【AKRacing賞受賞!】水中夢中

天井 萌花

水中夢中

 集中している時の感覚は、水中にいる時とよく似ていると思う。

 だから、水中で集中力を発揮する私は、誰よりも集中していると言えるのではないだろうか。


 息を止めて飛び込むと、外の音が聞こえなくなる。

 水泳帽からはみ出した髪がゆっくりと舞うように浮かび上がっていく様子を見ていると、世界がスローモーションになったみたいだ。


 だけど最近の私は、多分あまり集中できてない。

 スローモーションになった世界に、呑まれてしまうのだ。


 世界と同じ速度で手足を動かして、重たい水を持ち上げるように掻き分けていく。


 ――止まってはいけない。止まると世界に置いていかれる。

 そんな焦燥に駆られ、進むことだけを考えて手足を動かす。

 近づいてきた壁に手を伸ばすと、重たそうな壁は私のスピードを受け止めようとする。

 申し訳ないが断って包囲力のある壁を強く蹴り、折り返す。


 同じようにがむしゃらに手足を動かし、見えてきた壁に手を伸ばす。

 今度はとんっとついた手から壁に受け止めてもらい、陸に顔を出した。


「ぷはぁっ!!」


 地についた足が、空気中に出た胸から上が、私に重力と空気の存在を思いださせる。

 他の水泳部員達の話し声や水の音が一気に耳に流れ込んできて、情報量で酔いそうだ。


「……何秒!?」


 酸素をいっぱいに吸った私は目の前に立っている友人、里菜りなに問いかける。

 里菜は水泳部のマネージャーだ。

この暑い中長袖長ズボンのジャージを着ていて、太陽光が反射して見ずらいストップウォッチの画面を睨んでいる。


「42.3秒!」


「はあぁ。」


 はっきりとした里菜の声を聞き、私はガックリと項垂れる。


「遅くなってるね〜、瀬戸華せとかさん、スランプですか?」


 ストップウォッチに表示された忌々しい数字を見て、里菜は苦笑している。

 そう、私青海瀬戸華あおみせとかは絶賛スランプ中なのだ。


「……基礎からやり直す。ビート板使うね。」


 私はヨイショと体を持ち上げてプールから上がる。

 濡れた足でペタペタと地面を踏みながら用具倉庫に向かった。


 中学の頃はこうではなかった。50mのタイムは必ず40秒を切っていたのに。

 高校生になってからというもの、いまいち泳ぎに集中できず、私のタイムは伸びていく一方だ。

 勿論、原因はちゃんとわかっている。それは――


「よう青海。水中じゃあ遅い足も、陸なら速く歩けるんだなぁ。」


 用具倉庫を物色していると、後ろから強く背中を叩かれる。

 振り返ると嫌味な顔で私を煽るように見下ろしている男がいた。


「人間ですから!それに私は遅くないよ!」


 語気を強めて言ってみるが、男はケラケラと笑うだけだ。

 彼は水城海斗みずきかいと。同じ水泳部の1年で、記録もよく私達の学年のエース的存在だ。

 そしてこいつは、私のタイムが落ちている原因である。

 なぜなら――私はこいつに、恋をしてしまっている!!


「遅ぇだろ。見栄張ってねえで泳げよな〜。」


 馬鹿にしたように言ってくるところはすごくむかつくのに、筋肉質で腹筋割れててかっこいいなとか、今日も目がキリッとしててイケメンだなとか思ってしまう。

 泳いでいる時もいつの間にかこいつのことを考えてしまって、全然集中できないのだ。


「見栄なんか張ってないし!今だって泳ぐためにビート板を探しにきたの!」


 だけどやっぱりむかついて、素直になれなくて、きつい言葉を言ってしまう。

 手に取ったビート板を海斗の顔に向かって投げると、「危なっ!」と声をあげて素早く避けた。


 そこは男らしく、バシッとキャッチするとこじゃないの!?

 私が投げたビート版は棚に並んでいたブイ等の入っていた箱に直撃する。

 やばい!っと思った時にはもう遅く、大きな音と共に傾いた箱ごと中身がバラバラと落ちてきた。

 あまり使っておらず埃をかぶっている道具もあったようで、狭い部屋に埃が舞う。


「どうしたんですか!?」


 音を聞いて顧問の先生が駆けつけてきた。

 先生は部屋の中を見回して大体のことを察したようで、はあっと溜息をついた。


「青海さん、水城さん、またふざけてましたね?」


「「ふざけてません……。」」


 私達が声を揃えて抵抗すると、先生はますます大きな溜息をついた。


「今日はもう解散の時間ですが、2人にはここの掃除をしてもらいます。綺麗にするまで帰れませんからね。」


「いいですか?」と人差し指を立てて先生が聞くと、海斗は渋々といったように間延びした声で返事をする。

 海斗に続いて私も返事をした。自分でもあまり乗り気には聞こえない声は、海斗のそれによく似ていた。




「はあぁー。ついでに掃除とか、鬼顧問。」


 中身の整理が終わった箱を棚に戻し、海斗は大きな声で文句を言った。


「いっぱい埃舞ったし仕方ないよ……。」


 雑巾で棚の汚れを拭き取りながら返事をする。

 部活が解散した5時半はまだ真っ昼間のように青く明るい空をしていたが、今は日が傾きかけて夕方をオレンジ色に染めている。


 最悪のシチュエーションとはいえ、片思いの人と2人っきりでドキドキしてしまう。

 こんな面倒なこと早く終わらせて帰りたいと思う気持ちと、このまま片付けが終わらなかったら、それだけ長く2人でいられるという誘惑が争っている。


「ねえ、海斗って好きな人いる?」


「はぁ!?なな、なんだよ急に。」


 後ろにいる海斗の姿は見えないが、カラカラと物が落ちる音が聞こえた。

 海斗のやつ、動揺して落としたな。


「好きな物とか、水泳以外にないの?」


「あ、そういう……まあそりゃ、あるだろ。」


 棚の上が綺麗になったのを確認して、海斗の方を見る。

 日焼けした小麦色の頬はよく見ると赤くなっていた。


「私、高校生になって好きな人ができたんだ。」


「え、青海が好きな人!?そ、そうか。」


 驚きつつも頷いてくれるので話を続ける。

 その好きな人である海斗にこの話をするのは少し恥ずかしかったが、こんなこと海斗にしか聞けないのだから仕方がない。


「好きな人ができてから、ずっとその人のことしか考えられなくて、泳いでる時も考えちゃって、いまいち集中できなくて……それでタイム落とすとかダサいよね。」


 海斗とは別の中学だけど、中学の頃から名前を知っていた。

 海斗も私も中学の頃から水泳一筋で、男子の大会の表彰台に立っている海斗を何度も見ていた。

 得意種目も似ていて同い年の海斗を、私は勝手にライバル視していた。

 だから私のライバルである海斗なら、私の邪魔をする張本人の海斗なら、この悩みを解いてくれるんじゃないかと期待した。


「海斗はそんなことないの?」


「――俺も好きなやつがいて、いつもそいつのこと考えてるよ。」


 海斗は片付ける手を止めて、しばらくしてから口を開いた。

 その姿から真剣に答えてくれているのがわかる。


「でも水に入ったら、そいつのことなんて忘れてる。泳ぐのに夢中なんだ。」


 右手を動かして水をかく動作をしている海斗は、きっと泳いでいる時のことを考えているんだろう。

 真剣で、けれど優しい目で手を見つめている。


「水の中に入ったら世界に水と、俺だけしかないみたいに思って、ただひたすら泳いでるんだ。お前もそうだと思ってたけど、違ったか?」


 真っ直ぐな目に見つめられて、私ははっと息を飲む。

 つまらないことで悩んでいたことに気がついて、恥ずかしくなった。


「……そう、そうだ。私もそうだよ!ありがとう海斗!」


 高まっていく気持ちを抑えきれず、弾んだ声でお礼を言う。

 海斗は急に元気になった私に驚いたのか一瞬目を丸くしたが、「そうか。」と柔らかく微笑んだ。


「それで、そのお前の好きな人って……。」


 海斗が何か言いかけているが、私は無視して狭い部屋を飛び出す。

「おい!」と海斗の叫び声が聞こえる。

 私はまだ濡れていて滑るプールサイドを走り、勢いよくプールに飛び込んだ。

 バッシャーンと飛び散る水飛沫の音も、水中に入ると聞こえなくなる。


 全方位から圧力をかけてくる水の重さが、冷たさが心地いい。

 こんなに気持ちがいいのはいつぶりだろうか。

 ふわりと舞うように浮かぶ髪よりも速く動く足で壁を蹴り、速く動く手で水をかいた。

 手足を動かす、たったそれだけのことで私の体は弾丸のように水をきって、自在に進んでいく。


 スローモーションの世界で、私だけが等速で動いている。

 これが、集中している時の感覚だ。

 自分の泳ぎと水だけに意識が向いていて、他のことなど何も気にならない。

 悩みという鎖から解放された今、私は無敵だ。

 何mでも、何時間でも泳いでいられる。


 止まってはいけない、止まると水に溶けて、泡になってしまう。

 止まるわけがない、この自由を、私が手放すわけがない!


 あっという間に50mを泳ぎ切り、元の場所に帰ってきた私は開放感に満ち溢れていた。

 今の泳ぎは良かった。間違いなく今年1――いや、人生で1番良かったかもしれない。

 もしかすると35秒切っていたのではないだろうか。


「おい、何やってんだよ!?」


 私が泳いでいる間にプールサイドまで来ていた海斗は、呆れたような目で私を見下ろしていた。


「海斗!競争しよ!50m!」


 軽い動作で簡単に水から上がった私は、ビシッと指を立てて海斗を指差す。

 勝負を挑まれるとは思っていなかったのか、海斗は「はぁ?」と眉を顰めながら首を傾げた。


「勝負だよ、勝負!それで、私が勝ったら、聞いてほしい話があるの!」


 今なら私は、何でもできる。

 きっと海斗にだって勝てるし、今まで言えなかったことも言える。

 だから、私が勝ったら――一世一代の大告白を聞いてほしい。


 私の想いが伝わったのかそれとは関係ないのか、海斗は上着を脱いで体を伸ばす。


「いいぜ。但し俺が勝ったら、俺の話を聞いてもらう。」


「いいよ。」


 俺が勝つけどな。私が勝つよ!等と言い合いながら、位置につく。

 海斗の準備ができたのを確認して、私はスタートの掛け声を出した。


 2人ほぼ同時に水の中に飛び込む。

 飛び込んだ瞬間から後のことは、ゴールで顔を上げるまでお互い知らない。

 だって私達は勝負をしつつも、自分と水にだけ向き合っていて。

 互いのことなど、まるで気にしていないから。

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