第3話

 翌日は、からりとよく晴れた日だった。

 早くもテンプレート化してきた高校生活。途中までは変わり映えのない一日のはずだったのだけど、昼休みを迎えて、柚樹ゆずきがこんなことを言い出した。

「ハル、今日、食堂に行ってみない?」

「食堂?」と俺は首を傾げる。「俺、弁当なんだけど」

「べつに弁当でも、行って大丈夫だろ」

「混んでたら邪魔にならないか?」

「大丈夫大丈夫」

「あと、友だちから古文の教科書返してもらわないと」

「ハルに他クラスの友だちなんかいないじゃん」

 失敬な。

 俺は自分に厳しいので己が人間性を社会的だとは言わないし、学校のクラス替えのたびに「こんなやつ同学年にいたっけ」とまるで部外者でも紛れ込んでいるかのような目で見られるのも慣れたものだが、それでもひとりで生きていけないということくらい知っているのだ。

 そんなことを柚樹にこんこんと説いているうちに、気づけば食堂まで連れてこられていた。

 邪魔になるんじゃないかという俺の懸念は、当たっているような外れてもいるような、そんな微妙なところだった。つまり、食堂はそれなりに盛況だったけれど、ありとあらゆる座席が埋まっているほどの混雑ぶりではなかった。

 入り口から見て奥のほうに厨房がある。どうやら「丼物」と「麺類」とで、注文口が違うらしい。受け渡しのところで学生が数人集まっている。また、奥の隅の方には食券の自動販売機が設置されており、こちらにも数人の学生が並んでいる。整然と並べられた白色の長テーブルはまだ半分ほどしか埋まっていない。とはいえ一人しか座っていないように見えても、実際には荷物が置かれていてすでに抑えられている座席もある。注文待ちの学生の数も考えると、そこまで座席数に余裕はないかもしれない。

 ここは柚樹が注文している間に、俺が席を確保しておくべきだろう。きょろきょろと空いている席を探していると、柚樹はすたすたと入り口向かって左側の窓際のテーブルへ歩いていってしまう。

 俺は困惑する。というのも、柚樹が向かおうとしているテーブルはすぐにそれとわかったのだが、そのほとんどの座席が埋まっていたからだ。もう少し空きのあるテーブルだってほかにあるはずなのに、なぜわざわざそんな狭い場所に。

 そんな俺をよそに柚樹は、そのテーブルの端の方に陣取っていた男子生徒二人に声をかけた。

「連れてきたよ」

「おう」二人のうちの片方、肩幅の広いがっしりとしたやつが俺に向かって言う。「お前が大森おおもりか」

 そういうお前はだれだよ、と思った。口には出さない。

 視線で柚樹に「どういうことだ?」と訴えかける。

 するともうひとりのイケメンのほうが俺の反応を見て事情を察したのか、柚樹に訊く。「あれ。柚樹、なにも話してないのか?」

 柚樹はさもそれが自然の摂理であるかのように答えた。「うん。なにも話してない」

 イケメンは困ったような顔をする。「それはちょっとひどくないか?」

 どうやらこちらは良識ある人物と見える。もっと言ってやれ、と俺は思っていたのだが、イケメンはそれ以上柚樹を追及せず申し訳なさそうな顔を俺に向けてくる。

「ええと。大森、でいいんだよな?」

 首肯を返す。

「悪いな。ちょっと話があってさ、柚樹に呼んでもらったんだ」

「話?」

 俺が首をかしげるとそいつは、爽やかな笑みを浮かべた。

「俺は小南。小南剛広こなみたかひろ。それから」小南は正面に座るごつい男に一瞬目を向けた。「こいつは河野大遥こうのたいよう

 よろしく、と言われたので、俺もよろしく、と返す。

「まずは座ったらどうだ?」と小南が椅子を引く。

 仕草が手慣れている。ははーん、こいつ、さては顔以外もイケメンだな?

 柚樹は「注文してくる」と財布だけテーブルに置いて食券を片手に丼物のところに行った。それを尻目に俺は、とりあえず小南の隣に腰を下ろす。

 河野と小南の前には、すでに空になった椀が置かれていた。こいつら、飯食うの早いな。柚樹と俺、四限が終わってすぐにここに来たんだけど。などとどうでもいいことを思いながら俺は、「それで話っていうのは?」とさっそく用件を促した。

 小南は困ったように苦笑した。「うーん。いざ切り出すとなると、なんというか、少し気後れするな」

 すると河野が、「難しく考えなくていいだろう」と割って入ってくる。「単刀直入に言うぞ。大森、お前に野球部に入ってもらいたい」

 ……昨日の吉田よしださんといい、なんだか似たような話が続くな。

 柚樹が豚肉の卵とじの丼を持って戻ってくる。肉丼なるメニューらしい。ついでに俺の分の水も持ってきてくれた。「ありがとう」と言って受け取る。

 まあ、要するに、なんだ。

「柚樹が昨日言ってたのって、この二人のことか?」

「そうそう」柚樹は破顔する。その顔に、目的を告げないまま俺をここに連れてきたことに対する後ろめたさは一切ない。「俺昨日、野球部の見学に行ったんだけどさ」

「うん。言ってたな」

「それで、同じクラスに野球やってたのがいるって剛広と大ちゃんに話したら、なんで勧誘しないんだって怒られてさ」

「あ、そう」

 ここまで清々しく言われると怒る気も失せてくる。

 柚樹が食べ始めたので、俺も持参した弁当を食べようとテーブルに広げる。タッパーの蓋を開けながら告げる。

「悪いけど、俺、野球部には入らないよ」

 河野は仏頂面のままで、「理由を聞いてもいいか?」と言った。

 腕を組んでじっとしている様からは、ふてぶてしい印象を受ける。

 理由。理由ね。

「とくにないよ。なんとなくやる気が出ない。ただそれだけだ」

「どうしても無理か?」

 河野の思った以上に真剣なその表情に、俺は少したじろぐ。

 どうしても、と言われると、少し困る。俺は野球がきらいなわけじゃないのだ。ぜったいにやりたくないかと訊かれると、答えはノーだ。ただ、積極的にやる理由もないし、積極的に拒み続ける理由もないというだけ。だから困る。正直に「どうしてもダメではない」と言ってしまえば、話の先は容易に想像がつく。なんとなくそうなるのは気に入らないし、かといって、嘘をつくのは好きじゃない。

 少し思い悩んだ末、俺は話の矛先をそらすことにした。

「べつに、俺が入部していいことなんてひとつもないぞ」

「そんなことはないぜ」すかさず否定してきたのは、小南だ。「大森が野球部に来てくれれば、俺らにとってはいいことだらけだ」

「いいことだらけって。だいたい俺はもう二年くらい野球をやってないんだぞ」

「それを言えば、俺と河野だって受験の間はまともに野球なんてやってなかった。柚樹にいたっては初心者だ」

 ……確かに。

 小南と河野のブランクはともかく、初心者の柚樹がいる前でいまの理屈を持ち出したのは失敗だった。

「今年の野球部の新入生はな」河野がため息交じりに言う。

 俺は弁当の雑穀米と煮物を口の中に放り込みながら言葉の続きを待った。

「現状、ここにいる三人しかいないんだ」

 最初、まったく意味を考えなかったので、「ふうん、そうなのか」といい加減に相槌を打ってしまった。しかしすぐに気づく。

「……え、三人?」

 河野はゆっくりとうなずく。そして誠に遺憾ながら、幼児相手の説明でもしているかのような、ゆったりとした口調で言った。

「俺と剛広、そして柚樹で三人だ」

「……なんで」と俺はつい懐疑的な視線を向けてしまう。

「俺のほうが訊きたい。まあどうせ、今年は春日白水かすがしろうずに流れたとかそんなところなのかもしれんが」

「ああ、なるほど。……ないとは言えないのかもな」

 春日白水高校は、県立ながら今年のセンバツ出場、四強入りを果たした学校だ。立地的には、この福岡南ふくおかみなみ高校からもほど近い。福岡南の方が学力的なレベルは上なのだが、春日白水も進学校だし、地元の同世代の野球少年たちには甲子園出場という売り文句のほうが魅力的に映っても無理はない。甲子園初出場というのも手伝って、地元の盛り上がりはそれはもうすごいものだった。

 話はわかった。しかし、だ。

「にしても、三人は少なくないか? 俺、あんまり高校野球見ないけど、それでも福岡南ってどちらかと言えば強そうな印象があるんだけど」

「ああ。ずっと県大会には出場してるし、去年の戦績が例外だっただけで、一昨年以前の成績までさかのぼれば、春日白水より福岡南の方がずっと上だ」

「ふうん」

 やっぱりそうか。ってことは、春日白水に流れたのはただの追い打ちで、もともと人数が少なかったのだろう。

「野球って、ほんとに人気が落ちてるんだな」

 まさか人気低下の波がこんな身近にまで押し寄せていようとは。

 とはいえこれで、俺みたいな取るに足らない人間をわざわざ野球部に勧誘する理由については納得がいった。

「三人じゃあ、数合わせでもいいから部員が欲しくなるよな」

 俺がそう言うと、河野は「ふん」と鼻を鳴らした。

「数合わせというだけなら、わざわざこうして勧誘なんかしない」

 今度は小南が口を開く。「やっぱさ、俺らも高校野球の世界に踏み込んだ以上は甲子園を目指したいんだよ。中学でそれなりにやってきた自負もあるし」

 どくんと心臓がひとつ鳴った。

「甲子園って」

 本気で行けると思っているのか?

 現状の新入部員が三人で?

 そんな考えが表情にまで出ていたとは思わない。けれど。

「笑いたければ笑え。俺たちは本気だ」と河野が険しい視線を向けてくる。

 俺は無表情を意識してかぶりを振った。手に持った透明のコップに浮かぶ水面を見つめる。

「いや、笑わないよ」

 そんなこと、死んでもしたくない。

 ただ驚いただけだ。それを堂々と口に出せるやつが、こんな県立校にいるのかと。

 小南が真っすぐな視線を向けてくる。

「だから、甲子園に行くためにも大森が必要なんだ。ただでさえ人数が少ない代だ。どうしてもさ、せめてエースだけは必要なんだ」

 そのとき、確かに熱を感じた。

 野球をやるための積極的な理由が、生まれたような気がした。

 俺を必要としてくれたからじゃない。

 こいつらが、本気で甲子園を目指しているということがわかったからだ。本当に本気のやつと野球ができる機会が再び転がり込んでくるとは、俺はこのときまでまるで思ってもみなかったのだ。

 この機会を逃すのはあまりにも惜しいんじゃないか?

 そんな考えが、ちらりとよぎる。

 しかしそれと同時に、中学二年の苦い思い出もよみがえってしまう。

「悪いけど、買い被りすぎだ。俺はそんな大それたやつじゃない」

「大それた?」河野が眉根を寄せる。「なにも世界から核をなくそうってんじゃないぞ? 甲子園に出るくらい、たいしたことでもないだろう。ひとがなにかを本気で為そうとして成すことのできる範疇に、十分入っている。大それたことかそうじゃないかは、お前次第だ」

「ん」

 俺は思わずまじまじと河野を見た。

「なんだ」

「河野って意外といいこと言うな」

 すると、しかめっ面をつくってみせて河野は言った。

「意外とは余計だ」

「あ、悪い」

 河野はとくに気にしたそぶりもなく改めて訊いてきた。

「それよりどうなんだ。野球部に入る気はないか」

 河野たちと野球ができる。それは悪くないことの気がする。

 でも。

 そんな一瞬の逡巡の末。

 結局、俺は変わらない答えを返した。

「うん。ないよ」

「そうか」

「ああ」

 ふう、と河野は息を吐きだした。落胆のため息のようにも見えた。

 小南が訊いてくる。

「なあ、大森って、なんで野球をやめたんだ?」

「……」

 答えるのに少し躊躇する。でも。

 こいつらが本気なのは伝わってきた。ならせめて、俺も真摯でいるべきなんじゃないだろうか。

 そう思ったから、俺は正直に答えた。

「試合で失敗したから、かな」

 俺はたぶん、小南たちから見てどうかはわからないけれど、困ったような、そんな笑みを浮かべていたんじゃないかと思う。

「情けない理由だろ?」


 俺が投手だったことをどうして河野たちが知っているのだろう、という抱いていて当然の疑問に俺が気づいたのは、河野たちが食堂をあとにしてからだった。

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