R5.11月『暗証番号1122』
先生が行方不明になった。
先生と言っても、担任でも部活の顧問でもない。そもそも学校の先生ではない。
僕が勝手に「先生」と呼んでいる、アパートの隣室の女子大学生だ。
そんなわけだから、当然ながら、学校が休みになったりはしない。先生が行方不明になったにもかかわらず、僕は普段と変わらず登校して数学の授業を受けている。
円と扇形の性質が黒板上に綴られていくが、当然頭になんか這入って来ない。ついでに言えば、這入って来なくても問題無い。中学一年生の範囲なんてそんなに難しくないので、一学期の間に教科書は全部読んでしまった。あわよくば分からないところを先生――――僕の言う「先生」は、大抵の場合はアパートの隣室の女子大学生を表わすので、覚えておいて欲しい――――に教えて貰おうなどと甘いことを考えていたが、分からないところなんて一個も無かった。分かるのに分からないふりをして質問するなんて器用なことは僕には出来ないし、したところで先生にはすぐバレてしまう。来年の教科書こそ難解であることを期待しようと思う。あと五ヶ月の辛抱だ。長いな……。
そう、先生だ。
師匠――――先生の彼女によると、先生は一昨々日の夜から家に帰っていないらしい。今日が月曜日だから、つまり、金曜日の夜だ。先生はふらっと旅に出たり友達の家に泊まったりする人なので、最初は師匠も「いつものことか」と思っていたという。
因みに、先生は大学三年生で、大学一年生の春に隣に引っ越してきた。その当時から、格好いい感じの彼女と同棲している。友達じゃ無くて彼女らしい。LGBTというやつだ。
先生の彼女を、僕は「師匠」と呼んでいる。たまに囲碁で遊んで貰っているが、この「遊んで貰っている」という言葉がこの上なく相応しいくらい、めちゃくちゃに強い。いつか師匠を負かすことが僕の目標だが、大学を卒業したらアパートは引き払ってしまうらしいので、もしかしたら勝つ機会は永遠にないのかも知れないと最近諦め気味だ。せめてもう少し時間が欲しい。例えば、僕が高校生になるまで師匠が僕のアパートに住んでいてくれれば良いんだけれど……師匠に大学院生になって貰うしかない。
違う。師匠じゃなくて、今は先生のことだ。
師匠曰く、普段はどこかに行く時ひとこと連絡してくれる先生から、翌日になっても連絡が来なかったらしい。不審に思った師匠は、先生のスマホに電話を掛けた。そうしたら、家の中で音が鳴った。手帳型のスマホケースには、先生の字で『消えるね』と書いたメモが挟まれていたという。
僕は、生徒手帳をポケットから取り出して、そっと件のメモを見る。師匠は今回の失踪事件のあらましを話し終えた後、「これ」と言って僕にそのメモをくれた。正直貰っても困る。なんだかそこら辺に置いておくことはできなくて、持ち歩いては暇なときに眺めることを繰り返している。
どう見ても先生の字だ。丸くて可愛らしい。文字には性格が出るって言うけど、先生はそれを体現していると思う。いつも洒落た服を着て、茶色の長髪もふわふわに巻いて、なんていうか、女子って感じの女子だ。初めて出会ったとき、背中に電撃が走るような心地がしたものだ。小学五年生の春、僕の初恋だった。すぐに師匠の存在を知って、告白する間もなく失恋したけど。どうしても諦めきれずに先生の部屋に通って勉強を教えて貰ううちに師匠と知り合い、師匠のことも尊敬するようになった。この二人が幸せによろしくやっているなら、僕は友達でいいかなと思うようになるのに、そう時間は掛からなかった。
先生や師匠がランドセル脱ぎたての僕の事を「友達」と思ってくれているかは、正直微妙だけれど。
「小杉、次体育だよ」
友人に声を掛けられて顔を上げる。気がついたら数学の授業が終わって、皆ジャージに着替え始めていた。
「わり、ぼーっとしてたわ」
僕は『消えるね』のメモを手帳ごとポケットに仕舞い、へらっと笑って立ち上がった。
◆ ◆ ◆
先生が消えてから、一ヶ月が経った。
「コギトくん、おかえり」
陸上部の練習を終えて帰宅すると、師匠が玄関先で手すりに凭れ掛かり、煙草を吸いながら僕を待っていた。十一月に入って随分冷え込むようになった。本当は「師匠も女子なんだし、身体冷えるからやめなよ」などと伝えるべきなのかもしれない。しかし僕はここ数週間、師匠の耳が赤くなっているのに気付かない振りを続けている。
先生と師匠は僕を『コギトくん』と呼ぶ。最初に呼び始めたのは師匠だった。
煙草を吸う師匠の唇の端には、銀色のリングピアスが光っていた。そこから耳まで、細いチェーンが伸びている。
「ただいま、師匠。また新しいの増やしたの?」
先生が居なくなってから、師匠はピアスをするようになった。いつの間にか耳に四つ。最近開けたであろう口のピアスを合わせれば五つ。
「まあね。イカすでしょ?」
「イカすけど、大丈夫? ピアスって体質変わったり体調悪くなったりするって聞くけど」
「大丈夫大丈夫」
「口にピアス空いてんの、生で初めて見た。そこから水出たりすんの?」
「まだ安定してないからやったこと無い。半年くらいしたらやってみるわ。上手く行ったら見せてやるよ」
「楽しみにしてる」
僕は師匠の隣に立って、師匠を真似て手すりにもたれ掛かる。街並みに夕日が沈み、薄紫の空の縁は星を幾つか帯びている。先生はこの時間帯になると、よくスマホを構えて夕景を写真に収めていた。そういう写真はインスタにアップしているらしいが、僕はスマホを持っていないので見たことが無い。
「先生から連絡は?」
「無いね」
師匠は携帯電話を摘まむように持ち上げ、ぷらぷらと振った。師匠はスマホを持っていない。今時大学生がスマホを持たずに生きていけるものなのだろうかと疑問に思うが、師匠は不便無く生きているようなので、人に依るのだろう。
「……って、いうのがココひと月ほどのお約束だったけど」
師匠が薄い唇をにやりと持ち上げる。ピアスに繋がったチェーンが揺れて、薄闇の中でちらちらと光る。
「つまり、連絡があったんだね」
「まあ、そんなとこ」
「もったいぶって何の意味があるの、師匠。先生は何て?」
「……コギトくん、明日、部活は?」
微かに笑いながらも煮え切らない師匠の応答に苛つきを覚えながら、僕は低い声で返す。
「土曜だから、午前中だけ」
「じゃあ、明日の午後にウチに来なよ。詳しくは、そこで」
師匠は煙草を携帯灰皿にねじ込んで、ひらりと手を振り自室に戻ってしまった。
言われたとおり、翌日の午後一時、僕は先生と師匠の部屋を訪ねた。
「師匠、這入るよ」
僕はインターホンを押し、声を掛けてからドアノブを捻った。鍵は開いていた。
「師匠?」
返事が無い。物音もしない。僕は靴を脱ぎ、恐る恐る奥の部屋に足を向ける。
2Kの間取りは僕の家と同じだ。何度も這入ったことがあるその部屋は、電気が付いていないだけで、まるで知らない部屋のように見えた。
「ししょ――――」
ひゅ、と自分の喉笛が鳴る音がした。思わずその場で立ち尽くす。
奥の部屋。いつも先生に勉強を教えて貰った部屋。師匠と何度も囲碁を打った部屋。
そこには、人が居た。
白いシャツを着て、部屋の奥を向いて座り込んでいる。その後頭部は、先生のチョコレート色のロングヘアでもなければ、師匠のアッシュグレイのマッシュヘアでもない、男性のような黒い短髪だった。
その人は、僕の声を聞いても微動だにしない。その人の視線の先には、同じく座った人影がある。髪が長い。
「……先生?」
僕は思わず呟き、すぐに気付いた。
違う。
いつだか先生が着ていたサロペットとシャツを着て、先生の髪型で、先生のベレー帽を被っている――――人形だ。等身大の、人形。精巧な造りの顔は、綺麗だけれど生気が無い。特に目が違う。あれはガラス玉だ。
おもむろに、人形を見つめていた人物が振り向いた。
「コギトくん」
平坦な女性の声。
化粧をしていない、印象の薄い顔だった。眉毛がほとんど無くて、一重まぶたの奥の瞳は暗く光が無い。
「……もしかして、師匠?」
「どっちだと思う?」
平坦な声は、良く聞けば、師匠のもののようにも聞こえた。
「どっち、って」
「君の言う師匠なのか、先生なのか。ねえ、わたしはどっちなんだろうね。自分でも分からなくなってきたんだ」
表情を失った顔のまま、黒髪の女性は再び人形に顔を向けた。
よく見ると、女性の手元にはかつらが落ちている。師匠の髪色に似た、柔らかそうな髪の塊。そこに乗せられた右手に、紙切れが握られているのに気が付いた。僕は近付いて、その紙切れをそっと引き抜く。予想に反して抵抗なく引き抜けたそれを開くと、そこには、師匠の文字があった。
『もうアタシが居なくても大丈夫だろ。頑張れよ、先生。』
先生の文字とは似ても似つかない、習字でもやっていたような角張った文字。
「ねえ、コギトくん」
その声は先生のものであるようにも聞こえて、僕は思わず数歩後退る。
そういえば、先生が師匠と二人で居るところを、僕は一度しか見たことが無い。
あの時は確か、先生が泥酔した師匠を介抱しているところに、ノックをせずに這入ってしまったのだ。「子供がお酒の匂いさせて帰ってきたなんてことになったら、親御さんに顔向けできないよ!」と、すぐ先生に部屋を追い出された。師匠は壁際で力なくぐったりしていた。
その時、僕は師匠の顔を見たか? あれが人形でないと、確信を持って言えるか?
……記憶が、曖昧だ。
「多分、それの中に、何かのメッセージがのこされてる」
その人は、先生で師匠のその人は、僕の足元にあるスマホを指差した。
「わたしの誕生日がパスワードになってるんだけど、まだ見られてない。……怖くて」
「……あんたの、誕生日って」
先生の誕生日は八月三日、師匠の誕生日は三月十九日だったはずだ。
「二人分、足した日」
八と三で十一、三と十九で二十二。
その人は囁くように呟く。
僕は今日の日付を思い出す。十一月二十二日。今日だ。
この人の誕生日は、今日だ。
「わたしは見られない。見たくない。コギトくんが嫌なら、無理にとは言わない」
この人は、恐らく先生は、僕に「師匠の遺書を見ろ」と言っているのだ。
「……」
僕は、スマホを拾い上げた。震える手で暗証番号を打ち込む。
1、1、2、2。
かしゃん、と、ロックの開く音がした。
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