないもんは偏見でしか語れないし」
「偏見で語るのが悪いんだろう」
「そう言うなって。実際に語ってるのは、その偏見が覆ったってことだからさ」偏見そのものを語っているわけじゃない、と小南は胸を張る。
坂を下り切ったところで交差点に差し掛かる。正面の信号が青だったのでそのまま横断歩道を渡る。
するとそこで、「あ、あの。じゃあ私はここで……」後ろからひっそりとついてきていた清水さんが、とても気まずそうな表情でそう言った。
「あっ、うん。また明日な!」と小南が振り返って爽やかに笑う。
柚樹が尋ねる。「あれ、てことは、中学、このへんなんだ?」
清水さんのほか、男五人はそろって電車組だ。清水さんはすでに駅とは逆方向に足を向けている。俺たちと逆方向に行くということは清水さんは電車通学ではないということ。もっと言えば、自転車でもなく徒歩だ。自ずと、出身中学は限られてくる。
「う、うん。
「へえ。じゃあ、
思い浮かんだことをそのまま口にすると、清水さんはきょとんとした。
「ん。古矢って、
うん、とうなずく。
友だちと呼べる程度に親しいクラスメートは、三人くらいしかいない。古矢はそのうちのひとりだ。ちなみにひとりは柚樹。
きょとんとした顔のまま清水さん。「大森くん、古矢のこと知ってるんだ」
「まあ、同じクラスだからな」
柚樹が笑いながら痛いところを突く。「ハルの場合、同じクラスだからって知り合いとは限らないでしょ。まだ俺と古矢、それから、
うるさいな。さすがにもうちょっと覚えてるよ。
「あはは……、あいつ、うるさいからすぐに覚えるでしょ?」
お、やっと笑った。
「俺、まだ古矢がうるさいと思ったことそんなにないけど……」言いつつ、柚樹に視線を向ける。
柚樹はにっと笑った。「ってことは、あいつ、まだ猫かぶってそうだね」
「みたいだな」とつられて俺も笑う。
くすっと清水さんも笑っている。「ふふ、そういえば言ってた言ってた。古矢、『俺、逆高校デビューするわ』って。ぜったいそのうち皮がはがれるから」
清水さんはややぎこちないながらも楽しそうに話す。
「そうなんだ。楽しみにしとくよ」と柚樹。
「おい、青になったぞ」
河野の声に振り返ると、確かに信号が青になっている。まあぐだぐだと話していても仕方がない。顔の向きを清水さんのほうに戻して、「じゃあ、明日な」と今度こそ別れの一言。
「うん。また明日」清水さんはつくったような遠慮がちな笑顔を浮かべて手を振った。
俺たち五人は背を向けて向こう側の歩道に渡る。ちらと後ろを見ると、清水さんも背を向けて帰路についているようだった。
まあ最初はこんなものだろう。これから徐々に打ち解けていければいいはずだ。クラスメートとは一年間でどうせ離れ離れになるけれど、清水さんとはおそらく部活の三年間の付き合いになる。しかもたった六人しかいない同期だ。俺にだって、そういう相手とはそれなりに親交を深めておきたいという人情はあるのだ。
――むしろ。
「やー、篠原さんも美人だけど、織絵ちゃんもかわいいよねー」
「俺たち、恵まれてるなあ」
清々しそうに、柚樹と稜人が発言した。それに対して小南と河野が、「俺は篠原さんかな。ハルはどっち?」「お前ら、そういう目でしか女子を見れんのか」と反応する。
――そうだよなあ。
「いや、そこは俺は
すると、稜人、小南、柚樹が反応してくれる。
「えっ。お前、松橋さん狙いなのかよ」
「いやいや、
「亜弥瀬って、松橋亜弥瀬? ハル、いつの間に知り合いなの?」
はは。
――むしろ、どうして俺含め、ここにいる五人は知り合ってすぐに、これほどまでに自然体でいられるんだろうな。
稜人と俺は、保育所にいたときからの幼馴染だ。だから距離感が近いのは当たり前。しかし不思議なのは、俺がほか三人とも同様の距離感でいられることだ。こうまで初対面から遠慮が要らないというか、配慮をまるで気にしなくていい人間というのはとても珍しい。
五人連れ立って駅へ向かう。前に河野と小南、稜人でその後ろに柚樹と俺という並び。
会話を交わしながら思う。
うん。
変なやつらだ。
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