泣き虫毛虫

西順

泣き虫毛虫

 今日会社で嫌な事があった。無能課長が自分の失敗を私になすり付けてきたのだ。ふざけるな! とその場で叫びたいのをグッと堪えて、部長に頭を下げる。


 こんな理不尽が午前中にあったものだから、私はその日1日腸が煮えくり返るのを我慢するので大変だった。


 こんな日は感情を全て吐き出すに限る。しかし友人たちとは予定が合わず、私は一人で静かなワンルームに帰るしかなかった。一人カラオケで発散でも出来れば良かったのだけれど、私は音楽にさして興味が無いので、その案は真っ先に消えた。お酒も飲まないのでやけ酒も無い。


 映画でも観ようか? 最近興味を持った映画があったな。と映画館の前を通るも、興味を持った映画のポスターが、なんか違うな。と思ってやめた。


 なので帰りに寄ったコンビニで買った、激辛カップ麺の刺激でもって、少しでもお腹のイヤイヤ虫を退治してやろうと思ったのだが、それでも物足りない。私の怒りはまだ収まらない。いや、課長の顔を思い浮かべて更にムカムカしてきてしまった。こんな時には更に発散しなければならない。


 熱いお風呂に入った。いつもより2℃も温度を上げて入ったので、汗とともに嫌な気分もかなり抜けたが、まだお腹の中でイヤイヤ虫がチクチクしている気がする。今日の私の怒りは強敵なようだ。


 しかしそんな強敵も、これまでどんな難敵をも蹴散らしてきたあいつには勝てないだろう。と私は部屋を暗くしてPCの前に座る。観るのは動画。あるバンドのMVだ。


 音楽には興味が無いんじゃなかったのか? と思うかも知れないが、それは間違っていない。私はこのバンドに興味が無い。一発屋でもう解散しているし。じゃあ何でそのバンドのMVを観るのかと言えば、当然MV自体が素晴らしいからだ。なのでバンドの音は邪魔だからミュートしてMVだけを楽しんでいる。


 出会ったのは5年前の大学生の頃。友人の一人から、凄く感動するから。と勧められて観たのがこのMVだった。


 端的に言ってしまえば、なんて事の無い高校生カップルの日常を描いた普通のMVだ。でも何故か、それが私の涙腺を刺激した。


 空気感と言えば良いのだろうか? 限りなく透明に近い青いフィルターが、MV全編を通して掛けられていて、それが高校生の青春を見事に切り取っていて、私レベルの熟練者になると、最初にこのフィルターが掛けられた街の風景が出ただけで泣ける。


 私にこんな青春時代は無い。暗黒だったとは言わないが、進学校だったので、日々勉強漬けで、それでも私の成績は下から数えた方が早かった。


 MVの中で高校生カップルはふざけて笑い合ったり、ケンカしたり、泣きながら抱き締め合ったり、恐らく一般的な高校生カップルがやっているのだろう事をしている。


 それは王道過ぎる程王道で、定番過ぎる程定番で、テンプレ過ぎる程テンプレで、n番煎じの焼き回しなのに、カップルの一挙一動が本当のカップルのようで、それが段々と自分がカップルの片割れとなって本当に恋をしているかのように錯覚するのだ。


 MVの最後は二人の結婚式の場面となり、これまでのやり取りが二人の思い出であった事を想起させて終わる。


 この時には私は滂沱の涙を流しており、嗚咽を漏らしながらPCに向かって万雷の拍手を贈っている。


 こうなればもう、お腹のイヤイヤ虫も涙とともに全部体外に排出され、私の気分は晴れやかとなっており、私はこの晴れやかな気持ちとともにベッドで眠りにつくのだ。


 ◯ ◯ ◯


 もう嫌だ。何なんだあの無能課長。私の事を便利な盾だとでも思っているんじゃないか? 私を盾にすれば、部長からの口撃を防げると思っていそうだ。馬鹿だ。ゲームの盾にだって耐久値があって、それを超えた攻撃を受ければ壊れるのだ。私の耐久値はもう殆どゼロである。次に同じ事があれば、私は辞表とともに部長に直談判してやる。


 ああ! もう! むしゃくしゃする! このお腹のイヤイヤ虫を発散したいけれど、あのMVでも発散しきれなかったらと想像してしまい、最近MVが観れていない。私の耐久値が下がっている理由はそれだ。はあ、清められたい。浄化されたい。


 イヤイヤ虫をお腹に抱えて、帰り道をカツカツ早足で歩いていると、映画館が目に止まった。そう言えば観たい映画があったっけ。でもポスターがつまらなさそうだったんだよなあ。とポスターを見れば、前と少し変わっていた。色々情報が足されていたのだ。私はその監督の名前を見て、吸い込まれるように映画館に入り、件の映画を鑑賞した。


 いや、もう、冒頭から涙が止まらないんだけど。だって、この映画の監督、あのMVのディレクターだった人なんだよ。映画監督になっていたんだ。そしてこの限りなく透明に近い青いフィルター。それだけで泣けるって。


 主役は老人だった。孤独な老人が、子や孫との不和や軋轢の中、己の死期を悟り、淡々と一人静かに死と向き合い、物語の最後には弁護士が死んだ老人の遺書を読み上げるのだが、あれだけ仲が悪そうだった子や孫への愛情に溢れた遺書に、私だけでなく、館内のそこかしこから涙をすする音が聴こえてきた程だ。


 映画が終わった後、館内が明るくなっても立ち上がる人はまばらだった。私もだ。映画が凄過ぎて、腰を抜かしてしまって立てなくなっていたからだ。


 どうにかこうにか立ち上がった私は、その足でカウンターに向かい、この映画が上映中、全日予約を取った。私だけではない。他にもこの映画の予約を取った人は一人や二人ではなかった。そして私たちは初めて会った者同士だと言うのに、その足で近くのファミレスに乗り込み、夜更けまでこの映画について語り合ったのだ。


 え? 会社? 辞めたよ。あそこは私の居場所じゃないもの。

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