第2話

「しかしトリエルノ嬢よ、いったいどういう経緯でルノー殿下と親しくなったのだ? 世間の者はみな口を揃えて貴女がルノー殿下をたぶらかしたと言うが、そうではなかろう」


 宮廷からフセルフセス領へと向かう馬車の中、トリエルノの正面に座った彼女の夫は確信に満ちた口ぶりで言った。

 善は急げとバラント邸を後にした婚約者たちはあっという間に婚姻届けを作りそのまま国王に提出したので、彼らは既に正式な夫婦であった。国王の傍に控える宮廷侍従長以下、宮廷人たちがその早さに驚きあきれたのも無理ないことだった。その上、シルハーンは自ら筆を取り、戻り次第結婚式を挙げると記して自領に早馬を走らせた。


「なぜそうお思いに?」

 妻となった女が首をかしげて見せると、その夫たるシルハーン・フセルフセスは鋭い犬歯をのぞかせいたずらっぽく笑った。


「決まっている、狼は目が良いのだ。建国神話に曰く、狼の目は真実を見抜く目を持っていた。その目でもって魔力の沸き立つところを捜しだし、ひと声吠えるとそこに轟雷が落ちて囚われていた精霊たちを解放した……」

 まあ実際の建国神話はここから始まるのだが、と狼公の異名をとる男は肩をすくめて改めて妻を見つめる。


 バラント家の馬車よりも2段階ほど上質なクッション張りの椅子に背を預け、トリエルノは目を閉じて思い出話を始めた。

「ルノー殿下は私が困っているところを助けてくださったのですよ。私が生まれ持つ雷の魔法で自宅を壊してバラント家に預けられたことは、大学に入学した時点で周囲の誰もが知っていましたから、それで揶揄されることも多く」


 雷乙女いかずちおとめの異名をとる令嬢は苦笑して続ける。

「殿下がそれとなく庇ってくださいました。殿下も王族として戦闘向きの強力な魔法を生まれ持っておいでですから、思うところがあったのでしょう。私がお礼に伺ったのをきっかけに少しずつ……」

 そこでひと呼吸して、トリエルノはゆっくりと首を横に振った。今となっては美しい恋の思い出で、不思議と胸は痛まなかった。


「殿下は王族、それに比べてバラント家など取るに足らぬ新興貴族ですが、王侯貴族の責務として共に戦う約束ができたことがあの時の私には本当にうれしかった」

 そこで言葉を切って、トリエルノは苦笑する。


「まあ、フセルフセス領主夫人などというのも私には分不相応かもしれませんが」

「確かにお嬢様は貴族令嬢として一通りの教育を受けておりますが、名門フセルフセス公爵家夫人、となると……」

 女主人の隣で、それまで黙っていたメイドのアンナが難しい顔をした。


 フセルフセス公爵家は国内でも有数の名門貴族である。同じ貴族とはいえ、領地を持たない新興貴族出身の娘が嫁ぐとあってはフセルフセス内外からそれを揶揄する声もあるだろう。しかしその頭目たる男は呆れたように言った。

「領外のことはともかく、我がフセルフセスがどういう家でどういう領地か、トリエルノ嬢もメイヤ殿も俺を見ていればわかるだろう」


 言われてトリエルノは社交界の二大問題児の片割れを見つめ、少し視線をそらしてからおずおずと口を開いた。

「……”人を褒める時には大きな声で、貶める時には同じくらい大きな声で”?」

 初めて参加した夜会でこの狼のような青年が言っていた言葉だ。途端にあの日の青年のくちびるが弧を描いた。


「うむ、まさしくだ!」

「まあだいぶ変わってますわね、公は」

「前領主であった母を手本にしていたのでな」

「そういえば公のご母堂は当主の座を退いて今はどうなさっていますの?」

「我が父を連れて今は夫婦仲睦まじく国内をあちこち旅しているぞ。……と、それはともかくだ。俺は形だけになった慣習や必要以上の腹の探り合いは好かんし、やたらに名門と褒めそやされることも好きではない」


 そこで公爵は言葉を切り、馬車の外に目を向ける。馬車は既に王都を出てフセルフセス領へと向かっていた。王都から伸びるディプス大街道の両脇には庶民向けの宿が並び、その宿場町が途切れると農村地帯が広がり、地平へと沈む太陽に赤々と染められている。それを見つめるシルハーン・フセルフセスは物憂げに瞬きを一つしてから、トリエルノに向き直り彼女の手を取った。


「まあ先代領主や俺がそういう具合だから、領内の者たちも名より実を取る。故に、トリエルノ嬢、あなたにはどうか委縮せず、俺の仕事を手伝って貰いたい」

 そう言うと、フセルフセス領主は妻の手を自身の額に押し頂いた。


 一瞬驚いたような顔をしたトリエルノだったが、ふた回りほど大きな夫の手を握り返して微笑んだ。

「……公、今だから申し上げますが私、18歳で初めて夜会に出た時に公のくだんの言葉を聞いて心底痛快でした。そしていま改めて公と直接お話して、貴女の妻であることに不安はありますが、迷いはありません」


「ハ! 貴女は多分、我が領に向いている。これからどうぞよろしくお願いする」

 年若い領主はそう言って微笑み、ふと思い立ったように隣でだんまりを貫いていた執事に問いかけた。

「しかしフセルフセスに戻ってすぐ結婚式、などと早馬に託したわけだが、もしかせずとも俺は返り次第、城の者たちにめちゃくちゃ怒られるのではないか?」


 問われて、この青年貴族の乳兄弟で幼馴染だという執事カルは無感動な目で「公はご自身のことが良くお分かりで」と答えた。

「結婚式の用意にどれほど時間がかかるとお思いですか。毎度毎度申し上げていますが、閣下はご政務はともかく私生活のことになると勢いに任せすぎです」

「す、すまん……」

「トリエルノ様も今後シルハーン様のこの勢いに振り回されることがあるかとは思いますが、やってられないとお感じになったら遠慮なく退避したり、文句を言ってください」


 お手数おかけします、と黒髪の執事は頭を下げた。その歯に衣着せぬ物言いに、フセルフセル領主夫人はついに声を上げて笑った。


***


 陽が沈んでしばらくしてからたどり着いた宿場町の一番良い宿に部屋を取り、翌朝そこを出ると一行は馬車から騎乗用に調教した魔獣に乗り換え、歩を早めて夕方にはフセルフセス領にたどり着いた。


 領主は鞍上から遠くの景色を指す。

「トリエルノ嬢、あの岩肌がむき出しになった巨大な高台が見えるか? あそこが我が領の誇るダンジョン兼魔法石の採掘現場だ」

 領内は道と田畑を分けるように糸杉が整然と立ち並び、緑に萌える大地の向こうに小高い丘があり、そのさらに向こうには森が広がっていた。


 フセルフセス領は巨大なダンジョンと森を挟んで隣国に接する国境の領地である。ダンジョンからは、魔力を多分に含み世界各国で資源として重宝される魔法石が採掘される。そのようなディプス王国の要地が王家の直轄領ではなく一地方領として扱われているのは異例の事態と言って差し支えない。裏を返せば、それこそがフセルフセル公爵家と王家の信頼関係の証明でもあった。


「当然、魔法石を採掘してダンジョンの奥に進めば進むほど危険も多い。事前にダンジョンの採掘予定地を見回り、場の安全を確保し、採掘のあいだ現場の警護するのがフセルフセス騎士団の仕事の一つだ」


 領主はそう言って、自身の名代として騎士団と戦陣に立つ予定の令嬢と目を合わせる。狼の銀灰色の瞳を見つめて、琥珀色の瞳が固い声で忠告した。

「……確かに私は審議会の折、一人で魔獣を倒しました。けれどそれも5年前のことです。それだけご承知おきください」


「それならそれで構わん、採掘場の警備以外にも騎士団の仕事はある」

 分かりました、とトリエルノが返事したところで、きゃあきゃあとはしゃいだ声が響いた。


「公爵様だ!」

「領主様お帰りー!」

「領主様ー、そっちの女の人は誰ー?」

「あ、カルさんだー! お城の人たち、城主様が勝手するって怒ってたよー!」

 後方から駆けてきた子供らは口々にはやし立てて一行の乗る魔獣の足元を駆けまわる。顔を青くしたのは領主とその執事である。手綱を強く引いて素早く魔獣の足を止め、トリエルノとアンナもそれに倣った。


「毎回言ってるけど、危ないから離れなさい」

「調教済みとはいえ魔獣なのだ、暴れたらお前たちなどひとたまりもないぞ!」

 けれど子供らは大人の忠告を真に受けずケラケラ笑う。

「平気だよー」

「だって領主様とカルさんが助けてくれるもん」


 ねー、と声を合わせる子供らに、天下のフセルフセス公爵とその執事は手で顔を覆って天を仰いだ。その横でフセルフセス城の新しい住人たちは「慕われてるんですねぇ」と感心しきりである。


?」

 コテンと首をかしげて頭上に疑問符を乗せた子供らに、トリエルノは鞍上で身体を傾け子供らに視線を近づけて教えてやる。

「大好きってこと」


 途端に子供らがパッと笑顔になって胸を張った。

「そ! オレたち領主様のこと大好きなの!」

「カルさんのこともだーい好き!」

「だっていっつも優しくってカッコいいもんね!」

 きゃー、と笑い声をあげて風のように走り回る子供らだったが、それを悲鳴交じりに咎める声が飛び込んだ。


「アンタたち、領主様に何やってるの!」

「毎回言ってるけど馬とか魔獣の足元に近づくのはやめなさい!」

「ほんとに危ないからな?!」

 ダカダカと走ってきた大人たちは子供らを捕まえて道の端に避けさせつつ、鞍上の貴人たちにペコペコと頭を下げた。


「毎度毎度申し訳ございません、領主様」

「ほんっとにこの子らは何回言っても聞きやしない……!」

「そちらのご令嬢も、驚かせてしまって申し訳ございません。礼儀もわきまえぬ子供のこと、どうぞお許しください」

 心底申し訳なさそうな大人の傍で、子供たちはくちびるをとがらせている。


「馬とか魔獣とか、機嫌悪そうなときには近づかないもん」

「急いでる時にも近づかないしー」

「こっちだって絡むタイミング選んでるの」

 トリエルノが苦笑した、その時だった。


 キョキョーン、と奇怪な音が空に響いた。空を仰ぐと、魔獣の群れがあった。向こうの方から馬蹄が地を揺らす音が響き、甲冑に身を包んだ馬上の人々が弓を構えて矢を射るが、翼をもつ怪鳥たちはヒラリヒラリとそれをよけて地を這う生き物をキョンキョキョンと奇妙なリズムで鳴いてあざ笑う。


 魔獣が大きく翼をはためかせたかとおもうと、ゴウと強い風が吹いて砂塵が巻き上がり、誰もが顔を覆った。


「フセルフセス公、伏せてください! そしておかえりなさいませ!」

「採掘場のあの高台の上にいた鳥型魔獣たちです!」

「申し訳ございません、仕留めようとしたのですが我らの魔法や武器はあの調子で避けられてしまい」

 馬を駆ってやってきた甲冑の騎士たちが公爵に状況を報告すると、親の後ろに隠れていた子供らが震えた声で言った。


「あの鳥型魔獣、牛とか豚とか、ここらの畑の実りもぶんどってくんだよ」

「空から来られるとさ、困っちまうんだよな」

「空が飛べる魔法の人はほとんどいないからさ」


 一瞬、トリエルノの身体が硬直した。魔獣の撃滅、それが彼女に課せられた任務の一つである。だが今この瞬間、倒すべき相手、果たすべき任務を目前にして彼女の体は強張っていた。


 しかし、それを解きほぐすようにシルハーン・フセルフセスの大きな手が彼女の手を握り、囁くような声で言った。

「俺もあなたと一緒に出る。大丈夫だ、何も不安なことは無い」

 いつの間にやらシルハーンの手は剣を携えていた。トリエルノは真正面に迫った夫の顔を見つめて幼子のようにオウム返しにした。


「一緒に?」

「王侯貴族の務めは魔獣を排し民を守ること。故に、俺も出る」

 銀灰色の狼の瞳が勇ましく、しかし同時に優しく輝いている。それを目の当たりにしてトリエルノの心臓が強く脈打ち始めた。


「……大丈夫、です」

 そうつぶやいたかと思うと、彼女は鞍から降りて地面を踏みしめた。その足を光が覆い、バチバチと音を立てる。雷乙女は顔を上げ、フセルフセス領主の方を見ると勇ましく笑った。


「そこで見ていてください。私がどれだけできるのか」

 次の瞬間、彼女の身体がポンと跳ねあがった。光、否、雷を固めたようなヒールを履いた足は宙を踏みしめ、上空へと怒涛のスピードで駆け上がる。ぎょっとしたのは魔獣たち。キョキョ、キョキョと激しく威嚇と警戒を繰り返す。


「空を、飛んだ?!」

「公爵閣下、あのご令嬢はいったい!」

「大丈夫なのですか?」


 焦る騎士たちに反して、フセルフセス公爵は空を駆ける雷乙女を見上げてしみじみとした声色で言った。

「問題ない」


 夕焼け空の中、魔獣の前に身を躍らせたトリエルノが腕を構える。それに沿うように魔力で編まれた弓が現れた。

「あの淑女こそ、5年前の審議会で罪を問われる身でありながら魔獣が出現した際に一人でそれを撃退せしめた雷乙女」


 力いっぱい引き絞られた弓に、矢の代わりの短い雷が現れる。

「我が妻、トリエルノ・ダズリンだ」


 弦を放され、つがえられていた幾本もの雷が飛び出して鳥型魔獣たちを射抜いた。


 羽や胴を射抜かれた翼たちが力なく落ちると、シルハーンは最期の抵抗を封じるために彼らに剣を振るう。生き残りたちは形勢不利と悟ったのか、キョキョンとひと鳴きすると小さくなった群れで撤退していった。


「公、フセルフセス公、見ておられましたか!」

 淑女は弾んだ声を上げると雷のヒールで空を滑って地に降り立った。鞍上から降りた領主はそれを支えてやりつつ「見ていたとも」と返事する。

「見事な戦いぶりだ。怪我はしていないか?」

「大丈夫です! 公のおかげで身体がきちんと動きました」


 良かった、と胸をなでおろしたトリエルノは騎士団の者たちに挨拶をし、それから戦いぶりを唖然と見守っていた大人たちに声をかけた。

「皆さんお怪我が無いようで何よりです。子供が大人の忠告も聞かず無茶をするのは致し方ないこと、私にも覚えがあります」


 8歳で自宅を壊して実の父に愛想をつかされた娘は肩をすくめ、再び魔獣にまたがると子供らにひらりと手を振って魔獣を再び歩かせ始めた。

「獣の足元で遊ぶと間違って踏みつけられて全身の骨がバッキバキになるから気を付けるのよ~」


 一人でさっさと城に向かったトリエルノの妙に間延びした声が尾を引き、子供たちは互いの顔を見合わせた。

「バッキバキだって」

「だってな」

「……なんか、ヤバそうだな」

「しばらく近づくのやめとくか」

「そうね、骨がバッキバキになったら死ぬかもしれないわ」

 そうだそうだと頷き合い戦々恐々と騎馬の背を見つめた子供らに、シルハーンは笑いをかみ殺しながら地に落ちていた魔獣を一羽だけ回収する。


「これだけもらって行く。後はお前たちが好きに使ってくれ」

 フセルフセス領において、魔獣は食料であり日用品の素材であり、つまるところ重要な資源である。手早く巨大怪鳥を鞍の後ろにくくり付けた公爵は魔獣にまたがり、手を振った。

「また後日彼女と揃って挨拶に来る。どうぞ今後は夫婦共々よろしく頼む」


 駆け出す公爵に続き、執事のカルとメイドのアンナ、そして騎士たちは鞍上から一礼して主人たちを追いかけた。大人たちはそれを見送りながら子供らに感心したように言った。

「はー、あのご令嬢があの噂の審議会の」

「お強い方だったな。しかも空を飛ぶことができる、世にも珍しい天空魔法の一つ、雷の魔法の使い手」

「あの領主様が結婚するって本当だったのねぇ……」

「アンタたちが城で聞いたって騒いでた時にはまさかと思ったけど」

「めでたいことだ。なにせ3度も婚約破棄を食らったお方だからな」


 当の公爵は花嫁に追いつくと、「効いていたぞ」と笑いをこぼした。

「あれでしばらくは騎馬の足元で遊ばんだろう、魔獣退治といい助かった」

「効果があったなら何より。私もダズリン家に預けられたときに領内ではしゃいで無茶ばかりしていたんですが、そのたびにああいう感じで祖父母に脅されてました」

 ダズリン女伯爵は「ねぇ」とアンナに同意を求める。幼馴染とも言うべきメイドはため息をついて呆れた顔をした。

「私も何度お嬢様と一緒になって大奥様と大旦那様に脅されたことか」


 一行は和やかに談笑しながら農村部を抜け、城下町を通り、城を目指す。領民たちの贈り物や帰還を祝う声、そして結婚を寿ことほぐ声に応えてやり、ようやくフセルフセル領首府たる山の中腹のフセルフセス城にたどり着く頃にはすっかり日が沈んでいた。


「おかえりなさいませ城主様、そしてようこそトリエルノ様」

 城内入り口の警備兵、そして使用人たちが城主一行を迎えたが、その二言目は苦言であった。


「シルハーン坊ちゃま、毎度毎度申し上げておりますが何の相談もなしに事を進めるのはおやめください」  

 年かさの執事がため息をつき、恰幅の良い中年のメイドもそれに同意する。

「執事長の言う通りです。普通、挙式の準備は一日では終わりません。シルハーン様、こういったことはまず一言ご相談をなさってください」

「まあそれはそうとして城内スタッフ総動員でお式の準備は済ませましたが!」

「トリエルノ・ダズリン女伯爵様、この通りマイペースで知られた我らがシルハーン様ですが、男ぶりと仕事ぶりは随一ですのでどうぞ末永くよろしくお願いいたします」


 公爵があれなら執事もああで、そして城の使用人たちもこうであった。


「……皆さま私のことをご存じで?」

 トリエルノが唖然としながら首をひねると、もちろんですと返ってくる。


「審議会での戦いぶりを聞いたシルハーン様が我が領に招聘したいと散々仰っていましたので」

「我が領にて魔獣退治に従事していただきたい、と」

「5年経って修道院からお出になったら騎士職でもなんでもいいから必ず招聘するとそれはもう凄まじい意気込みで」

「まさか奥様として我が領にお招きするとは思いませんでしたが……」

「いずれにせよ我々はトリエルノ様がおいでになるのをお待ちしておりました」


 ようこそフセルフセスへ、と皆が声をそろえた。どうか委縮せず、というシルハーンの言葉を思い出してトリエルノは肩を震わせる。ここまでくるともう委縮するのは馬鹿らしいというのが彼女の正直な感想で、一歩前に出て、使用人たちに笑いかけた。


「はじめまして。トリエルノ・ダズリン女伯爵です。どうぞこれからよろしくお願いします。そしてこちらが私の幼馴染兼傍仕えのメイド、アンナです。どうぞ彼女のこともよろしくお願いします」

 トリエルノは深々と頭を下げた。ぎょっとしたのは使用人たちである。


「どうぞ頭をお上げになって、トリエルノ様!」

「ささ、外で長話というわけにも行きません。シルハーン坊ちゃまもアンナ殿もカルも中へ」

「夕食の準備が整っていますので、まずはお食事を」

「湯殿と寝室の準備もできております」


 あれよあれよと小食堂に通され食事を終えると、そのまま風呂と着替えを済ませて寝室に通された。

「ここが貴女の寝室だ、トリエルノ嬢。俺の寝室はその二つ隣のあの一番大きい扉だ。さすがに夫婦の実感も何もあったものではないから、寝室は分けている。が、何かあったら遠慮なく声をかけてくれ」

 フセルフセス公爵自ら妻を彼女の寝室まで案内してやると、周囲にいたメイドたちや執事のカルもこの新しい城の住人に声をかけた。


「環境が変わって驚かれることも多いと思います、何か不調を感じた際には遠慮なく仰ってください」

「我が城には男性医師だけでなく女性医師もおります。ご相談の内容は決して口外しませんのでご安心を」

「よく眠れるようにお部屋にアロマを置いてあります」

「枕も数種類備えておりますので気に入ったものをお使いください」


 その様子に安心したようにシルハーン・フセルフセスは静かに笑い、背を丸めて妻に視線を合わせた。

「今日は移動で疲れただろう、トリエルノ嬢。ゆっくり休んでくれ。そしてこの城を我が家だと思ってくれるととても嬉しい」

 ではな、とカルを連れて自分の寝室に向かおうとしたシルハーンだったが、トリエルノは夫の腕をくいと掴んでその足を止めさせた。


「あの、公よ」

 しかしそう声をかけたものの、ばつが悪そうに視線をそらしてしまう。シルハーンは巨体を屈ませ、小柄な伴侶に視線を合わせた。

「どうかしたか? 我が妻よ」

「……その、昨晩のお約束を覚えて、おいでで?」

 僅かに頬を染めたトリエルノにシルハーンは目を見開き、喜色を滲ませながらもそれをできるだけ抑えて彼女の手を握った。


「気持ちは嬉しいがさすがに疲れているだろう? 俺に気を使ってのことであればその必要は」

「いえ、私がそうしたくて、あの……公にはご迷惑かもしれませんが」 

 公爵の大きな手をきゅっと握り返してトリエルノがはにかんだ。


 メイドや執事たちが無言で互いの顔を見合わせ、黙ってこの場を退くべきか目配せで相談し始める。その端でメイドのアンナは苦々しい顔で眉間を抑えて顔を伏せ、カルは額を覆って天を仰ぎ、声をそろえて主人たちを咎めた。


「夜更かしはいけませんよ、お嬢様!」

「そうですシルハーンさま、結婚式を明日に設定したのはあなたですよ!」

 顔を見合わせていた者たちはコクンと頷きその場を去ろうとするが、「だって!」という貴人たちの拗ねた子供のような声で自分たちの予想が大きく間違っていたことを知った。


「昨晩宿で公とお約束したんですよ、『突撃!』のリベンジ戦をするって!」

「ああ、明日にでも受けて立つと言ったのは俺だ! 我が妻相手に約束をたがえるわけにもいくまい!」


 使用人たちは皆揃って肩をすくめてため息をついた。子供じみた言葉を叱りつけるのは側仕えの二人だ。

「そもそもこのカル・エーテク、26年生きてきて宿屋で“少々声を抑えていただけると……”などと言われたのは初めてです!」

「お嬢様もどうして移動の前夜にあんなワンゲームに時間のかかる盤上遊戯などしてしまったのですか!」


 付き合いの長い者たちに怒られ、貴人たちはすっかり弱って言い訳を重ねる。

「ごめんなさーい、だって今時代に『突撃!』を一緒に遊べる方は貴重なのよ? そもそも宿のラウンジに『突撃!』の盤が置いてあるのも貴重なことで……!」 

「カル、分かるだろう! 我が妻たるトリエルノ嬢が『突撃!』プレイヤーだった上に真っ先に糧食部隊を襲撃しに来た時の嬉しさが!」


 使用人たちが揃って嘆息した。それは成熟した大人として夫婦になったシルハーンとトリエルノの子供じみた態度に対する呆れというよりも、そんな子供じみた彼らを気に入って主を仰いでいる自分自身へのため息であった。


「……ワンゲームだけですよ、お嬢様」

「終わり次第さっさと寝てください」

 つき合いきれないとばかりに、しかし僅かに笑みを滲ませてアンナとカルが言うと夫婦は喜色満面で互いの寝室の間に設けられた扉に駆けだした。


「それじゃあ皆さま、おやすみなさい! また明日!」

「うむ、皆一日ご苦労だったな。トリエルノ嬢よ、ここがいわゆるリビングルームだ。今やもっぱら俺の趣味部屋になっているが、今日からは貴女の部屋でもある。好きに使ってくれ」


 夫婦の居室に入った二人を見送り、使用人たちは互いの顔を見合わせ苦笑し、それぞれエプロンを外し、シャツの首元を緩めて解散した。


***


「では、私が先攻を頂きます」

 一方、夫婦の居室では卓上に置かれた遊戯盤を挟んでソファに腰かけた2人がさっそく『突撃!』を開始していた。トリエルノが本隊のコマを手に取って動かし始めるのを眺め、フセルフセス公爵は目を細めた。

「昨晩も思ったが、迷いがないな」

「先攻を取り、自分の望む場所に陣を敷いた時点でやることは決まっていますから」

「確か、修道院で遊び始めたんだったか?」

「埃をかぶっていた遊戯盤を見つけたら、修道院長がたまの余暇に一緒に遊んでくださって」


 そうだったか、と言いながらシルハーンもコマを動かす。

「これはその昔、軍事演習や軍隊指揮について学ぶための遊びでもあったが、この天下泰平の世では古臭く時間のかかる遊びだ。俺も陛下や宮廷侍従長以外にフセルフセス領外でこれを遊ぶ者をほとんど見たことがない」


 それにしても、とフセルフセル公爵夫人が思い出し笑いをした。

「真っ先に糧食部隊を襲撃したのが嬉しい、だなんて」


「俺は本気だぞ。組織の長に立つ者として、優秀な人材はいくらでも抱え込みたいし面白く有効そうな作戦はいくらでも実行したいが、金と食料が無くては上手くいかん。そのあたりを分かっている者が俺の妻で、有事の際には領主名代として騎士団を指揮し、俺が所領を離れる際には領主代理になってくれるというのは心強いことだ」

 感謝する、とフセルフセル公爵はトリエルノに深く頭を下げた。


「正直、この結婚はいくら何でも即断即決が過ぎた。いかに陛下の推薦であったとしてもな」

 そんなことは、とトリエルノはコマから手を離した。公爵は同じ姿勢のまま続ける。

「俺は元より貴女をフセルフセス領に招くつもりだったが、貴女は違う。心の準備をする時間もないまま貴女を妻と定め、正式な書状まで作り、こんな国境の辺境の地まで連れてきてしまった」


 申し訳ない、と言う響きは切実だった。

「正直、夫婦としての実感もあまりないだろう。直接話したのなぞあの茶会が初めてだからな」

「まあ夫婦の実感がないのは否定しませんが」


 いくらかの沈黙があって、公爵夫人は静かな声で言った。

「……どうぞ顔を上げなさって、我が公」

 夫と目が合うと、新妻は「私は公に助けていただきましたから」と苦笑し、再び盤上のコマを動かし、続けてサイコロを振った。その結果を受けてトリエルノの指揮する軍が大きく前進してシルハーンの軍に食い込んだ。


「バラント家から除名になってダズリン女伯になった……のは良いですが、私が10代の時期を過ごしたダズリン領と屋敷は全て売りに出しましたから。あの時私は一夜を超す屋根も持たなかったのですよ」


 そうだったな、と言いながらシルハーンは敵軍の食い込んだ自軍中央を後退させる。転がしたサイコロがアタリの数字を出すと、続けて自軍の左右を突出させた。

「ダズリン伯爵家と言えば王家の狩猟番を務めた由緒ある家だ。その領地と屋敷が相続されず売りに出されると聞いたときには驚いたものだ」


「噂になるのが嫌で周囲に話が漏れぬようにしましたが、その手続きをしたのは私です。母は私が幼いころに亡くなり、特に爵位の相続権があるのは長女の私でしたから。あの広大な領地と屋敷を管理するのは大学生になったばかりの私には手に余ったので、不動産は売りに出して金銭にし、それとダズリン伯爵位を私が相続しました」


 トリエルノはサイコロを転がし、出た数値にガッツポーズをした。彼女の指揮する軍中央は突出しすぎないように足並みをそろえ、その左右では敵軍の包囲を避けようと奮戦している。


「父に愛想をつかされてアンナと一緒にダズリン領預かりになって、そこで祖父母にこの生まれ持った雷の魔法の扱いを教わりました。思い出の地を手放すのは心が痛みましたが、教わったことは私の中にちゃんとあって、私の魔法はあの懐かしい日々と研鑽の証です。それを必要として認めてくださる公を伴侶にできたというのは、嬉しいことです」


 それに、とトリエルノは真正面に座る夫を見据えた。

「一緒に戦うと言ってくださって、嬉しかった。あなたにとって当然のことであったとしても」


 そこまで言って彼女があくびをすると、シルハーンは微笑んで立ち上がった。

「ゲームはこの状態で保存しておくから、今日はもう休むと良い。送っていくから」

 トリエルノの傍まで寄って手を差し出すと、瞼の下がり始めた彼女はくちびるの端をゆるゆると持ち上げながらその手を取った。


 淡い緑の敷物が敷かれた廊下を恐ろしくゆっくり歩きながら、公爵は妻の小さな手を引いてぽつぽつと語った。

「……俺も幼い頃は危ない魔法を使うと同年代に陰口を言われて、理解のある者たちが揃うフセルフセスという恵まれた環境にいながらも傷ついたものだ。2度目の婚約破棄も、この地のあり方やそれを治める者のあり方をうまく理解して貰えず、それもそれで悲しかった」


 妻は子供のようなあどけない顔で、もの寂しげな夫の横顔を見上げた。傍若無人、自由そのもの、孤高の狼、マイペース、貴族の中の貴族シルハーン・フセルフセス。そのどれもが真実だが、それだけではないのだ。


「……私たち、似てるんですね」

 そう囁いてトリエルノが握る手に力を込めると、シルハーンは応えるように彼女の背に腕を回した。トリエルノもまた相手の背に手を回し、長く伸びた彼の銀髪が頬に触れるのをくすぐったく、くふくふと笑いをこぼした。


「我が妻よ、どうかこれからこの不肖シルハーンと末永く頼り頼られる間柄であってくれ」

「はい、我が公、喜んで」 

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