雷乙女と狼公の結婚 王子の元恋人が婚約破棄を3回食らった公爵と結婚するとこうなる

鹿島さくら

第1話

「バラント伯爵家トリエルノ嬢への沙汰を言い渡す。これより5年間を修道院で過ごし、修道院を出次第、く結婚すべし」

 これが5年前の審議会の最後に言い渡されたこと。


 そして今。


「見ろ、バラント伯爵家の長女だ。修道院を出たのは本当だったらしい」

「修道院を出たらなるべく早く結婚せよ、だっけ?」

「いるのか? 8歳で自宅の一部を壊したあの暴れん坊、雷の化身トリエルノ嬢と結婚したい男など」

「噂ではそれで実家に愛想をつかされ大学に入るまで母方の実家にやられていたとか」

「そのうえ大学在学中に我が国の第6王子ルノー殿下をたぶらかしただなんて、とんだ悪女だわ」

「それにもう27歳でしょう? 貴族としては行き遅れよ」

「それが一体どんな顔で今日の国王陛下主催のお茶会に参加なさっているのかしら」


 あたりから聞こえる噂話というにはあまりに明瞭な声を受けてトリエルノ・バラントは立ち上がり、隣のテーブルに歩み寄った。大窓から差し込む光を受けて、彼女の亜麻色の髪は黄金色に光り輝いている。

 少し離れたテーブルの者たちはぎょっとした顔で噂のトリエルノ嬢に視線を向けて完全に口を閉ざす。隣の席で噂話にいそしんでいた人々は戸惑ったように彼女を見上げた。


「ええと、ごきげんよう、トリエルノ嬢」

「修道院から無事出られたようで何より……」

「我々に何かご用ですかな?」


 問われて、実家に見放された暴れん坊の雷の化身で行き遅れの悪女はにこりと笑って言った。

「だってあなた方、わたくしの顔が見たいようだから」

 見せて差し上げているの、と朗々とした声が真昼のサロンに響いた。周囲の席の者たちもびくりと肩を震わせる。


「どう? 陛下直々のお誘いを断ることもできないこの臆病者の顔をご覧になって?」

 比較的小柄でどちらかと言えば優しげでやや幼い容貌のトリエルノだが、堂々とした立ち姿と声、そして目を細めて微笑んで見せる顔は、人々の目に異様な圧を伴って映っている。そんな彼女の問いかけに、誰もが強張った動きで首を縦に振った。

 噂の悪女は笑みを浮かべたまま満足そうにうなずいた。

「そう、ならよろしくてよ」


 くるりと踵を返してトリエルノが己の席に戻る。自ら進んで彼女と相席してやろうという変わり者はこの場にはいなかった。


 ようやく静かになった、と彼女は僅かに震える手をごまかすようにティーカップを傾ける。国王主催の茶会だけあって調度品から食器、茶葉や菓子類までこの大サロンには最高水準のものが過不足なく提供されているが、主催の姿だけが不足している。しかしそれも国王の忙しさを思えば別段不思議なことではなかった。


(陛下がおいでなら嫌味のさえずりも聞こえないかと思ったけれど)

 カップをソーサーに戻す動きに合わせてトリエルノは深く呼吸する。

(……いや、そうじゃない。今ので良い、これ見よがしな嫌味など自分で黙らせなさい。第一、陛下の御威光をお借りするだなんて最高にかっこ悪いでしょう)


 表情だけは平静を装って、皿の上のタルト菓子に手を伸ばす。フルーツとクリームで飾り付けられた菓子など、修道院では縁がなかった。


(人を褒める時には大きな声で、貶すときには同じくらい大きな声で、だっけ?)

 18歳で初めて参加したパーティーでそんなことを言っていた貴公子がいたな、と思い出してトリエルノは小さく笑う。このパーティーのことは忘れられない。何せ、その銀髪の貴公子は結局、噂話をしていた者たちと言い合いになり、最終的には一対多数の決闘にまでなだれ込んだのだから。

 トリエルノと同い年だという貴公子は美しい礼服のまま年上の貴族たちを圧倒して「口ほどにもない!」と呵々大笑していた。


(それがまさかあのフセルフセス公とは思わなかったけれど)

 その貴公子がこの国でも名門中の名門と言われるフセルフセス公爵家の若き当主であった。今ではこの時の貴公子、フセルフセス公爵とトリエルノは社交界の2大問題児、などと呼ばれる始末である。


 そんなことを思い出したところで、明るい日の降り注ぐ大応接間に鈴の音が響いた。

「我らがディプス王国国王、プリム陛下がご到着です!」

 この茶会とこの国の最高責任者の到着を告げる声に、茶や菓子をお供に再びおしゃべりにいそしんでいた客人たちは口を閉ざすと素早く立ち上がり、頭を下げた。


 ギィ、と扉が開き、静まり返った部屋に明るい声が響く。

「おお、皆、そうかしこまらずともよろしい。ほら、お座り」

 宮廷侍従長に導かれて入室した小柄な老人がニコニコと笑いながらそう言った。 

 年のころは優に70を超し、目元には笑いじわが刻まれ、口元にはひげを蓄え、いかにも好々爺といったこの老人。彼こそこの泰平を極めるディプス王国の現国王プリムである。


 老人はぐるりと部屋をめぐって招待客一人ひとりに声をかけていく。客人たちは至上の貴人からの声かけにすっかり恐縮し感無量といった様子で振舞うも、王の行列の最後尾にいる銀髪の青年を見ると互いの顔を見合わせた。


「あの長い銀髪、フセルフセスおおかみ公だ」 

「いかに我が国の要地であるフセルフセス領の領主とはいえ、何故陛下と一緒に」

「ねえ聞いた? あの狼公はこの間ついに3度目の婚約破棄をされたとか」

「ロッテンハイム公とモメて決闘したのが原因よ。婚約者のご実家がロッテンハイム家に大恩があるとかで婚約破棄になったみたい」

「それにフセルフセス領はこの国で唯一魔獣の出る危険地帯。腕に覚えがある戦士でなければあんな場所に赴くのは恐ろしいというもの」


 そんな風に囁き合う人々の上にぬっと影が落ちた。彼らは勢いよく上げた顔を青くする。

「一応言っておくが、決闘の勝者はもちろんこの俺、シルハーン・フセルフセスだ」

 噂の男本人が会話に首を突っ込んできたのだから当然の反応だった。けれど、トリエルノだけは彼のふるまいに笑いをかみ殺す。

(変わらず痛快な方だこと、狼公)


 向こうの方では、堂々とした声で己の勝利を念押しした社交界の問題児2台巨頭の片方が笑顔を浮かべている。狼公は笑うと眼光鋭い釣り目がきゅっと細くなり、僅かに開いたくちびるの合間から八重歯がのぞき、歳にそぐわぬ少年じみた無邪気さが現れる。


 シルハーン・フセルフセスという青年はその実相当な美男子である。しかしそれよりも平素の傍若無人で自由気ままなふるまいの方が先に語られ、貴公子然とした見た目のことは後回しどころか語られもしない。


「これこれフセルフセス公よ、卿は背が高いのだから話しかける時は少し遠慮をしなさい」

 実際、彼は190センチ近い長身で体格も良かった。


 国王の上品なお叱りの言葉も相まって、フセルフセス公は言うだけ言って満足したらしい。身をひるがえして行列の最後に引っ付いた。ひとつにくくった癖のある長い銀髪が背中で揺れる様は狼の尾を思わせた。

 

 国王はトリエルノの前まで来ると足を止めた。

「トリエルノ・バラント嬢、このプリムとフセルフセス公と共にお茶をご一緒させてもらってもよろしいかな?」

 客人たちが一斉にトリエルノに鋭い視線を向けた。


 全身にプレッシャーを感じながらも彼女は努めて口角を上げて目尻の力を抜くことで微笑みを作り、深く頭を下げる。

「陛下にお声がけ頂けましたこと、また本日のお茶会の席にお誘いいただきましたこと、身に余る光栄でございます。大恩ある陛下のお望みをどうして断ることができましょう」


 国王に相席したい、と言われた時点で貴族に拒否権はない。彼女の定型通りの返事が終わるや否や、宮廷侍従長が椅子を引いてそこに王を座らせる。その隣にフセルフセス公も座り、最後にトリエルノが席に着くと、王は穏やかな調子で彼女に尋ねた。

「修道院を出てまだ数日だが、調子はどうかね?」

「幸いにもつつがなく」

 笑みはそのままで返事する。


 今度はフセルフセス公が口を開いた。

「季節はすっかり春、修道院を出たばかりの身にはサロンに居座る鳥のさえずりもやかましく聞こえるかもしれんな」

 八重歯をのぞかせ無邪気さをにじませた顔でニヤリと笑う若い公爵の言わんとしたことを察して、社交界の問題児は肩をすくめて答える。

「さて、狼の咆哮一つ、轟雷の響き一つで黙るような鳥たちであれば気にするようなものでもないかと」


 途端にシルハーン・フセルフセスは面白がるように目を丸くし、声を上げてあの少年じみた顔で笑いだす。

「噂に聞いた雷乙女が健在のようで俺は嬉しいぞ」

「狼公にそう言っていただけるのなら何よりです。それはそうと、公もこのお茶会に参加なさるとは存じ上げませんでした」

「俺は飛び入りだ。ついさっきまで陛下にお叱りを受けていたのだがお説教も終わったしお前もどうだと誘って頂けてな、喜んでお受けした次第だ」


 このディプス王国内の最重要領地であるフセルフセス領を預かる公爵が「叱られた」などとあっけらかんというので、トリエルノは訳が分からないと言いたげな顔で国王に視線をやった。

「トリエルノ嬢と同じだ」

 国王はそう言ってため息をつくと、孫思いの祖父のような顔をした。


「シルハーンの判断、言い分に間違いはないが、どうにもマイペース過ぎるところがあるでな。ロッテンハイム公の婚約者に言い寄られたのはあちらに非があろうが、シルハーンが独り身であるのもそれに拍車をかけているだろう。だから早いところ結婚して身を落ち着けよと言ったばかりだ」

「つい最近婚約破棄されたばかりの傷心の男に陛下は酷なことをおっしゃる」

 そう言って若い臣下はカラカラと笑った。国の最高権威者はその態度を微塵も気にしていないらしい。 


 そうでしたか、とトリエルノは返事する。社交界の問題児二人、奇妙にも共にまだ未婚の身であるらしかった。否、問題児だからこそ、なのだが。


 国王は注がれた茶を一口飲んでまたため息をつく。

「まあ、かくいう私も末息子の結婚の世話をせねばならんのだが……」

 国王の末息子、という言葉にトリエルノは僅かに肩を緊張させた。本題に踏み込むつもりだと察してティーカップをソーサーに戻した。

 彼女が5年間を修道院で過ごしたのは、ひとえに一介の貴族の身でありながら王族の末子と恋仲になったことに対する罰だった。


「トリエルノ嬢も知っている通り、我が6番目の愚息ルノーは別段王族として大きな役割があるわけではない。我が国は今、非常に安定した状況にあるゆえな」


 対外戦争も終わって久しく、国内は国王を頂点とした中央集権制のもとに統治され、このディプス王国は繁栄を謳歌していた。街だけでなく、街と街をつなぐ街道にまで石畳が敷かれたことで流通が盛んになり国内経済も活況を呈していた。さらに港湾の整備と周辺国との関係の友好化によってディプス王国最大の産業である魔法石の輸出額も貿易局の政策で安定した利益を出している。


 目下の悩みといえばフセルフセス領にある巨大なダンジョンの存在である。ダンジョンからは時折魔獣が飛び出てきて人々に実害をもたらすのだが、当該地であるフセルフセス領の奮闘により被害は最小限にとどまっている。一時はダンジョンの封鎖や最深部の制圧なども検討されたが、現状維持で問題ないという調査結果が上がっており、つまるところ国内外は平和そのものであった。

 当のフセルフセス領主は王の隣で身じろぎ一つせず黙ってイスに座っている。


「その状況で、第6王子であるルノーに託すべき政治的役割などほとんど無いのが正直なところだ。何せ上の5人の子らが既にそれらの役割を充分に果たしているのでな」

 言いながら、国王は末息子の元恋人を正面から見据えた。トリエルノは「はい」とだけ返事して続きを促した。


「ルノー自身は今も変わらず大学時代からの研究に熱心であるし、本当のところを言うとレディ・トリエルノがあれと婚姻しても何ら実害はないのだ」

 国王は断言し、「しかし」と話をつづける。


「あれは曲がりなりにも王子であり、いつその立場が政治的に有用になるかもわからん。……まあそうならぬよう対外関係の構築に努めるのが我ら王国府の役目ではあるのだが、やはり王族という立場故にあれを軽々に結婚させるわけにもいかんのだ」

 国王は机の上に置いた手を組んだ。


「我ら王侯貴族は生まれながら平民たちにかしずかれるが、それは決して平民たちの無償の献身ではないのだ。王侯貴族はすべからくそれに応える義務があり、さらに王族は貴族にすらかしずかれることにもまた応えねばならん。その意味で貴族と王族はまた別の存在なのだ」

 トリエルノ嬢なら分かるだろう、と言われて彼女は言葉もなくうなずく。10代の大半を共に過ごした今は亡き母方の祖父母ダズリン伯爵家夫妻によく言い聞かされたことだった。正面ではフセルフセス狼公も首を縦に振っている。


「とはいえ、まあ時代が時代なのでな」

 王族の長は明るい声で言って大皿に積まれたスコーンに手を伸ばした。二つに割ってクリームとラズベリーのジャムをたっぷり乗せて満面の笑みになった老人は、大皿を若者たちの方に押しやる。


「さすがに旧来の法に則り王族との密会の罰が終身刑というのは時代にそぐわない。それに何より、審議会中に出現した魔獣を迷わず己の魔法で撃退したトリエルノ嬢の活躍ぶりは目を見張るものがあったのでな、本来の謹慎7年も5年に短縮した」


 その結果、トリエルノは第6王子ルノとーの密会騒ぎに関する審議会を経て終身刑ではなく、修道院で5年間を過ごすという沙汰が下された。一方で審議会は王子に対して王宮の東離宮での7年の謹慎が申し渡された。


 しみじみとした顔でスコーンを頬張る国王に、審議会を思い出しながらトリエルノは頭を下げる。

「自らの魔力をもって戦うことこそ王侯貴族に共通する務めなれば」

「うむうむ、さすがダズリン伯爵家の裔よ。しかし5年間の修道院生活もなかなかに大変だったであろう。今日のこの場は社交界復帰の慣らしの場として活用すると良い」

「陛下の御厚意に改めてお礼申し上げます」

「良い良い、若者がそう気を遣うものではない」


 会話が一時的に途切れたのを見計らって、黙ってばかりいたフセルフセス公は大皿からスコーンを取ってトリエルノの皿に乗せてやり、ついでにクリームとジャムの入ったポットを彼女の方に押しやりながら言う。

「レディ・トリエルノ、茶をもう一杯どうだ? 陛下もいかがですか?」


 貴族の中の貴族というべき青年が手づからティーポットの茶を注ぐのを眺めながら、彼女は20歳になったばかりの頃の恋を思い出す。

(ルノー殿下もこうやって手づから私のために茶を注いでくださった)


 人目をはばかる恋だった。恋人のルノー王子はたった一人の護衛兼お目付け役に頼みこみ、トリエルノとの密会の機会を何度も設けてくれた。深夜の大学の隅に二人だけの茶会の席も用意もしてくれた。王子は紅茶と一緒に実家から送られてきたという菓子を彼女に振舞った。


 そんなことを思い出しながら、トリエルノはこの思いがけない同席者たちの会話にも意識を払う。

「卿は黙っていればなかなか良い男なのだがなぁ」

「陛下、俺はしゃべっていても良い男ですよ」

 注がれた茶を飲みながら、国王は若い公爵と軽口をたたきあっている。

 トリエルノは静かに笑いながらジャムとクリームを乗せたスコーンを口に運ぶ。

(人目をはばかる関係が2年も続いたのは奇跡に近かった……)


 世間に対する第6王子への関心が弱い、とまでは言わずとも、あまり強くなかったことがあの2年間の恋を許した。当時すでに年の離れた兄姉たちが王国の重役について華々しい活躍をしていたのに対して、まだ大学に入学したばかりの第6王子はあまりに頼りない印象だった。もちろん王族は王族であるから、野心の強い女子生徒は勉学・研究の合間に虎視眈々と王子にアプローチをしていたのだが。 


 ふ、と軽口の応酬が止んだ。

「陛下? どうかなさいましたか?」

 不意に国王が黙り込んだ。自分のスコーンに遠慮なくジャムを乗せていたフセルフセス公が問いかける。トリエルノもスコーンの最後の一口を飲み込んで斜め前に座る至上の貴人に目をやった。


 国王は、つぶらな瞳で同席する若者たちを熱心に見つめながら答えた。

「トリエルノ嬢よ、フセルフセス公よ、思えば結婚せよと言ったがその世話をせんというのはいかにも無責任な話だと思ってな」


 同席していた若者二人は互いの顔を見合わせた。3度目の婚約破棄を食らった青年が銀色の目を丸くしながらも口元に笑みを描いたので、かつて王子をたぶらかした修道院帰りの悪女は急展開に戸惑い国王に視線をやる。

 この後に続く話が分からないほど察しが悪くなれない自分が憎い、とトリエルノは内心で毒づいた。


「トリエルノ嬢、もしもまだ誰からも婚約を持ちかけられていないのであれば、シルハーン・フセルフセス公爵と結婚するのがよかろう」

 国王の言うは貴族にとっての意味を持つ。


 それが分かっているのかいないのか、王はトリエルノを見つめて微笑み、喋ることを止めない。周囲の席に座す客人たちにも会話が聞こえていたらしい。身を乗り出すようにこちらをうかがっている。

「フセルフセス領は魔獣もよく出るが、トリエルノ嬢ほどの魔法の使い手であれば問題ないだろう。それに、社交界で少々浮いておる二人であれば存外気が合うかもしれんぞ」


 トリエルノは正面に座る夫候補に視線をやった。呆れと戸惑いと驚きの混ざった彼女の表情を見て助け舟を出したのは、意外にもそのフセルフセス狼公自身であった。

「陛下からの提言であれば喜んでお受けしますが、しかし彼女のお父上バラント伯が今頃どこかでご令嬢の婚約を取り付けているかもしれません。情報の行き違いがあってはいけませんから、一度バラント伯爵家にうかがいを立てるのが筋かと存じます」


 年若い臣下に言われて国王は頷いた。こういう時すぐに家臣の言葉を受け入れるのがこの老齢の王の数多い美点のひとつだった。

「ならば、行って来ると良かろう」

 実際、茶会もそろそろお開きの時間だった。


***


 バラント家の馬車に、その家の長女とフセルフセス家の当主が座っていた。

「公よ、どうしてあの場で拒否なさらなかったのですか。陛下といえど、公ほどの方の言葉であればお聞き入れなさるでしょうに」


 トリエルノがため息をつくと、正面に座っていたフセルフセス公爵はニコリとあの子供っぽさのにじむ顔で笑った。癖のある長い髪と相まって、八重歯の覗くその姿は実際にあだ名の通り狼を思わせる。

「嫌だったか?」


 否、狼公というのはただのあだ名ではない。このディプス王国において、狼は建国神話に登場する勇猛で聡明な神獣である。それを呼称に冠するというのは、魔獣を前にしてひるむことなく人間相手に戦って現状負けなしのこの公爵に対しての、周囲の人々からの畏怖と敬意の表れであった。


「それはこちらの質問です、公よ」

「では答えるが、俺は嫌ではないぞ!」

 トリエルノの問いに、公爵は照れもせずに答えた。

「5年前の審議会で貴女が魔獣を相手に大立ち回りして見せたと聞いた時点で、俺はあなたをどんな形であっても出来るだけ早く我が領に誘おうと決めていたのでな。我が領にとって魔獣退治は一大任務、手数は大いに限る」


「私をフセルフセス領に? 任官の誘いは喜ばしいですが、しかし公よ、今回は夫婦になれと言われているんですよ?」

 トリエルノに言われると「同じことだ」と狼はまた笑う。


「フセルフセス領において、領主の伴侶は平時、領主名代として前線に立ち騎士たちと共に護衛任務にあたるがその役目の一つになる。貴族の御位は民を背に守りながら魔獣と戦ってこそ。それができねば貴族という立場はただ平民を搾取するだけのモノに成り下がる」

 人懐っこい笑みは、王都貴族街のレンガ造りの街並みを眺めて語るうちに真面目腐った表情に塗り替わり、声もまた厳しさが滲む。


(……さすがに国内で唯一魔獣が出るダンジョンのおひざ元の領主は覚悟が違うというわけか)

 トリエルノはそんな狼公をじっと見据えて、提示された立場を吟味する。

「領主名代、ですか」

「領主は領首府で仕事に追われるのでな、その代わりだ。領主になってからの5年間、俺は書類仕事と護衛任務の掛け持ちで忙しかったので、まあ、その意味でも領主名代がいてくれると助かる」

 なるほど、と彼女は座席の背もたれに体重を預けた。


 これまでのフセルフセス公爵の婚約破棄も、前線に立つという任務に耐えかねてのことだったのだろうというのは容易に想像がついた。天下泰平のこの国で戦わなくてはいけない場面は極めて稀であり、平素から戦う覚悟ができている貴族令嬢などほとんどいないのだ。


 それにな、とフセルフセス公は言う。

「噂では、貴女は審議会の間、証言台に立って国家重鎮と王家のお歴々を前に、一つもひるまなかったと聞く。少なくともそう振舞って見せた。そして魔獣が出れば両手が拘束されているにもかかわらず迷いなく外に飛び出してこれを撃退しに行った。俺はあなたのそういうところがとても好ましい」

 シルハーン・フセルフセスの言葉によどみは無い。

「……あなたはまだ殿下のことをその心の真ん中に置いているかもしれないが」


 狼は思慮深い目でルノー王子をたぶらかした悪女を見つめる。ただ傍若無人で粗野なだけでは辺境領を一つ預かることなどできないのだ。


 銀色の狼の瞳に見つめられ、トリエルノは首を横に振った。

「自分でも薄情とは思うのですが、もうルノー殿下のことはもう気にしておりません。5年も離れていたからかもしれませんが……」

 それが悪女の本心だった。狼はピンと背筋を伸ばし、目を丸くして彼女を見つめている。

「殿下との恋を大切に思い返す気持ちはあれど、よりを戻せれば、ということは考えていません」 


「……そうであったか」

「浮気な女だと思います?」

「俺にはそれを言う気も権利もない。俺にも10年ほど前に恋人がいたからな、最初の婚約者は彼女だった」

 シルハーンはいたずらっぽく笑って首をすくめ、何気ないふうに続ける。

「それがある日突然、新しくできた好きな男と駆け落ちすると言う。当時はさすがにショックだったが、まあ半年も経てば平気になった」

「よく駆け落ちなど受け入れましたね」

 呆れつつも感心したようにトリエルノが言うと、婚約破棄を3回突きつけられた若き公爵は穏やかに笑う。


「義理を通すため、わざわざ男を伴って俺に面と向かって婚約破棄を言い渡したのだ。その覚悟を呑まぬほど俺は見苦しい男ではないよ」

 それに、と青年は新しい婚約者に微笑みかけ、実に堂々とした声で言い切った。

「誰もが初恋の相手を大人になってまで愛し続けるわけではあるまい。それと同じことだ」

 

 その時、馬車はちょうどトリエルノの実家、バラント伯爵邸に到着していた。


***


「お願いよ、お父さま。早くお姉さまを追放にでもなんにでもして!」

 バラント伯爵邸は騒がしかった。上階から聞こえてくる妹の怒鳴り声に、玄関ホールに足を踏み入れたトリエルノは身をのけぞり顔をしかめる。その後ろでフセルフセル公は目を見開いた。


 末娘の激情に応えるバラント伯爵の声が近づいてくる。

「分かっている。私もアレには手を焼かされたし真面目なお前が被害を被るよしもない。だからこうして正式な書状を作った」

「お姉さまが暴れて家を壊すから妹の私まで揶揄されて、貴族学校の初等部時代からどれだけ苦労したことか!」

「トリエルノが修道院に行ったおかげで我が家の信頼もガタ下がり。おかげで社交界では後ろ指を指され、我が家の商取引にも影響があったからな。これ以上あの娘を我が家に置くにはいかん」

「まったく、 彼女がルノー王子をたぶらかしたせいで私も浮気者なんだろうなんて言われて結局2回も婚約破棄を食らったんだから。屈辱だわ!」


 怒りもあらわなまだ幼さのにじむ声に、不意に朗々とした笑いが答えた。笑い声の主は階段の上から降りてくる二人組を見上げ、狼のような八重歯をのぞかせながら人懐っこい顔で笑って言った。

「なに、婚約破棄されたからと言って人生が終わるわけではない。この間3回目を食らったばかりの俺が言うのだから本当だぞ」


 バラント伯爵とその末娘は階下を見てぎょっとした。貴族の中の貴族、フセルフセス公爵が我が家にいるのだから無理もない反応である。けれど末娘の方は名だたる青年貴族の隣に姉を見つけると顔をしかめた。

「ルノー殿下をたぶらかして、その次はフセルフセス公? お姉さまは地位ある殿方をその気にさせるのが得意ね」


 トゲのある声に姉は眉間にしわを刻み、堂々とした声で問うた。

「私をこの家から廃嫡、除名すると?」

 バラント家当主は返事は重々しい「いかにも」だった。


「修道院行き、といえば穏やかに聞こえるが、平民でいうところの刑務所行きと同じ意味だ。そんな前科持ちを我が家に置いていてはバラント家の恥のみならず、稼業どころか妹にまで実害が及ぶ」

 そう言って父親が一枚の書状を取り出した。


「故に、バラント家当主の名をもってここに宣言する。長女トリエルノを廃嫡……我がバラント家から除名とする」

 途端にトリエルノの顔から表情が抜け落ちた。それに気づいているのかいないのか、バラント家の家長は続ける。

「トリエルノ、お前は母方の祖父母からダズリン家の伯爵位を受け継いでいる。廃嫡しても貴族の地位はそのままだ。今後の生活には問題なかろう」


 差し出された書状は当主の署名が成され、既にその効力を発揮している。トリエルノは大きくため息をつくと、そこでバラント邸の主人はふと思い出したように客人に問うた。


「対応が遅れて申し訳ない、フセルフセス公爵。あなたほどのお方がなぜ当家に?」

「うむ、念のため貴殿に伺いをたてに来たのだ。実はこのたび陛下から」


 一歩歩み出ようとした彼だったが、トリエルノの鋭い声がそれを咎めた。

「シルハーン・フセルフセス公よ、これ以上の問答は無用!」

 言うや否や、彼女はバラント家当主から書状をひったくって言い放った。


「今日この瞬間より私はトリエルノ・ダズリン女伯爵! バラント家とは縁もゆかりもないただの女貴族。故に、こちらにいらっしゃるバラント家当主に私たちの結婚伺いをする必要はありますまい!」


 その場にいた者が揃って目を丸くした。バラント伯爵とその末娘は己の失策を自覚しながら。そしてシルハーン・フセルフセスは喜色満面にしながら。


「本当か、レディトリエルノ! 本当に我がフセルフセス領に来てくれるか」

「陛下の推薦ですから。断るのも恐れ多いことで」

 トリエルノが苦笑すると、我慢しきれないとばかりに、銀髪の巨漢は幼子にする「高い高い」の要領でひょいと彼女を抱き上げ人懐っこく笑い、良く通る声で言った。


「うむ、うむ、貴女のような方が伴侶とは心強い! そうと決まれば良きことを必要以上に先延ばしにする必要はあるまい、王宮に婚姻届けを提出してさっそく我が領にご案内しよう」

 お騒がせした、とさわやかに笑ったフセルフセス公爵が伴侶を抱きかかえたままバラント邸を出ようとしたその時だった。


「お待ちください、トリエルノお嬢様!」

 上階から声がしたかと思うと、両手に大きな旅行鞄を2つ下げたメイドが階段を駆け下りてきた。女性にしては高い上背で、トリエルノよりも幾分か年上らしいメイドは息を切らせて玄関ホールまで下りてくると、乱れた髪もそのままに膝をついた。

「お嬢様、どうぞこのアンナにお供させてください」

 顔を上げたメイドの額と頬には傷跡があった。


 フセルフセス公は伴侶になる女を下ろしてやり、自身はわきに避ける。トリエルノはメイドの正面に両膝をついて彼女の手を握って言った。

「ダンジョンのおひざ元のフセルフセス領は大変よ。それに、これ以上私なんかにつき合わせるわけにはいかないわ」

「私がお嬢様と一緒にダズリン邸で大旦那様と大奥様から魔法訓練を受けたのをお忘れですか!」

「……覚えてはいるけれど」


 若い女主人はメイドの顔を正面から見据え、彼女の顔に残る傷から目をそらした。

「貴女に怪我をさせるような主についてくる必要はないわ」

「ではお伺いしますが」

 メイドは決然とした声を上げたかと思うと、女主人を手を取って己の傷に触れさせた。


「顔面にこんな傷をつけた女を雇おうという方がそこらにいるとお思いですか?」

 主の手が硬直するのを感じながらメイドは続けた。

「いないとお思いなら、責任を取って私をこのままお雇いなさい。ダズリン女伯爵」 


 トリエルノは手を震わせながら傷跡を撫でる。彼女の琥珀色の瞳が潤んでいた。

「自分に怪我をさせた女についてくるつもり? あの時私が8歳の子供だったとはいえ、あなたは私に愛想をつかして良かったのに」


「本気で嫌ならダズリン領にもついて行っていません。それに、あの時怪我をした私のために泣いてくださった貴族はお嬢様ただお一人です」

 そう明言したアンナを見つめ、トリエルノは思い出す。自分の世話係兼遊び相手として連れてこられてから今日までの20年間、このメイドが己だけを主と称し続けていたことを。


 女貴族はしばし黙り込んだかと思うと、ゆっくりと立ち上がった。そして堂々たる態度で手を差し出した。

「アンナ、これからもこのトリエルノに付いてきなさい」

 メイドはその手を取って立ち上がり、「ハイ!」と返事した。


 話がまとまったと分かると玄関ホールの端に控えていたフセルフセス公爵がメイドの持ってきた旅行鞄を持ち上げて言った。

「アンナ殿にも我がフセルフセスを気に入ってもらえると嬉しい」

「お心遣いありがたく。……ああ、公爵閣下、荷物はこのアンナが運びますのでどうぞこちらに!」

「荷物なぞ手の空いている者が運べば良いのだ」

「私も、自分の荷物くらい自分で持つわ」

「ああもう、お嬢様まで。……それで、聞かせていただけますか、お二人が何をどうしてご一緒になることになったのか」

「うむ、王都から我が所領まで時間もかかる故な、ゆっくり語って聞かせよう。さ、まずは王宮に参ろうか。我が領についたら早速結婚式を挙げるぞ」


 嵐のように来て嵐のように去って行く人々を見つめ、バラント伯爵とその末娘は開いた口が塞がらない。フセルフセス公爵が屋敷に来た理由を聞くよりも前にトリエルノをバラント家から除名する書類を作り本人に提示してしまったばかりに、自分たちが貴族の中の貴族、国王からの信も厚い公爵との縁を結び損ねたことを知りながら、唖然と3人の背を見送るしか無かった。

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